「おでかけ・みちこ」2020年9月25日掲載記事
会津と米沢最短の道
新聞記者だった宰相原敬
平民宰相と呼ばれた原敬(はらたかし)は、安政3年(1856)、盛岡藩士の長男として盛岡で生まれた。明治9年、東京の司法省法学校に入学したが、寄宿舎の待遇改善運動で退学処分。同じく処分された陸羯南(くがかつなん)らと新聞記者になることを嘱望し、原は郵便報知新聞に職を得た。
明治12年春、24歳で新聞記者になった原は、2年後の5月、渡辺洪基(こうき)(太政官大書記)の全国民情視察に誘われ、同行記を「海内(かいだい)周遊日記」として新聞連載することになった。東京~水戸~会津若松~山形~秋田~函館~青森~八戸~盛岡~釜石~仙台~福島~日光~東京と、133日に及ぶ長旅だった。
ここでは会津若松から米沢に向かった原の後を追ってみよう。6月14、15日と会津若松の東山温泉に宿泊し、15日には会津若松、塩川宿を経由して山塩を産する大塩宿に着いた。大塩では通運会社を経営する穴澤源吉家に宿泊。穴澤は製塩も行っていて、4月から10月まで従事し、4斗俵で800俵取れる。これには14〜15釜を要し、赤銅釜は54円くらいで薪は二坪半、建物は3間×4間くらいを3棟必要とするが、維新以来製塩は行っていない、など記している。民情視察の旅という目的があったためか、原はこのように各地の生活状況を聞きとっている。この後、桧原(ひばら)宿、桧原峠を越えて米沢側に山道を下っていく。
塩の道
原の記録によると、明治15年当時、この街道を運ばれる物資は年に700駄ほどで、会津側からは陶器、木綿が主流で、米沢側からは麻裏(あさうら)(草履)、漆、麻が多く、漆は4斗樽で250〜260樽、さらに桧原宿から漆器の木地にするブナの木取も送っているとある。米沢街道は会津と米沢の特産品の流通路だった。
米沢街道と呼んだのは会津で、米沢では会津道とか若松道と呼んでいた。街道が会津若松から出るときは東から上街道、中街道、下街道と3本となっていて、熊倉宿から先は1本となり北に向かっていた。
上街道が一番古い道で、古くは「金川通り」と呼ばれていた。会津城下の大町四ツ辻を起点として、上荒久田、島、金川、熊倉、関谷、桧原と北上していた。中街道は若松の七日町から城下を出て田園地帯を北上し、上街道と島で合流するルートだった。一方、慶長13年(1608)からは塩川を通る下街道が本道とされ、この道は大塩からの山塩と阿賀川で運ばれてくる塩を運ぶ重要路となっていった。
会津側最後の宿場だったのは桧原宿だが、明治21年(1888)会津磐梯山が噴火して桧原川がせき止められ桧原湖となり、宿場は湖底に沈んでしまった。
何本もあった会津・米沢の道
桧原峠を通る米沢街道とは別に、天正13年(1585)、伊達政宗が会津・芦名氏攻めのためにひそかに開いた道がある。米沢街道の西に作られた喜多方~根小屋~大峠~入田沢~米沢と続くこの道は、300年後の明治15年、福島県令三島通庸(みちつね)の命で始まった会津三方(さんぽう)道路の一つとなり、のちに旧国道121号とされた旧大峠道路の前身となったルートだ。
このほか江戸時代には喜多方から熱塩〜日中〜小檜沢峠〜入田沢〜米沢と進む道などがあったが、これらの道は桧原峠を越える米沢街道を本道とする間道で、宿場の整備などはされなかった。
昭和48年に開通したのが桧原湖北岸と米沢市を白布峠で結ぶ西吾妻スカイバレーで、さらに昭和49年、国が新たな道路開削に取り掛かり平成4年に国道121号大峠道路が開通した。時代の変遷とともに新たな道ができる、重要な地域であることは間違いない。
街道周辺の「道の駅」
米沢(山形県米沢市)
田沢(山形県米沢市)
喜多の郷(福島県喜多方市)
裏磐梯(福島県北塩原村)
ばんだい(福島県磐梯町)
猪苗代(福島県猪苗代町)
街道コラム
歴史の道100選に選定される
令和元年10月、文化庁により北塩原村を通る「会津・米沢街道-桧原峠越」が選定された。福島県としては、平成8年に選定されていた5か所の街道に、今回同時に選定された白河-会津街道と合わせ7街道となった。歴史遺構の多さに合わせ、12年間継続している「会津・米沢街道歴史ウォーク」や村民の方々の協力による街道整備などが高く評価された。