本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。
季刊誌「おでかけ・みちこ」2019年6月25日号連載記事
日本一の長大トンネルが秋田県にあった?
トンネルが誇るステータスの一つに長さと古さがある。トンネルが橋やダムと同じ土木構造物である以上、これらは分かり易い技術的先進性――「凄さ」の目安となるのだ。
トンネル好きなら誰もが一度は名を聞いたことがあるだろう栗子山隧道は、明治14年に山形と福島の県境栗子峠に完成した全長876メートルのトンネルで、明治大正を通じて本邦最長の道路用トンネルであった。だが実は、これより遙かに長いトンネルが、明治17 年の秋田県に誕生した記録がある。その名は阿仁隧道。
このことは複数の文献に確認できる。中でも技術者向け雑誌『工学会誌 第47 巻(明治18年9月号)』に掲載された「阿仁鉱山隧道ノ話」は詳細だ。記事の冒頭に、位置と全長が次のように述べられている。
「阿仁鉱山事務所を東に距さること一里余にして、小沢鉱山沙場脇(さばわき)坑及び三枚鉱山天池(あまいけ)坑の間に通じ、延長二十五長八間一尺余にして、蓋(けだ)し我国未曾有の一大隧道なり」
この延長をメートルに直すと約2742メートルで、前述した栗子山隧道は言うに及ばず、長大化のペースが早かった鉄道用トンネルと比較しても、明治36年の笹子トンネル(中央線)登場まで抜かれない。まさに「わが国未曾有の一大隧道」であった!
だが今日、このトンネルは忘却されている。トンネル愛好家の間でさえ話題になることはほとんどない。最大の原因はおそらく、これが阿仁鉱山の「坑道」を兼ねるものだったからだろう。採掘のために地中に張り巡らされる坑道は、大鉱山であれば総延長が数十キロを越えることは珍しくない。半永久的な交通路として一般に利用される前提のトンネル(隧道)とは、ことばのうえでも区別される存在だ。
とはいえ、阿仁隧道は単なる坑道ではなかった。建設当時の阿仁鉱山は明治政府の直営で、殖産興業の模範となるべき近代鉱山技術を欧米から導入する、巨大な実験場の使命を帯びていた。そのため工事には削岩機が輸入され、「通洞」の概念も日本で最初期に取り入れた。通洞とは坑道の幹線で、基準以上の広さを持ち、長期間利用されるものであるから、トンネルと通じる。阿仁鉱山の官営は明治18年に終わり、昭和54年の閉山まで古河鉱業が引き継いだが、同社もこれを「三枚通洞」として使用し、三枚集落の住人などは、子どもの通学を含む日常的な交通に利用したという。そのためか、通常は坑道を描かない地形図にも例外
的に、阿仁隧道は描かれ続けた。
なお、閉山によってトンネルは閉塞され、現在見ることはできない。