このレポートは、「日本の廃道」2012年8月号および2013年4月号ならびに5月号に掲載した「特濃!廃道あるき 駒止峠 明治車道」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。

所在地 福島県南会津町
探索日 平成21(2009)年6月26日

2009年6月26日 9:02
旧駒止峠(大峠)頂上

海抜1150mの旧駒止峠の頂上は、東西方向に通じる天然の鞍部であり、道はほぼ地形に手を加えずに越えている。空は巨大な樹木に覆われており、木陰に風が吹き抜ける峠は快適であり、幾らでも滞在していたい気持ちよさだった。だが、出発から3時間を費やして辿りついたこの場所は、探索の中間地点に他ならない。ここから、下りという名の後半戦が始まる。

この先、下りの区間の地図をご覧頂こう。

南郷側への下りの道は、大部分が、現在の地形図に描かれていない。これがここまでの田島側の上りの道との最大の違いである。

現在地である峠の頂上から約500m先に、一連の旧々道沿いで5基目となる「水準点」が表示されているが、その次の水準点は、どこにも描かれていない。この本来の続きの道は、「小屋沢」という名の谷を下った先の現国道「駒止トンネル」西口付近より再び始まる破線の道が、それである。この途中の「描かれていない区間」の距離は、直線なら約900mに過ぎないが、高低差は200mもある。地形図上でも等高線の過密ぶりがよく分かる。

これはカシミール3Dで製作した小屋沢の立体的な地図だ。この画像では、谷の急峻な地形が分かり易い。標高1133mの水準点地点から、930m付近の徒歩道終点まで、地形図に道が描かれていない区間は、小屋沢源頭の急斜面に支配されている。果してどのような道を設ければ、ここを緩やかな勾配で切り抜けられるであろうか。

しかし事実として、明治20年代の南会津郡民はこの急峻な斜面に道を切り開き、そこに国が水準点を設置するほどの「幹線道路」を、確かに誕生させている。それは間違いない。問題は、その現状が誰にも分からないことであり、私はそれを知りたい。

続いて、大正3年の地形図をご覧頂こう。

大正3年測図の5万分の1地形図には、現在の地形図からは抹消されてしまった南郷側の峠道も、ちゃんと描かれている。だが、既に旧道となった後の姿である。既にこの道の北側に「駒止峠」の名を持つ「県道」が登場しており、旧駒止峠となった峠には、もう峠名の注記もない。この県道が現在の旧国道であり、今回探索している道が開通した19年後である明治40年に開通している。

そして、この大正3年版の地形図には、現在の地形図からは道と共に抹消された水準点も全て描かれている。図中の4つの赤い点が、現在の地形図からは消失した水準点だ。

だが、これらの水準点については、探索前から大きな疑問を持っていた。それは、水準点の間隔が過密過ぎるという疑問である。

幹線道路沿いの水準点は、明治初期から今に至るまで、沿道のおおよそ2km毎に設置される習わしがあって、道路の距離標ほど厳密ではないものの、私はここから大きく外れた例外を意識したことはこれまでない。

だが、この図にある水準点の間隔は、一部が極端に狭い。具体的には「1133m」とその次の「1037m」の区間、さらにその次の「941m」までの区間が、狭い。計算上はこの3つの水準点の間には約4kmの道のりがあるはずだが、地形図上の道をなぞっても、半分の2kmもなさそうに見える。4km→2kmは誤差としては度が過ぎる。

なぜだろう? 道の蛇行を、地図が省略して描いていることが疑われた。もしそうであるなら、実際には強烈な九十九折りが隠れていると思う。そうやって急峻な谷の地形を克服したのではないだろうか。

前置きが長くなった。これから実際に突入し、この身で以て真実を解き明かす。

峠の地形は非常に緩やかで、どこが厳密な意味での頂上にあたるのか明瞭ではなかった。だが、南郷側の下りが始まる辺りは、樹木に空を覆われた峠の中で唯一明るい場所として最初から見えており、そこがなぜ明るく見えるのかが気になっていた。峠での約10分の休息を終え、その明るい場所の始まりに立って写したのが、この写真である。

ここから数歩、のれんをくぐるように枝葉を分けて進むと、道は予想外の変化を見せた。

うおっ! 明るい!!

峠を覆う、千古不伐を思わせる大森林だったが、意外にも、南郷側は峠の一歩先まで伐採の手が及んでいた。盛大に切り払われた後の明るい森がそこにはあった。とりあえず人がいる気配はないが、最近も山林作業が行われていた気配があった。急にブルドーザが現われても不思議ではない感じ。

峠の鞍部の延長線上に自然に現われた緩やかな谷筋。これぞ、この先の長い下り道の伴走者となる小屋沢の始まりに他ならなかった。谷の周囲は伐採のため高い木が全くなく、峠の田島側を満たしていた薄暗さは全くない。ギラギラした高所の空が近い。

旧駒止峠の六地蔵は、発見できず

『会津の峠 下』(歴史春秋社/昭和51年)には、この旧駒止峠に「巡査殉職の碑」と「六地蔵」が建立されていたことが出ている。明治14年1月(旧旧道が開通する以前だが、駒止峠を通る針生街道は近世以前からあった。途中の経路は違っていた)に、山口村(後の南郷村中心部、現在の南会津町山口)で大規模な賭博が行われているとのタレコミを受けた二人の巡査が、摘発のため、大雪を圧して田島側からの峠越えを敢行した。しかし、不幸にもこの頂上付近で猛烈な吹雪に遭って行動不能となる。2日後、通りがかった入小屋村の住人に救助され一人は回復したが、佐藤大吉巡査が殉死した。この事件を受けて、「当時遭難現場に墓標が建てられたが、往時の道路は林野となり、今は墓標も遭難現場より50メートル余はなれた六地蔵の所にうつされ、侘びしくも草中に建っている」と記録されているのである。今回、六地蔵と殉職碑を探したが、発見に至らなかった。一帯は伐採によって明るくなり、背が低い灌木が低い位置の視界を遮りがちである。そのため見つけられなかったのかも知れない。

9:18
峠下の広場(水準点地点)

大きな景色の変化に驚きつつも、ここは既にこれまでのような廃道ではなく、現役の林内作業路であったから、これまでより歩行ペースは早かった。10分足らずで地図上を500m前進し、地形図に標高1133mの水準点が描かれている地点に到着した。

そこには広場があり、広場の向こう側には自動車の新しい轍が刻まれていた。そこには見慣れた林道の終点があった。私は、安堵とともにいくらかの興醒めを味わいながら、小さな広場に水準点の標石を探したが、それらしい物は見あたらない。どう見ても林道の終点としか見えないこの場所に、明治を思い出させる「あの標石」があったら愉快だと思ったが、見つからなかった。既に失われてしまったのか。ここへ来るまでの廃道で、たった1箇所見つけられたことが、もう奇跡に近かったのかもしれない。

「林道が現れて、この廃道探索も終わりかな」なんてことは、全くなかった。そんなことは考えもしなかった。むしろ、私が進むべき廃道の険悪な状況が一層際立つ形となった。

なぜなら、この広場から先へ行く道は1本しか見えないが、目指す旧旧道はそこではないから。目指す旧々道は、目に見えない2本目の道となって、点線の矢印方向に進んでいる可能性が高かった。

しかし、
本当に道が見えない。

道が見えなすぎて、さすがにそこに道がある確信を持つことが出来ず、怪しみながらも、一旦素通りして、そのまま目に見える林道に進んでしまった。これは心の弱さを反映した行動だ。だが、気持ちは常に左方へ注がれていた。

この林道は、明らかに旧旧道の続きではない。これは現在の地形図にも描かれている道で、旧国道の駒止峠から伸びて来た林道だ。これを行けば2.2kmほどで駒止峠に辿り着けるはずだが、今回そのお世話になるつもりはない。水をささないでくれよ!

うーーーん、 ダメだなこれは……。

この楽な道を進んでいっても、どんどん目的から遠ざかるだけだと思う。

左方向に分岐する旧々道の出現を待ち望んでいるが、やはり都合良く現われたりはしない。やはり先ほどの広場で、分岐していたのだろう。

いまなら、たぶんまだ遅くはないはず。目指す道がきっと眠っている左の谷に、この場所から入ってみよう。なんの目印もない場所だが、早いほうがいい。

私は、峠に差し伸べられたお助け道を蹴り捨てて、明治が作った幻の峠路、“約束された険路”へ、進路を向ける。これぞ、廃道探索の醍醐味、

決められた道からの
逸脱だ!

次回、死闘、はじまる。