「おでかけ・みちこ」2020年6月25日掲載記事
種山ヶ原を越える道
石っこ賢さん
岩手県花巻市が生んだ作家・宮沢賢治は、子どものころから鉱物が好きで「石っこ賢さん」と呼ばれていて、盛岡中学校に入学してからも鉱物採集や星座に熱中した。19歳で盛岡高等農林学校農学科第二部(農芸化学)に入学し、休日は登山や鉱物探しに明け暮れた。ここで土壌学の関豊太郎教授に認められ、稗貫(ひえぬき)郡(花巻市)や江刺(えさし)郡(奥州市の一部)の土壌や地質調査にあたり、その際訪れたのが種山ヶ原だった。
調査は大正6年8月、3年生の夏季休業中だった。友人二人を伴い盛(さかり)街道の岩谷堂、人首(ひとかべ)などを宿泊地として、江刺郡一帯や種山ヶ原周辺で行った。その時初めて目にした高原の様子に魅了され、その後もたびたび訪れ、数々の作品の舞台としていった。
種山ヶ原は物見山(871メートル)頂上周辺のなだらかな高原で、賢治はこの風景をこよなく愛し、「風の又三郎」「種山ヶ原の夜」「春と修羅」を始めとした童話、短歌、詩などの舞台としている。江刺郡の地質調査の際、盛岡の友人に書き送った葉書や、残した短歌から、賢治が高原周辺のほか、人首と遠野の境となる五輪峠などで、ハンマー片手に調査を行った様子が伝わってくる。
高原を横切る盛街道の印象を短編小説「種山ヶ原」に、「旅人と云っても、馬を扱ふ人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした」と記している。
仙台領最北の街道
盛街道という名称は、江戸時代から使われていたもので、ほかには気仙(けせん)街道、江刺街道などの呼び名もあった。水沢(奥州市)で奥州街道と別れ、北上川舟運(しゅううん)が盛んだった下川原を通り、岩谷堂~人首~山本~種山ヶ原~世田米(せたまい)〜白石峠と東に進み、盛(大船渡市)で三陸浜街道に合流する道だった。種山ヶ原を越えるには、人首の少し先にある二股から山本を通り物見山に向かうルートで、地元では旧盛街道と呼んでいる。また山本を通らないで古歌葉(こがよう)から姥石(うばいし)峠を越え、大股川沿いに下る道筋もあり、こちらも盛んに利用されていた。
紹介したルート以外に、岩谷堂~伊手(いで)~種山ヶ原というルートの江刺往還(おうかん)もあった。この道は種山ヶ原を越えないで、県道10号の越路峠手前から七曲の峠で山越えし、子飼(こがい)沢付近で盛街道と合流していた。また、世田米から下有巣(ありす)~上有巣〜田代屋敷で盛街道に再び合流する脇道もあるほか、遠野に通じる五輪峠越と上有巣からの2本の道など、幾筋もの街道が交差する地域だった。
盛街道にかかわる人々
内陸からは米や雑穀、生活物資のほか、水沢周辺は麻の産地だったため魚網がつくられ、三陸沿岸の漁師にわたっていた。沿岸からは塩や海産物が運ばれた。また、北上山地は鉄や金、銀など鉱物資源の宝庫で、特に鉄の生産が多く、鋳物づくりが盛んだった田茂山(たもやま)(水沢市羽田)に運ばれ、鋳物製品として流通した。
ところで、この盛街道に関係した団体がある。奥州市江刺米里人首を中心に活動している「賢治街道を歩く会」と、住田町世田米の「大股を次世代に伝える会」だ。「賢治街道を歩く会」は、宮沢賢治が鉱物調査や創作活動でこの地域を訪問した記録から、さまざまな足跡を検証して、看板の設置、マップ制作のほか、旧街道の草刈りや倒木撤去などの道筋再生を行っている。
「大股を次世代に伝える会」は、大股地区を通っていた盛街道の史跡を紹介する標柱設置、ガイド養成講座、街道探訪会などを行い、先人の証を残す活動を行っていたが、代表者が亡くなったため、残念ながら解散した。
街道周辺の「道の駅」
道の駅・種山ヶ原(岩手県住田町)
道の駅・みずさわ(岩手県奥州市)
道の駅・高田松原(岩手県陸前高田市)
街道コラム
まちや世田米駅
盛街道の交通の要衝として発展した世田米。その中心的商家だった旧菅野家の母屋、離れ、土蔵をリノベーションした交流拠点施設。地産地消レストラン、コミュニティカフェ、交流や宿泊スペースなどがあり、さまざまな体験や交流イベントができる空間とした。町内外の人たちが交流できる施設として、新たな関係人口創出の拠点となっている。
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