「michi-co」2017年6月25日号連載記事
かつては嶺渡りの難路
明治の文学者、東北を歩く
日本を代表する俳人、歌人のひとりだった正岡子規。今の愛媛県松山市生まれで、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公・秋山真之の友人として、NHKの大河ドラマに登場して茶の間に浸透したが、その業績は一般的にはあまり知られていない。
俳句、短歌、小説、文芸評論などをこなす多彩な文学者だったが、持病の結核がもとで重度の脊髄カリエスにかかり、歩くこともできなくなった。発病する前は野球と旅を好む青年だった。
26歳の時(明治26年)、その2年前に全線開通した東北本線を使って、東北地方に旅立った。目的は歌枕の地・松島と象潟を訪れること。仙台から松島まで行き、その後、関山峠を徒歩で越えて山形の東根に行き、最上川を下って酒田、象潟に旅をした。最終地点は秋田県の八郎潟を望む三倉鼻(みくらはな・八郎潟町)だった。
その時の旅をつづったのが『はて知らずの記』で、随所に俳句と短歌がちりばめられた紀行文となっている。江戸から明治に時代が変わり、交通手段は大きく様変わりし始めたころ。この本で「奥羽北越の遠きは昔の書にいひふるして今はたとへにや取らん」と表わしている。奥羽本線の全線開通はその12年後だった。
関山峠を越えたときは、明治15年開通の新道を通った。峠には隧道が造られ、嶺(みね)渡りといわれた急峻な峠道は、風通しのよいトンネルになっていた。
隧道のはるかに人の影すゞし 子規
急峻なため利用が少なかった山越え道
関山街道を宮城側では「関山越最上街道」、山形側では「仙台街道」とも呼んでいた。仙台から天童に至る、現在の国道48号とほぼ重なるルートである。
関山街道の西側には二口(ふたぐち)街道、笹谷街道という、仙台と山形をつなぐ奥羽山脈越えの街道があり、3本の街道は脇街道で密接につながっていた。明和9年(1772)に東北地方を旅して『奥游日録(おうゆうにちろく)』を残した中山高陽は、関山街道の途中から二口街道に抜け、山寺見物をしている。
峠が急峻なため、荷物の輸送ルートとしては敬遠されたが、出羽三山に向かう講の人たちは、この道をよく利用した。いまでも旧道沿いに湯殿山・月山・羽黒山と彫られた石碑を多く見ることができる。
山形県令・三島通庸(みちつね)
「土木県令」ともいわれ、「県の経済を発展させるには、まず第一に交通の整備が必要である」を持論とした三島は、東北開発の一大物流拠点を目指した、宮城県の野蒜(のびる)築港計画につなげる道路の開削を検討した。そこで選ばれたのが関山街道ルートだった。
旧峠の標高790メートルに対し、開通した関山新道は594メートル。開通後は月に300駄以上の荷が行きかい、一時は仙台・山形間の荷のほとんどを占めた。しかし、東北本線、奥羽本線の開通で様相が一転し、関山街道を通る荷物は激減した。
現在は国道48号を1日1万台ほどの車が行きかい、山形自動車道とともに、仙山交流に欠かせない重要路となっている。
街道コラム
子規と歩いた宮城
仙台市に住む画家の古山拓さんは『はて知らずの記』に魅せられ、その足跡を訪ね歩いて、河北新報紙上に水彩画紀行を30回にわたって連載した。スタートは東日本大震災から3か月後だった。
古山さんは、震災後の松島と、子規が旅してから119年後の宮城の変わり様を、水彩画で淡々と表現した。連載は『子規と歩いた宮城』として、1冊の本にまとめられている。