相馬中村藩領をゆく
水戸藩士・小宮山楓軒の旅
前号(40号)で紹介した水戸藩士で学者だった小宮山楓軒(ふうけん)は、60歳を過ぎた文政10年(1827)、水戸から玉造温泉(宮城県川渡・鳴子温泉)までの旅を『浴陸奥温泉記』に残している。楓軒が歩いた江戸浜街道は、東北に入ってから湯長谷藩、岩城平藩、相馬中村藩、仙台藩の各領を通った。通過した藩の政治や城下、宿場のたたずまいに目を配り、神社仏閣に興味を示し、漁業と農業を観察、相馬野馬追を楽しんだ。その中からいくつかの記述を見てみたい。
「熊川(双葉郡大熊町)、これより相馬領。長百銭(天保通宝か?)通用ここに始まる。道広く松並木大なること水戸に比すべし。侯入部の後なれば掃除も届き橋に手摺あり。寺西(代官)の支配地に比するにもっとも優なり。その民の質は宝にして貧しからず。轎夫(きょうふ)(駕籠かき)も6人出せり、多いと辞すれども聞かず」
「鶴替(つるがい)(南相馬市原町区鶴谷)村、上り坂なり、南部の牛商人、上総(かずさ)に行くに逢う。小牛ともに大小88匹を引き連れ、おびただしき牛にてありし」
※以上、意訳
このように、通りがかった村々のこと、街道で目にしたことを記していて興味深い。水戸と比べて規模の大小などを伝える箇所が多々あるが、郷里の人たちへの旅先報告の気持ちがあったのかもしれない。
古代・中世からの要路
仙台〜中村〜磐城〜水戸を結ぶこの街道は、この先水戸と江戸を結ぶ水戸街道につながる古代から中世の東海道(あずまかいどう)をベースとした道で、物資輸送より軍事面で重要な位置を占めていた。そのため勿来関(なこそのせき)をはじめ、郡の境や領地境に関所を設けるなどして、自由な行き来を見張ったようだ。
江戸時代になって幕府の達しもあり、街道の整備が進められた。この浜街道の福島県部分には、勿来切通(きりとおし)を始めとする小規模な山坂がいくつもあった。また、安永3年(1774)に初代平潟(ひらがた)洞門を掘ったりしたが、通行には苦労を強いられる所がある道だった 。一里塚に関しては、慶長9年(1603)に幕府から全国の藩に設置命令がでたことにより、各地で整備が進められた。現在、浜街道にはいくつもの一里塚や一里塚跡が見られるが、多くはそのころに作られたと推察できる。
相馬中村藩と磐城平藩の領地境は、大熊町と富岡町の境界を流れる境川だった。
東日本大震災と江戸浜街道
平成23年3月11日に起きた東日本大震災は、この浜街道にも影響を与えた。津波が街道跡まで押し寄せたのは南相馬市鹿島区、同 小高区、広野町、いわき市久之浜、同 四倉、同 勿来町のそれぞれ一部だった(『東日本大震災 津波詳細地図(下巻)』〈古今書院発行〉参照)。
しかし、街道沿いにあって現在も町内に帰還困難区域に指定されているエリアがある浪江町、双葉町、大熊町、富岡町では、国道6号から町内に入っていくことができない所があり、今回の取材で現状を確認できなかった史跡がたくさんあった。
放射能の除染と町の復興が進んでも、場所によっては将来にわたり影響が残る可能性があるかも知れないと聞いた。一日も早く、安心して住める地域に戻って欲しいものだ。
【 街道コラム 】
⑧相馬野馬追
毎年7月末、南相馬市原町地区で開催される伝統の祭りで、千年以上の歴史があると言われている。小宮山楓軒も見物していて、『浴陸奥温泉記』のなかで記述を最も多く割いているのがこの祭りだ。相馬と福島を結ぶ中村街道、相馬と二本松・本宮間の相馬西街道、浪江と二本松間の浪江街道は、中通や会津から野馬追を見に行く「野馬追“見物”街道」でもあった。
参考資料:『随筆百花苑』第三巻「浴陸奥温泉記」中央公論社発行