「おでかけ・みちこ」2020年12月25日掲載記事

奥会津を貫く重要路

 

① 柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺と只見川(柳津町柳津)

旅に暮らした良寛

 良寛さんというと、子どもの頃読んだ本から、村の子どもたちとかくれんぼしたり、日がな一日手毬で遊んだりしている姿を思い出す。
 良寛を紹介する文章を読むと、寺を持たず質素な暮らしに徹し、旅をよくしたと書かれているが、旅の足が東北まで伸びていたことはあまり知られていない。そんななか、東北における足跡の一つに、福島県会津地方の柳津がある。
 良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧で、歌人や書家でもあった。今から約260年前の宝暦8年(1758)、越後の出雲崎に生まれ、生家は庄屋を務める裕福な家だった。18歳の時に出家し、隣町の尼瀬(あまぜ)にある光照寺、その後、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)円通寺で32歳ころまで修行の日々を送った。円通寺の国仙和尚から「生涯好きなように旅を・・・・・・」と教えられ、西日本から東日本各地を回るようになった。
 48歳で越後に戻り、蒲原(かんばら)郡国上(くがみ)村(現燕市)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(ごごうあん)で61歳まで過ごした。60歳ころに東北南部を回ったようで、柳津町つきみが丘に立つ説明看板によると、越後から江戸、会津、米沢、鶴岡、越後と回ったと仮定されているようだ。
 つきみが丘には良寛像が立てられ、そばに「也奈伊津(やないづ)の香聚閣(こうじゅかく)に宿り早つとに興おきて眺望す」と、柳津で読んだ五言三十句の長詩碑がある。

 

② 柳津のつきみが丘に立つ良寛像(柳津町柳津)
③ 気多宮の追分道標。越後街道の宿場だった塔寺に立つ。ここが沼田街道の起点(会津坂下町気多宮)

 

会津から上州沼田へ続く道

 柳津に向かう良寛が歩いたと思われる沼田街道は、江戸時代は3本の街道から成り立っていた。会津坂下町の気多宮(けたのみや)から只見までの「伊北(いほう)街道」、只見から山口(南会津町)までの「伊北越後道」、そして山口から檜枝岐を通って上州沼田(群馬県)まで続く「沼田街道」だったが、明治14年に県道三等沼田街道として一本化された。ここで上げたそれぞれの街道名は他称もあり、かなり複雑なので、ここでは沼田街道で統一し、上下2回に分けて紹介する。
 この道は参勤交代路ではなかったが、奥会津と上州をつなぐほか、越後に向かう八十里越(第30回で紹介)、六十里越の街道が只見から別れ、さらに山口から別れた道は下野(しもつけ)街道で会津若松や日光方面とつながり、奥会津の生活には欠かせない重要路だった。その道筋は川幅が広く水量の多い只見川と、その支流で急流が続く伊奈川沿いにあったため、難所が多く通行するには難儀な所もある道であった。

 

⑤ 宮下の古碑群。只見川に架かる高清水大橋の右岸たもとにある(三島町宮下)
⑥ 沼沢湖畔、沼沢の様子。かつては街道交通の要衝として栄えた宿場町だった(金山町沼沢)

 

塩の道、参詣の道

 越後から会津に運ばれる塩の道は幾筋かあった。そのうちの一つに、阿賀野川の舟運で津川まで運ばれて荷揚げされ、越後街道で東に向かうルートがあった。越後街道の宿場・野沢で荷は二つに分けられ、そのうちの一つは現在の国道400号に沿った西方(にしかた)道で山越えし、沼田街道の川港だった西方に運ばれ、各地に散った。越後とつながる八十里越、六十里越の街道からも塩は運ばれてきて、沼田街道を使って各地に運ばれた。
 また、沼田街道沿いには、日本三虚空蔵(こくぞう)の一つ柳津の福満(ふくまん)虚空蔵尊圓蔵寺(えんぞうじ)がある。会津地方有数の霊場として知られ、会津藩歴代藩主を始め、参拝客が引きも切らず押し寄せ、大変な賑わいを見せた。上州や奥会津から、山形の出羽三山詣でに向かうにも、この街道が便利だった。そのため街道沿いには、湯殿山碑を始めとした三山碑が数えきれないほど残されている。

 

⑦ 塩竃神社。かつて只見川沿いに塩泉があり、製塩が行われていたが、滝ダムの建設で湖底に沈んだ。神社に製塩図が残されている(只見町塩沢)
⑧ 五十嵐家。以前は只見字上町にあった。昭和48年、町が八十里越の追分に建つ叶津番所跡の隣に解体移設した(只見町叶津)

沼田街道周辺の道の駅は、

あいづ湯川・会津坂下(福島県湯川村・会津坂下町)、にしあいづ(福島県西会津町)、会津柳津(福島県柳津町)、尾瀬街道みしま宿(福島県三島町)、奥会津かねやま(福島県金山町)、からむし織りの里しょうわ(福島県昭和村)、きらら289(福島県南会津町)、たじま(福島県南会津町)、番屋(福島県南会津町)、尾瀬檜枝岐(福島県檜枝岐村)

 


街道コラム

柳津名物 あわまんじゅう

 福満虚空蔵尊の門前町には、3軒の「あわまんじゅう屋」が並んでいる。今から約200年前の文政元年(1818)、円蔵寺伽藍や門前町の一部が火事に会い、住職だった喝岩和尚が、会津藩などから復興費用を工面した。その際、「このような災難にもう『あわ』ないように」と、あわまんじゅうを考案したと伝わっている。昔からの人気スイーツだ。