「おでかけ・みちこ」2019年9月25日掲載記事
八十里 こし抜け武士の越す峠
敗走する河井継之助
幕末から明治初めの日本を揺るがした戊辰戦争。旧幕府軍に付いた東北と越後の各藩は、「奥羽越列藩同盟」を組織し新政府軍と戦った。越後の雄藩だった長岡藩は、当初、武装中立を目指していたが、新政府軍は受け入れず、長岡の町に攻め込んできた。その戦いを指揮したのが長岡藩家老の河井継之助だった。
一度は落城した長岡城だったが、会津、仙台、庄内、米沢など同盟の諸藩が長岡藩を支援し城を奪還するも、再度落城して退却せざるを得なくなり、支援の各藩も一斉に撤退することになった。長岡から会津への退却の道として、越後山脈を越える八十里越を選択したが、継之助は左膝に銃弾を受け重傷を負っていた。急ごしらえの担架に乗せられ、八十里越の道を敗走することになった。
越後側最後の宿場である吉ケ平(よしがひら)で継之助は、「会津に行ったとて何のよいことがあるものか、己は行かない、置いていけ」と会津行きを承知しなかったという。吉ケ平の肝煎・椿庄之丞に説得されて会津に向かい、国境のあたりで休憩した時に「八十里 こし抜け武士の越す峠」と自嘲嘆息の句を詠んだ。山中で一夜を過ごし、どうにか只見の叶かのうづ津にたどり着いたものの、傷は手が付けられないまでに悪化し、塩沢の医師・矢沢宗益宅で亡くなった。
奥会津と越後を繋ぐ重要路
八十里越の呼び名は、中世時代の坂ばんどうり道里(六丁(ちょう)を一里とした)の単位で、叶津から下しただ田村までの距離が八十里であったことが、その名の始まりである。また、叶津から吉ケ平までは八里(約32 キロ)の峠道であるが、難路のため10倍も難儀するということから、険しい峠にふさわしい「八十里越」と呼ばれるようになったともいわれている。
この道を大きくみると叶津から吉ケ平、下田を通り、今の新潟県三条までが本ルートだった。他にも見附(見附市)~上条(長岡市上塩)~葎谷(むぐらだに)(長岡市)~吉ケ平など、いくつものルートがあった。
会津からは蚕、麻、からむし、煙草、馬などが、越後からは三条の金物、塩、味噌、塩干魚、干麺、酒などが運ばれた。たびたび会津も越後も飢饉に襲われたが、峠を越えて被害が少ないほうに逃げたり、米を運んだりした。そのほか、三味線を背に背負た越後の瞽女(ごぜ)、養蚕や田植えの手間稼ぎなどが峠を越えた。
いまだ工事が続く八十里越
時代になって行き来は本格化したが、道の崩壊は多く、人がすれ違うのもやっとという箇所が多かった。
会津側は「南山御蔵入領(みなみやまおくらいりりょう)」という幕府の直轄地で、天保14 年(1843)幕府の判断で、改修工事を越後の村松藩と分担して行い、人馬が楽に通行できるようになった。明治14年、明治27年と改修を行い、県道に編入されたが、国鉄磐越西線の開通、度重なる大雨で崩落があり、八十里越は歴史から消えた。
ところが昭和45年、八十里越の再開発計画がでた。新潟市と福島県いわき市を結ぶ国道289号である。多くが山間部を通るルートのため、難工事区間が多く、最たる箇所は福島県西郷(にしごう)村の甲子(かし)峠とこの八十里越だった。平成20年に甲子トンネルを含む工事は完成し、あとは八十里越の開通を待つばかりとなった。
街道コラム
八十里越バスツアー
取材で会津側の入叶津に行ったところ、工事で通行止めとなっていた。係のおじさんに完成時期を聞くと「2022年ころらしいよ」とのこと。
いま、両県で八十里越の道路工事を見学するバスツアーが人気だ。特に三条市が盛んで、毎月のように道の駅・漢学の里しただからバスが出ていて、年内は予約でいっぱいだという。地元の期待が伝わってくる話だ。