「おでかけ・みちこ」2020年3月25日掲載記事
船で渡る参詣の道
風趣より食べ歩き
江戸時代中期、江戸に富田伊之(これゆき)という男がいた。長年の願いだった奥州・羽州の旅に出たのが安永6年(1769)8月のこと。山隠(やまかげ)という僧を伴にした1か月半の旅だった。その行程は江戸~日光~仙台~松島~金華山(きんかさん)~仙台~平泉~酒田~象潟~舟形~山寺~上山~七ヶ宿~矢吹~宇都宮~江戸というもので、その様子を『奥州紀行』という旅日記に残した。
芭蕉の『奥の細道』に通じる立ち寄り先だが、これは歌枕の地をめぐるモデルコースのようなもので、特に目新しいものではない。しかし、富田の日記から漂ってくる気配は風趣ではなく、旅籠(はたご)で出される食べ物の記述が目を引く庶民的なもの。
牡鹿(おしか)半島の沖にある金華山という島に渡る前日、半島の中ほどにある大原浜の漁師七五郎の家に泊めてもらった。女房が栗を茹でて出しながら、「米はあるかと問われ、ないと答えると玄米一升を28文で買わされ、娘の春が米を搗(つ)いて炊き、塩気のない鯖の干物2枚と臭い汁を出された」(著者意訳)。
全編ほぼこの調子で、「へたうま」的な素人絵と併せ、形式にこだわらない飄々とした記述を、「寛政以後一般化する、物見遊山的な旅日記の盛行を予見させる」、と校訂した竹内利美氏は書いている。
憧れの金華山参り
この当時、庶民の夢はお伊勢参りや金毘羅詣(こんぴらもうで)だった。しかし、この参詣はあまりに遠く、多くにとって夢のまた夢だった。だが、同じ奥州や羽州にある出羽三山、金華山、恐山詣は、かなう可能性がある夢だった。
その一つ、金華山に向かう道は、南からであれば仙台~松島~石巻。北からは盛岡~一関~石巻。西からは古川~石巻、さらに三陸からの場合は気仙沼〜石巻といくつものコースがあり、すべて石巻を通る街道を使って牡鹿半島に向かった。牡鹿半島には18の山があるともいわれ、多くの峠越があったため、石巻や渡わたのは波から船で行く方法もあったが、庶民のほとんどは歩いて峠を越えた。
半島先端に近い鮎川から先は、一の鳥居をくぐり、船渡しが待つ山やまどりわたし鳥渡で船に乗り、「舟路18丁(約2キロメートル)」とされた海路を行き、黄金山神社がある金華山の船着き場に着いた。そこから急坂を20分ほど歩いたところに黄金山神社がある。
道の移り変わり
かつて金華山には、先に書いたように山鳥渡から船で渡ったが、現在は捕鯨基地として知られる鮎川と半島付け根の女川から連絡船が出ている。
以前の金華山道は現在の県道2号石巻鮎川線に相当する。往時は表浜道とも呼ばれ、半島北側を女川から鮎川まで行く道を浦浜道と言っていた。金華山道は大正初期に改修工事が行なわれ、現在の県道2号の道筋に近い道路に変わったが、途中、風越峠、大越峠、小積(こづみ)峠などいくつもの峠越えを嫌い、大正10年には塩竈や石巻から観光船が金華山に直行した。
昭和46年、難路を解消する道路が建設された。半島中央部を貫く有料道路・牡鹿コバルトラインで、現在は無料開放されて県道220号となっている。かつての金華山道ルートは、風光明媚な漁村風景に触れることができるのんびりした道だったが、東日本大震災の津波はこの漁村の風景を一変させてしまった。
街道周辺の「道の駅」
道の駅・上品の郷(宮城県石巻市)
街道コラム
金華山への定期船
鮎川と女川から定期船が出ている。鮎川から約20分、女川からは約35分という運行時間で、鮎川からは海上タクシーも出ている。島に渡ってからゆっくりしたい場合は、時間に自由が利く海上タクシーを選択したほうが便利だ。東日本大震災の津波で鮎川港、女川港、金華山の船着場や施設は壊れてしまったが、現在は復興し、とてもきれいな施設に生まれ変わっている。