『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』
【机上調査編 第2回】より、前述の「日本の廃道」では未公開の、完全新規の執筆内容となります。
幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線
所在地 青森県東津軽郡平内町
探索日 2010/6/6
茂浦鉄道計画の終焉とその後
明治44年に鉄道免許を得た茂浦鉄道株式会社は、天然の良港であった茂浦港を青森港の副港となる程度まで整備し、青函間の連絡港として発展させつつ、同港と東北本線を連絡する約8kmの鉄道を建設して、貨客の輸送を行うことを計画していた。鉄道事業と不動産事業の二つの柱での盛業を目論んだのである。大正2年に鉄道工事が盛んに行われ、今も痕跡を留めるいくつかの構造物を残した。しかし築港工事は進まず、土地の買収も不調で、膨大な完成までの工事費の捻出が出来がたくなり、完成を見ないまま徒に時間を経過。ついに大正7年に免許が失効し、会社は解散した。だが思い断ち切れぬ一部関係者により、同じ事業を目論む東津軽鉄道が興され、再起を図った。大正11年再び免許取得に成功したが、工事の再開はないまま大正14年12月再び免許失効となり、以後二度と茂浦の地を踏む鉄道計画が鉄道省側の記録として再登場することはなかった。大正時代の終わりと共に、茂浦鉄道は永遠の眠りについたのだ。
最後に、茂浦鉄道計画の「その後の記録」について触れておこう。「ザ・森林鉄道・軌道in青森」管理人シェイキチ氏の調査によると、地元紙「東奥日報」には昭和時代に入ってからも茂浦鉄道に関する記事が掲載されたことがあったという。だが、確認されている記事の数は僅か二つしかない。
東奥日報 昭和5年3月20日号
見出しは「西平内村山口に停車場設置 村会で請願を決議し猛運動を開始」とあり、記事の9年後の昭和14年に西平内駅として実を結ぶ東北線の駅誘致運動の始まりを伝えている。
西平内駅の開設地点は、かつて茂浦鉄道の分岐地点で駅設置が計画されていた、西平内村の中心地である山口地区であり、記事中の最後に昔日談のような形で僅かに茂浦鉄道が登場する。
かつては大字茂浦の湾を利用し私設鉄道株式会社の創立あり、既に『トンネル』を貫き線路の大部分竣工し、停車場はほとんど設置せんとしが、経済的変動により中止の悲運を見るに至り候
この記事には些か読者に印象深くするための誇張があるのか、まるで茂浦鉄道が完成間近まで行きながら悲劇的に完成を見なかったような書き方になっている。しかしそれを差し引いても、日夜轟音と煤煙をまき散らしながら、ただ村内を通過されるだけの西平内村住人にとって、駅が欲しいというのは偽らざる本心であったろう。
東奥日報 昭和9年5月22日
これがおそらく東奥日報紙上における茂浦鉄道の名が語られた最後の記事だ。小さな村に華やかな未来像を壮語しながら入り込んできた鉄道計画の夢の跡に、かつて用地買収に応じた住人たちの辛い境遇が残されたという、悲しい現実の記事である。
東郡西平内村大字茂浦の○○○○氏外二十三名の小作地約二十町歩(価格二万円)は、奈良市の山口城之助氏の所有にかかり、明治初年軍港として適当であると榎本武揚が主張した事から私鉄敷設の問題を生じ、当時の県令の仲介により右小作人等はその所有地を売却する処があった。しかるに鉄道計画は失敗に帰したため、小作関係を持続して今日に至り――
記事は続き、最終的にこれらの土地は県の斡旋で、小作人となっていた旧所有者の手に戻ったということになっている。一応、元に戻ってハッピーエンドかも知れないが、茂浦鉄道の設立から既に25年も経過し、この間たいへんな心労と迷惑があったことだろう。
それにしても、最後に驚くような新情報がさらっと出てきた。榎本武揚が茂浦築港の発案者であった?! 初めて聞いたぞ!
榎本武揚が茂浦築港の発案者であるという説については情報源が少ないが、『平内町史』が次のように典拠を挙げず短い記述を置いていて、私の検証は及んでいないが、事実であるらしいように感じられる。
明治二十六年、榎本武揚は茂浦港と朝鮮雄基港の外国航路を計画したが、時の首相大隈重信の時代に、帝国議会の承認を得ることが出来なかった。
江戸幕府の重臣として海軍を掌握し、幕末は五稜郭に立てこもり箱館戦争を首謀するも、数年後に明治政府の上席に加わり、外交、特にロシア問題で大きな功績を残した異能の人物が榎本武揚である。逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣なども歴任した多能の男だ。
残念ながら、彼がどういうきっかけで茂浦という小さき港の将来性に目を付けたのかなど謎は多いものの、彼は茂浦の静かな海の向こうに、間近である北海道を遙かに超えて、ユーラシアを横断する大シベリア鉄道の終点ウラジオストクにほど近い、朝鮮半島北端の港湾都市雄基(現在の羅先特別市)を想ったことがあったのだろうか。
ちなみに、彼が港の整備を提案したという話は、茂浦港と同じ平内町に現在は属する小湊港にも伝わっているようである。
小さな漁村を四半世紀ばかり賑わした、しかし終わってみれば記録の少ない構想の原点は、案外、このような偉人による、酒宴かどこかでのちょっとした発言にあったというのも、ありそうな感じがする話である。
【完結】