南部から津軽への道
「遠山の金さん」の父、
蝦夷地へ赴く
テレビ番組でおなじみの、桜吹雪の入れ墨を持つ遠山の金さん。その父親は遠山景晋(かげみち)という有能な幕臣だった。宝暦2年(1752)、江戸で生まれ、16歳で遠山景好の養子となった。
天明6年(1786)に父親の跡目を次ぎ、寛政11年(1799)から12年間にわたり、蝦夷地、対馬、長崎に複数回出張した。最初の出張は松平忠明の東蝦夷地見分隊への参加で、この時に残した旅日記を『未曾有記(みぞうき)』と題した。その後に著わした『未曾有後記』は文化2年(1805)、松前から宗谷岬まで日本海側の海岸を調査した際の旅日記である。
蝦夷地2度目となった西蝦夷地調査だが、江戸から奥州街道を北上し、津軽半島の三厩から津軽海峡を渡った。松前で年を越し、江差、小樽、増毛を通り、蝦夷地の最北端まで行った。戻りは石狩川を遡って太平洋側に出て、函館から下北半島に渡り、野辺地から奥州街道を江戸に向かった。公務ではあったが、あくまで個人の旅日記に徹している。
行きの奥州街道では「坪の碑」に関心を持っている。
「土人いう。南部北郡野辺地と七戸の間に坪村、石文村、坪川あり。昔、いし文は坪川の岸にありしを、いつの頃か(中略)この碑を山の中に引きて埋め、その上に祠を立てて石文明神と祭りたる。石はなはだ重かりし故に『千引の石と云いしなり』と記している。
北の大地と海岸を進む
この「おでかけ・みちこ」の14回で奥州街道を盛岡から蓑ヶ坂(二戸市)まで紹介した。この回では続きとして三戸から青森までを見てみよう。
蓑ヶ坂を下った街道は三戸宿を通り、高山峠越えをして浅水に出る。その後、五戸宿、伝法寺宿、藤島宿(2宿とも十和田市)、七戸宿、野辺地宿と広い農地や荒れ野を進んだ。野辺地は北前船の湊町であり、下北半島の田名部街道が合流する活気ある宿場だった。
野辺地から奥州街道を西に進んで間もなく、盛岡藩と弘前藩の藩境塚があり、双方が番所を置いて厳しく取り締まっていた。その後、街道沿いには間門(まかど)宿、小湊宿、野内宿と漁村の宿場が続いたが、この街道を参勤交代で行き来する大名は松前藩だけだった。街道はようやく青森宿に入るが、弘前藩の城下町は弘前であり、北前船の寄港地の中心は日本海側の鰺ヶ沢だったため、町の発展は明治になってからのこととなる。
青森宿から先、三厩までを「外ヶ浜道」と呼ぶこともあるが、波打ち際を歩く海岸沿いの小道だった。
北前船の一級港になれなかった青森湊
現在の青森県は旧盛岡藩と弘前藩をベースにして明治になってから成立した。青森県には青森ヒバがあり、弘前藩の尾太(おっぷ)を始めとした鉱山が多くあった。気候が適さず米の大産地にはなれなかったが、大豆や小豆が豊富にとれたし、中国に輸出する長崎俵物のひとつ「煎海鼠(いりこ)」と呼ぶ干しナマコもとれた。それらの産物を求め北前船が頻繁に寄港したが、その湊は日本海側の鰺ヶ沢、深浦であり、太平洋側の八戸であり、陸奥湾の佐井や田名部、油川だった。
弘前藩では青森湊を使うように奨励したが、産物の集積がままならないことと、港が遠浅というマイナス面を埋めることはなかなかできなかった。しかし、明治になって県庁が置かれ、北海道に渡る拠点として海運が盛んになると間もなく、青森県下随一の町として発展していった。
【街道コラム】
遠山景晋は、なかなか魅力的な人物だったようだ。ここでは細部まで紹介できなかったが、その関心はさまざまだった。
「坪の碑」に対して感じたこと、今別の浜で「津軽石」と呼ばれる瑪瑙(めのう)の小石を拾って旅情を慰め、三厩から宇鉄まで2里の散歩をし蝦夷地を遠望。蝦夷地に渡ってからもニシンに興味をいだき、アイヌの食事を口にし、街道や船上から目に入る景色を楽しんだ。
この時代にこのように正直な文章を残した高級役人は珍しいと思う。そのような人から「遠山の金さん」が生まれたことが嬉しいと感じた。
参考資料:『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』所収「未曾有後記」松坂耀子編(葦書房)