八戸から下北半島へ最短の道
松浦武四郎辺境の道を歩く
蝦夷地を探検して地図を作成、また北海道の命名者としても知られる松浦武四郎は、東北を何度も旅をし、『鹿角(かづの)日誌』『東奥沿海(とうおうえんかい)日誌』などの旅日記を残した。
武四郎は文政元年(1818)、伊勢国一志郡雲津須川村(現三重県松坂市)に生まれた。生家は代々庄屋を務める郷士だった。17歳から本格的な旅をするようになり、西日本各地をめぐった。26歳の時、蝦夷地がロシアからの外圧を受けていることを長崎で知り憂慮、蝦夷地に渡ることを決意する。
翌年、生家を旅立ち、京都〜加賀〜越後〜会津を通り、米沢〜山形〜湯殿山・鳥海山に登って秋田に入って、男鹿半島〜能代〜弘前と北上した。鰺ヶ沢から蝦夷地に渡ろうとしたが、開国をめぐる高野長英の事件が起こり、渡海はかなわなかった。そこで津軽半島、下北半島を回って八戸から宮古方面に向かったが、そのとき通ったのが北浜街道だった。
浜道は荒涼とした風景が続く。人家は少なく寂しい旅となったが、人々は親切で優しかった。尻屋崎にある尻屋村では大量のアワビを茹でてごちそうしてくれたが、村人は礼金を受け取らなかった。通ったのは11月から12月だったため途中で雪に降られたり、沼の氷が割れて水に落ちたりと、散々な目にあっている。
海岸防備の道
北浜街道は田名部(たなぶ)道や百石(ももいし)道、岡三沢道とも呼ばれた。奥州街道の野辺地(のへじ)から分かれ、下北半島の田名部まで行く田名部街道のサブ街道的な位置付けでもあった。
江戸時代、蝦夷地(北海道)に向かう旅人は、主に奥州街道、羽州街道、日本海沿いの大間越街道(西浜街道)を歩いたが、なかには北浜街道を使う者もいた。しかし、この街道は通る人が少ないこともあり、街道や宿場の整備はあまりされておらず、旅人は苦労した。武四郎のほか、『おぶちの牧』を書いた紀行家の菅江真澄や幕府巡見使に随行した古川古松軒(こしょうけん)、地図測量の伊能忠敬、『北奥路程記』を残した盛岡藩の漆戸茂樹も通っているが、道は難所が多く嘆いている。
幕末になり、ロシアを始めとした外国船の接近が目立つようになった。南部藩は幕府の命令で大砲を設置する大砲場や遠見番所を沿岸各地に設けた。記録上では三陸海岸から下北半島まで30か所以上設置した。そのうちの数カ所がこの地域にあったが保存状態が悪く、現地を確認出来るのは三沢市の五川目(いつかわめ)大砲場跡くらいだ。
辺境の地をゆく
八戸から小川原湖のあたりまでは歩きやすい浜道だったが、徐々に磯伝いの道となった。特に中山崎、物見崎付近は牛馬も通れないような海岸道だった。また小川原湖や尾駮(おぶち)沼を始めとした湖沼や湿地、川が非常に多く、それは尻屋崎まで繰り返された。荒涼としながらも、独特の風景が続く道だった。
現在は広大な自衛隊の演習地や原子力発電所の建設地が海岸に沿って並び、立ち入り禁止地域が多い。しかし、そのエリアを除くと、もしかしたら武四郎や真澄、古松軒たちが見たような景観が、現在もあちこちに残っているかもしれない地域である。
【 街道コラム 】
会津から流された斗南藩
戊辰戦争で敗れた会津藩は、斗南藩として上北・下北地に追いやられた。会津から奥州街道を歩いたり、船で移動してこの地に着いたが、豊かだった会津に比べここは過酷だった。三沢、田名部(むつ市)を中心に、各地で農業や酪農に従事したが、苦労に苦労を重ねる年月だった。しかし、会津人は歯を食いしばって耐え、不毛の地を豊かに変えた。三沢市先人記念館で、当時の様子をしのぶことができる。
三沢市先人記念館:0176-59-3009
参考資料:『松浦武四郎紀行集(上)』吉田武三編(冨山書房発行)