サイトアイコン 【東北「道の駅」公式マガジン】おでかけ・みちこWeb

追良瀬川森林鉄道 【補足編 その2】

『このレポートは、「日本の廃道」2011年12月号および2012年1月号に掲載された「特濃廃道歩き 第36回 深浦営林署 追良瀬川森林鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

 

 

未だ知られざる

白神山地の森林鉄道に挑む。

所在地 青森県西津軽郡深浦町

探索日 平成23年6月18日

 

◇補足② 

昭和61年の探訪記

 

 本編で紹介したのは平成23年6月の探索だが、その四半世紀前にあたる昭和61年に現地を訪れ、森林鉄道跡の存在に言及している記録を見つけた。追良瀬川林鉄の最終的な廃止は昭和42年とされているから、それから20年後の探訪なら、45年も経った我々の探索時よりも遙かに多くの遺構が残っていても不思議はない。

 この昭和61年の探訪記と、我々が見た状況との違いを紹介しつつ、今回の探索のまとめとしたい。

 

 昭和61年の探訪記は、「新版白神山地―本州最後の秘境―」(佐藤勉・坂本知忠著/現代旅行研究所刊)に所収の「追良瀬川下流の二つの小山行――濁水沢、湯ノ沢、油小沢――」である。世界遺産登録以前の白神山地をくまなく歩かれた佐藤勉氏が、昭和61年6月と9月の2回に分けて、友人の大山昇博氏と追良瀬川の中流域にある三つの支流を歩いた記録だ。

さっそく本文を引用していくが、まずは白神山地のオーソリティである佐藤氏による、実際にここを訪れる前の追良瀬川評は次の通りだった。

 

追良瀬川は中流部に追良瀬堰堤と弘西林道があるものの、それから下流10キロほどの間は林道もなく、自然のままの山が残されていそうである。(中略)白神山地も随分あちこち歩いて来たが、この付近は未だ一度も足を入れていない。

   (「新版白神山地」より)

 

 

 これから佐藤氏の探訪記を紹介するにあたって、地名が分かり易いように、林鉄を書き加えた地図を用意したので、適宜これを見ながら読み進めてほしい。

 

追良瀬川の林道は濁水沢出合の少し先で終わっていた。沢歩きの支度を整え、細い歩道に入る。が、道はすぐに消えてしまった。追良瀬川が道のあったところを削り取ってしまったらしい。巻き道を探したがわからない。仕方がないので濁水沢出合で堰堤の工事をしている人に聞きに行く。(中略)追良瀬川の歩道は洪水で流されて沢中を行く外はないとのことであった。

   (「新版白神山地」より)

 

 佐藤氏の探訪の一度目は昭和61年6月で、彼らは我々と同じように車で松原集落を過ぎ、濁水沢出合の林道終点まで入ってから歩き出している。我々が探索した際は、終点の2km手前のカラカワ沢にゲートがあって、そこから歩かねばならなかった。

 

 

 歩道を見つけて歩き出してすぐ、追良瀬川に削られて道がなくなっていたというのは、我々も遭遇したこの写真の地点のことであろう(本編第6回)。思いのほか古くからの欠壊地だったことが分かった。林鉄の廃止直後にここが決壊し、そのため以奥のレールを回収することが出来なくなったのではないかという仮説は、引き続き生き残ることになった。私の経験上は、森林鉄道の95%以上で廃止後にレールが回収されているので、回収されなかった理由は(怠慢ではなく)必ずあると思われるが、現時点で明瞭な答えは得られていない。

 この決壊地点には、レールと枕木が露出しており、ここが森林鉄道跡であったことを知る絶好の機会となっているが、佐藤氏の記録に林鉄が登場するのはまだ先である。彼らは欠壊地を越える巻き道を求めて、濁水沢の砂防ダムの工事現場で情報収集を試みているが、巻き道はないと分かり、結局この日は湯ノ沢へ向かう計画を中止し、手近な濁水沢を探索している。この沢に林鉄はなかった。

 

 佐藤氏は湯ノ沢探訪を諦めず、同年9月に山中泊の準備を持って再びトライする。しかし、午後からの入山となった初日は生憎にも秋の到来を感じさせる冷たい雨だった。6月と同じように歩き出し、欠壊地を徒渉して越えた。そのまま彼らは河原を歩き続けたようだ。

 

しばらく行くと右岸の段丘上に道らしきものが見える。上って見るとそこには古いレールが敷いてあった。森林軌道の跡だ。やがてレールは川の中へ宙吊りとなっていた。川が軌道の土台となる岩盤を削ったのであろう。

センノ沢出合を過ぎてもなおレールは断続していた。やがてレールを川から支える石垣も現れる。後で大山(松原)の集落で聞いた話だが、追良瀬川の森林軌道は昭和30年頃まで存続していたとのことであり、動力車の運転手の一人は未だ深浦で生きているとのことであった。

   (「新版白神山地」より)

 

 

 他人の体験であっても、レールが敷かれたままの林鉄と遭遇するシーンは胸が熱くなる。自身の体験と重なるからだ。もしこの本を探索前に読んでいたら、私は追良瀬川にはレールが敷かれたままであることを知ったうえで探索に臨んだわけで、当日の興奮を思えば知らないことにも価値があったようだ。彼らがレールと出会ったのは、決壊地点からセンノ沢出合の間だから、我々がこの写真のレールを掘り出して歓喜した辺りだろう(本編第8回)。

 私が行わなかった松原集落での聞き取りの内容も興味深い。いまでこそ『国有林森林鉄道全データ東北篇』などの優れた文献のおかげで、どこに路路線があったかや各路線の運用時期および全長などのデータを知ることは難しくないが、昭和61年当時は林鉄に関する文献がほとんど公刊されておらず、基本的には関係者からの聞き取りが頼りであった。私が活動をスタートさせた平成10年代もまだそんな感じだった。

 導入回で述べたとおり、営林署側の資料によるこの路線の最終廃止年は昭和42年度だが、林鉄が貫通していた松原集落の住人が昭和30年頃までの存続と語っているのは、この路線が下流側から順次廃止され、昭和40年代まで残っていたのは集落から遠い奥地だけだったからだろう。起点の追良瀬貯木場から松原集落までの区間は昭和33年に早くも廃止されて道路化している。

 

 さて、佐藤氏の一行は断続的な雨のなか油子沢で日暮れを迎え、幕営する。夜は雨が強く降り、翌朝も雨だったので一度は滞留を決めたが、10時頃に急に日差しが差し込んだので、湯ノ沢を目指して歩き始めた。

 

追良瀬川は増水しやや濁っており、徒歩は昨日に比べるとずっと深い水の中を渡らねばならない。右岸段丘上に再び軌道を見つけて歩く。追良瀬川は大きな川中島を作って悠々と流れている。両岸の森林も樹種も豊富で特に植林した気配は見られない。森林軌道があったくらいだから40年くらい前には伐採が行われたはずであるが、昨日来ずっと両岸の森林は自然林のように見える。

   (「新版白神山地」より)

 

 確かに追良瀬川林鉄の沿線には各地の大規模林業地に必ず見られるスギの植林地がとても少なかった。これはこの流域の林業経営が、ブナなどの広葉樹の伐採を主軸としたものであったためだろう。市場価値の高い樹種を選んで伐採し、伐採後も自然更新に任せる手法をとったと思われる。破壊的な皆伐と植林が行われなかったおかげで、追良瀬川は今も美しい姿を維持している。

 

やがて正面に吊り橋の残骸を見る。地図の歩道の破線が追良瀬川を渡る所へ来たのだ。吊橋は相当長い年月放置されていたのだろう、対岸まで伸びた2本のワイヤーに数片の木板がぶら下がっているに過ぎなかった。

吊り橋の少し上流にはほとんど埋れてしまった砂防ダムが現れる。堰堤は川床と同じ高さとなっており、堰堤の両袖の高くなった石垣がなければ遠望しただけではそこに堰堤があることがすぐにはわからないくらいである。

   (「新版白神山地」より)

 

 

我々が湯ノ沢出合の手前で出会った、この写真の壊れた砂防ダム。昭和61年当時既にほとんど土砂に埋没し、本来の機能を失っていたらしい。間違いなく林鉄時代の建造物ということが言えるだろう。

この砂防ダムのすぐ下流で吊り橋の残骸を見たという記録も興味を引く。我々はそれを見ていない。おそらく完全に失われてしまったのだろうが、近年まで地形図が描き続けてきた橋の記号は、林鉄の橋ではなく、その後に架けられた吊り橋を示していたのだろうか。どちらもなくなった今では想像することしか出来ない。いずれにしても、佐藤氏の言及がない林鉄の橋は当時から跡形もなかったと推測できる。

 

堰堤の上を左岸に渡りしばらく行くと湯ノ沢の出合であった。驚いたことに湯ノ沢出合には石垣とレールが残っていた。あとで村で聞いた所によると、森林軌道は湯ノ沢出合まで伸びており、そこに建物があったとのことである。そいて湯ノ沢の温泉から湯を引いて来て、その建物で入浴できたとのことである。

出合からすぐの所には堰堤も残っていたし石垣も残っていた。この湯ノ沢出合は森林軌道の終点にふさわしく人工の跡が残されていた。

   (「新版白神山地」より)

 

 

湯ノ沢といえば、我々が写真の転轍機が発見して悦びに跳ね転がった現場である(本編第13回)。彼らはレールと石垣に加えて、すぐ先(上流?)に堰堤があったとも述べているが、我々は見なかった。

ここでも松原集落での重要な聞き取りの成果が明かされている。林鉄は湯ノ沢が終点で、ここに建物(おそらく営林署の作業所だろう)があったというのである。営林署側の記録では、本当の終点はここからさらに1.4kmほど上流の地点であって、湯ノ沢にも長さ380mの短い支線があったことになっているが、近隣住民が湯ノ沢が終点と感じていたことは、林鉄の利用実態に関する重要な示唆を含んでいるのではないだろうか。本流沿いの延伸部分が結局未成に終わったことを、私はこの証言からも感じ取れる気がする。

なお、湯ノ沢という地名に恥じず、実際に温泉があったことも証言によって判明した。佐藤氏一行の林鉄歩行はここまでだが、このあと湯ノ沢の遡行を行い(そこに林鉄に関する報告はない)、最終目的地である沢の源頭部に眠る無名の「池」に到達する。以前の地形図には、池の近くに温泉の記号があり、実際はそこが湯ノ沢の源泉で、木樋か何かで湯ノ沢出合の浴槽まで引湯していたらしいが、源泉は見つからなかったそうだ。

 

以上が、佐藤勉氏の昭和61年の探訪記に見る追良瀬林鉄廃止後約20年後の風景である。林鉄にばかり目を光らせていた我々だから余計にそう思うのかも知れないが、遺構の量や数については、我々が見たものとさほど違いがなかったように感じる。逆に言うと、追良瀬川沿いに歴史上ただ一度だけ切り拓かれたガソリン機関車が走り回る文明装置は、廃止後はレールだけを残して、思いのほか早く自然に還ったのである。世界に誇る、白神の山に。

 

 

 

 完結。

 

長らくのご愛読ありがとうございました。次回から新シリーズ、秋田県の森林鉄道のレポートを開始する予定です。

 

 

モバイルバージョンを終了