「おでかけ・みちこ」2018年6月25日掲載記事
仙台領と南部領をつなぐ浜道
伊能忠敬が測量した海岸沿いの道
江戸時代後期、日本中を測量して歩き「大日本沿海輿地(よち)全図」という、正確無比な日本地図を作製した伊能忠敬。酒造や米穀取引などを営む佐原村(千葉県佐原市)の伊能家に18歳で婿養子となり、家業を大いに盛り上げた後、50歳で隠居をした。
ここからが忠敬の本領発揮で、天文学、地理学、暦学、測量術などを本格的に学ぶため、当時、西洋流天文歴学の第一人者だった幕府天文方の高橋至時(よしとき)の門下生となり、その指導を仰いだ。56歳の時(寛政12 ・1800年)、幕府の許可を得て、江戸から東蝦夷地の測量に出発した(第一次測量)。蝦夷地の往復には奥州街道を使い、江戸にもどって東蝦夷地と奥州街道沿線の地図の作製をした。
翌年、第二次測量として、伊豆半島、房総半島を回った後、今の千葉、茨城、福島、宮城県の海岸を測量しながら北上し、岩手、青森県まで測量した。
その際、仙台から金華山道を使って牡鹿半島を回り、雄勝、志津川、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石と太平洋沿岸地域を測量した街道が、今回紹介する気仙道(けせんみち)である。忠敬は気仙道から先は、三陸浜街道を測量し ながら宮古、久慈、八戸まで北上し、その後も海岸沿いの浜道を測量し続けることになる。
前半は田園地帯、後半は峠道が続く難路
この街道は、仙台から気仙方面へ向かう道ということで「気仙道」と呼ばれたが、岩手県では単に「浜街道」と呼んでいた。明治になってからは「陸前浜街道」と命名され、現在は国道45号が通り、高速道路の三陸自動車道がほぼ同じルートで建設されている。
街道は仙台から東松島市小野までは金華山道と重なっていて、その後、石巻市や登米市の旧北上川近くの田園地帯を進み、南三陸町となった志津川から先は海岸を右手に見ながら北上していた。平成23年に起きた東日本大震災では、この街道沿いの集落が津波に飲み込まれ、大きな被害にあっている。気仙沼から先は山道と海辺の道が交互に存在し、山道の峠越えでは旅人は苦労を強いられた。
そのためか、蝦夷地など北を目指す文人墨客は、あえてこの海岸沿いの難路を選ばず、内陸を縦貫していた奥州街道や羽州街道を歩いたようだ。残された旅の記録も少なく、当時の街道沿いの様子を垣間見ることが難しいなか、忠敬の測量日記である『沿海日記』は貴重な記録となっている。
唐丹に残る忠敬の偉業の碑
現在の釜石市唐丹町(とうにちょう)と釜石市平田(へいた)の間にある石塚峠が、当時の仙台藩と盛岡藩の藩境で、気仙道はこの石塚峠が北端となる。峠の両側にはそれぞれの藩の番所が置かれ、通行人に目を光らせていた。
唐丹は、リアス海岸に作られた漁港をもつ村である。東日本大震災による津波で大きな被害を受けたが、この唐丹に忠敬に関係した史跡が残されている。「陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑」(測量之碑)と「星座石」と呼ばれているもので、唐丹に住む葛西昌丕(かさいまさひろ)が、文化11年(1814)に建立した。忠敬にとって、生前に建てられた唯一の記念碑となっている。この「測量之碑」と「星座石」については、不明な点がいろいろあり、歴史家などが謎解きに取り組んでいる。謎はさておき、忠敬の測量にかけた熱意に対して建立された碑であり、日本の地図製作に関係した貴重な記念物であることは間違いない。
街道コラム
みちのく潮風トレイル
東日本大震災をきっかけにして、東北の太平洋岸に整備中のロングトレイルコース。福島県相馬市から青森県八戸市まで、新しい道を作るのではなく、トレッキングコースや登山道、旧街道などの道をつなげ、太平洋沿岸の素晴らしい景色や食を、歩いて楽しんでもらおうというもの。
全体を大きく四つのコースに分けていて、そのうち宮城県石巻市から岩手県大槌町までが「リアスの海岸と旧街道をたどる道」となっている。