このレポートは、「日本の廃道」2005年9月号、10月号、11月号に掲載した「特濃!廃道あるき」をリライトしたものです。
当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。
所在地 岩手県八幡平市(市道 藤七温泉線)
探索日 平成17(2005)年7月24日
R地点 堰と貯水槽
2005年7月24日11:21
黒石沢の右岸に隣接する位置に発見されたコンクリート構造物は、地上に見える部分は縦横高10m×4m×2mほどだが、これは地下に埋設された貯水槽の地上部分に過ぎず、上面に2つある開口部より鉄梯子でアクセス出来る貯水槽の内部は、深さが5mほどあった。
私は酸欠に十分注意しながら地下へ下りた(呼吸を必要としない極めて短時間の調査のみ)。そしてこの構造物が現在は全く使われていないことや、パイプや壁で複雑に区切られた内部構造を確認した。
調査の結果、この貯水槽の正体は、黒石沢に設けられた取水堰から水を引き入れ、この水槽で昇圧してから別の導水管へ導水する構造のようだった。すなわち、水道施設である。
ここで発見したものの位置関係を画像にまとめたので、説明したい。まずここへ至る道は、北ノ又川をアーチ橋で渡った地点から、黒石沢に沿って物凄い急坂を登り、貯水槽の脇に辿り着いたところで、行き止まりである。
貯水槽の脇には取水堰がある。おそらく、貯水槽から地下へ引き出された水道管は、坂道の路面下に埋設されていて、さらにアーチ橋の構造内にも埋設されていると推測する。
すなわち、アーチ橋は道路の橋であると同時に、水路の橋(正確には水管橋)を兼ねている。そしてそのことこそが、この無人の山峡に人知れぬ大仰なアーチ橋が建造された、最大の目的であったと見る。つまり、水路橋としての目的が主であり、道路は副だと推測した。
本編探索はまだまだ続くが、この後は本来探索したかった「ジープ道」こと旧県道(現:市道藤七温泉線)に戻る。その前に、アーチ橋の正体について私が推理したことの答え合わせをしよう。
アーチ橋の正体は「水道道路」
導入回①でも紹介した昭和36年発行の古い登山ガイド書『十和田と八幡平 (ブルー・ガイドブックス)』に掲載されていた地図に、そのものずばり、答えがあった。
転載した地図に私が赤く着色した道を見て欲しい。右下の「松尾鉱山」から「藤七硫黄鉱山跡」へ通じる登山道を示す破線の道に、「水道道路」の注記がある。なおこの地図は右が北になっている。
これを見慣れた地理院地図に照らし合わせてみると、青色で強調した位置に描かれている徒歩道が「水道道路」であることが分かる。そして今回発見したアーチ橋は、「水道道路」の一部である。
さらに同書には、登山道としての水道道路について、次のような解説がある(抜粋)。
松尾鉱山~水道コース
松尾鉱山―(🚶3時間)→藤七温泉
歩程10キロ
松尾鉱山で使用する水道管を通した道で、大揚沼の先で屋敷台コースに合流するが松尾の南陵に登る急坂以外は割合に平坦である。主に冬期藤七温泉に行くコースで、少しくらいの悪天候でも、一度行ったことのある人なら迷うことはない。
このように、「松尾鉱山で使用する水道管を通した道」であることが銘記されていた。それゆえ水道道路(あるいは水道コース)と名付けられたのだろう。水道管が埋設されているだけあって、全体的に勾配の少ないコースだったようで、これは地形図からも読み取れる特徴だ。
この登山道については、他にも昭和37年に発行された朋文堂の登山ガイド『東北の山々』にも、さらに詳しい解説がある。これも一部を抜粋すると……
松尾鉱山水道コース
時間的な余裕がなく、一泊程度で八幡平高原のアトモスフィアを堪能したいかたへお奨めしたいコースである。藤七温泉への最短路になっており、四季を通じてよく利用されている。ほとんど水平に近いたんたんたる林間の径がつづく。なお、この径には藤七温泉と東八幡平を結ぶ営林署の私設電話線が平行しており、冬期はよき指導標ともなる。
この水道コースは、藤七温泉へのクラシカルコースである屋敷台からの「ジープ道」よりも新しく、かつ短時間で登頂できる道として、昭和30年代に盛んに利用されていたことが分かる。
水道道路の名前の由来となった水道工事の詳細は残念ながら不明だが、大正時代に始まった松尾鉱山の盛況により、昭和以降も鉱山都市が拡張され、水道需要が拡大を続けたことで、近隣の河川から取水する必要を生じ、はるばる5km以上離れた北ノ又川の源流部から松尾鉱山へ導水することが行われたのだと思う。
なお、つい先日である令和5年10月13日、私は本編の探索から実に18年ぶりに、北ノ又川に架かる水道アーチ橋への再訪を試みた。その最大の目的は、18年越しの課題となる水道道路の確認(踏破)であった。
そしてこの最新の現地調査によって、水道道路と呼ばれた道に沿って確かに水道管が敷設されていることを確かめた。しかも、松尾鉱山と北ノ又川のほぼ中間地点である夜沼川までは、施設は更新され、現在も稼動している様子が見て取れた。
だが、夜沼川渡河地点から先は完全に廃道で、夜沼川の橋はご覧の通り、裸の水路管だけが虚しく架かっていた。
かつては賑わった登山道らしいが、現在では旧県道同様深いネマガリタケのヤブに覆われており、風景の良いところは時折あるものの、もはや登山道として利用することは出来ない。
そして、苦労して辿りついた北ノ又川のアーチ橋だが、18年の追加の風雪にも生き延びており、健在だった。コンクリートの剥離の進行など細部の劣化は見られたが、橋としてはまだまだ安定していそうに見えた。さすが、世界最古の現存橋である2000年以上前に造られた古代ローマ時代の「ポンテファブリチオ」と同じアーチ構造の橋であった。
次回、本題へと復帰するが、ここから先、さらに過酷なる探索が待ち受けていた……! |