峠越えを繰り返す参勤交代路
束松峠より若松城下を遠望
数々のドラマが展開され、いまなお会津の人々の精神構造に強く影響を与えている戊辰戦争。会津若松と越後の新発田をつないでいた越後街道沿いでもいくつものドラマがあった。その一つに戊辰戦争当時、会津藩の公用人(外交交渉役)だった秋月悌二郎にまつわるエピソードがある。
慶応4年(1868)9月22日朝、若松鶴ヶ城に「降参」の白旗が掲げられた。正午ころに会津藩主松平容保(かたもり)から新政府軍軍監中村半次郎に降伏謝罪書が手渡され、事実上戊辰戦争は終わりを告げた。降伏後、秋月はかねてより親交があった長州藩士の奥平謙輔を、僧侶の下男に扮して越後の水原(すいばら)旧代官所(阿賀野市)に訪ね、会津藩への寛容な処分と将来ある若者の教育を願った。
秋月は若松と水原の往復に越後街道を使った。帰路、雪の束松(たばねまつ)峠より若松城下を遥かに望み、坂下(ばんげ)の宿について藩の将来を憂いながら「北越潜行」の七言絶句を詠んだ。
行くに輿(こし)なく 帰るに家なし
国破れて 孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず 戦いに略なし
微臣罪あり また何をか嗟(なげ)かん
と後に続く。
明治政府より秋月は終身禁固刑を受けたが、明治5年に特赦で出獄、第五高等学校(現熊本大学)などで教職に就いた。後に同校に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が教師として赴任し、秋月を尊敬し「神のような人」と評し慕ったという。
会津と越後をつなぐ要路
会津側では越後街道、新発田街道、津川道などと呼び、越後側では会津街道、若松街道などと呼んでいた。この街道は会津五街道の一つで、古くから越後とつながっていた。新発田藩と村上藩が参勤交代に使い、佐渡金山の往復に使うルートの一つでもあった。阿賀野川舟運とともに発展した街道で、会津にとってはかかすことができない重要路だった。
幕末には吉田松陰が『東北遊日記』に残し、明治11年(1878)イギリスの女性探検家イザベラ・バードが『日本奥地紀行』の旅で通っている。会津から新発田に向かうには、途中、鐘撞堂峠、束松峠、車峠、鳥井峠、惣座峠、諏訪峠という大小の峠が続く。その間に旧宿場町があり、一里塚や石畳の道、茶屋跡が残り、雄大な飯豊山地を遠望でき、道ゆく人を飽きさせない魅力ある街道である。
阿賀野川と越後街道が伝えた食文化
阿賀野川の河口から津川まで川幅は広く緩やかな流れで舟運が盛んだった。津川から上流は阿賀川と名を変え、岩が多く急流で難所続きだった。
新潟で川舟に積まれた荷は阿賀野川で津川まで運ばれ、津川で馬の背に積み替えられ、越後街道や脇街道を使って上流の塩川や若松、只見川流域に運ばれた。逆に大阪まで運ばれる会津米は津川で馬から川舟に積み替えて川を下した。川を上る荷の中心は塩で、そのほか塩干魚や生活物資が主だった。そのため津川は川と陸の結節点としておおいに栄えた。
北前船が北海道から運んできた干しタラ、身欠きニシン、干し貝柱、昆布などの食材は、会津では棒ダラ煮になり、ニシンの山椒漬けになり、こづゆとなって会津の食として今に伝わっている。
【 街道コラム 】
越後街道を守る方々
越後街道は手入れが行き届いている部分が何か所か残り、素晴らしい街道歩きができる。特に状態がいいのは束松峠をはさんだルートで、地域の方々が頑張って草刈りや看板設置をしている。
毎年春と秋には峠歩きを楽しむイベントが開催され、多くの人たちが参加している。また新潟県阿賀町の敷石が残る街道や諏訪峠付近の越後街道も楽しむことができる。