奥会津と上州の往還
日本人よりも日本通
『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが、日本の旅をした際、さまざまな面でサポートして信頼を得、長く交友が続いた英国の外交官がいた。アーネスト・サトウといい、3度に渡る日本滞在は通算25年間に及んだ。サトウはスラブ系ドイツ人の父親の名字で、英国人の母との間で生まれた。大学生のころ日本にあこがれ、通訳生として英国外務省に入省、文久2年(1862)に駐日公使館員として初来日した。
その後、公務の合間に日本語をマスターするとともに、日本の歴史、地理、宗教、書道、工芸などに通じていった。サトウは日本の旅案内書の出版を強く望み、日本国内で調査を兼ねた旅を繰り返していた。その成果は明治14年に『明治日本旅行案内』として英国のジョン・マレー社から発行された。その3年後には増補改定版(全3巻)が出版され、日本ではその翻訳本が出ていて、そこに沼田街道を歩いた旅が紹介されている。
「ルート52 日光とその周辺」では、日光湯元(栃木県)を起点に金精峠(こんせいとうげ)、小川の湯元(群馬県)尾瀬沼、桧枝岐(ひのえまた)(福島県)、只見、叶かのうづ津と沼田街道を歩き、叶津から八十里越で三条(新潟県)に出て、三条から新潟へは川舟という4県走破の道を紹介している。
尾瀬沼から下って桧枝岐では萬屋という農家に宿泊。大桃の手前にある鱒滝で籠を使って鱒を獲る漁法を紹介し、「カタヤマザラシ」という粗いリネン(亜麻布)の一種がつくられているとある。もしかしたらカラムシ織りのことかもしれない。この難コースは、よほどの理由がなければ日本人でも通るルートではない。日本アルプスに関わるなど、登山家でもあったサトウならではのコース選択と言えるだろう。
川添いの旅
前回(35号)に続き、沼田街道の後半を紹介する。会津の気多宮(会津坂下町)と奥会津、群馬県の沼田城下をつないでいた沼田街道を、アーネスト・サトウが歩いたのは明治10年頃らしい。道筋は尾瀬沼周辺から流れ出す桧枝岐川が途中から伊南川になり、只見で只見川に合流して流れ下る川沿いだった。川岸は急峻な崖となっている箇所が多く、春の雪解け、梅雨や台風の大雨で川は氾濫し、集落や田畑はそのたびに水につかり、歩く人は川筋を避けなければならない所がいくつもあった。
川から離れた崖の上に岪(へつり)の道を作ったり、渡し舟や丸木橋で川を渡るなどの苦労があり、只見から上流で岪と川渡しはそれぞれ5か所くらいあったようだ。明治14年に県道3等道路に指定されたが、実際に開削工事が始まったのが明治19年7月で、その工事費用は地元の負担とされ、家々に割り振られたという。
奥会津の村々
奥会津は豪雪地帯である。過酷な環境のなか、独特の民俗文化が生まれ、ほかにはない農村・山村習俗を作り出してきた。只見から南会津、桧枝岐は山仕事と木地師の村で、狩猟や川漁、麻などの織物が盛んだった。そのため木こり、茅の屋根ふき、狩猟、機織りなどの独特の作業用具が発達して、桧枝岐歴史民俗資料館などに展示されている。
中でも独特なのが農村歌舞伎である。最盛期には奥会津一帯で142か村・165か所の農村歌舞伎があったとされるが、現在も残る固定式舞台は桧枝岐、大桃、湯ノ花の3か所だけである。
沼田街道周辺の道の駅は、
あいづ湯川・会津坂下(福島県湯川村・会津坂下町)、にしあいづ(福島県西会津町)、会津柳津(福島県柳津町)、尾瀬街道みしま宿(福島県三島町)、奥会津かねやま(福島県金山町)、からむし織りの里しょうわ(福島県昭和村)、きらら289(福島県南会津町)、たじま(福島県南会津町)、番屋(福島県南会津町)、尾瀬檜枝岐(福島県檜枝岐村)
街道コラム
山人料理(ヤモード料理)
檜枝岐に伝わる伝統料理を組み合わせ、魅力的な提供をしている。それが山人料理だ。山仕事をする男たちが、そば粉、味噌、塩、酒などを山に持参し、山の幸と組み合わせて料理したもので、今は旅館などで提供している。やきもち、つめっこ、はっとう、裁ちそば、山菜やきのこ料理などのメニューが並ぶ。味の良さは折り紙付きだ。
問い合わせ/0241–75–2432尾瀬桧枝岐温泉観光協会