季刊誌「おでかけ・みちこ」2019年6月25日号連載記事
仙台・山形最短の道
江戸の商人が越えた道
『阿古屋(あこや)の松』『雪のふる道』などの著作を残した、津村淙庵(そうあん) という江戸時代中期の商人がいた。江戸の
伝馬町に住み、家業の秋田藩御用達商を生業にしながら、国学、儒学、和歌をよくした文人だった。
淙庵が出羽国久保田(秋田市)に向かったのは天明元年8月、45歳の時。久保田への用向きは、秋田藩に対する売掛金もしくは貸金の回収交渉で、その旅の様子をつづったのが『阿古屋の松』だった。
松島をめでた後、仙台から山形へは関山街道を西に進み、愛子(あやし)を過ぎて白沢宿から峠越えをして二口(ふたぐち)街道の馬場宿に出た。つまり広瀬川沿いの道から名取川沿いの道に出たことになる。磐司(ばんじ)岩の前を通り、山伏峠を越えて山寺に詣で、天童で羽州街道に合流した。
天童からは羽州街道を北上して久保田に到着し、十人衆町の宿屋に旅装を解いた。翌日から登城して、証文をもとに陳情を行うが埒があかない。合間に佐竹氏の家来たちと漢詩を作って遊び、果ては男鹿半島見物に向かった。五社堂見物した後、小舟を雇って島巡りをするが、荒波に翻弄され加茂という漁村で夜を迎えた。晩秋の荒天に懲りず、男鹿からさらに能代、小繋(二ツ井)まで進むが、雪が降り始め、ほうほうのていで久保田に戻ったところ、藩が承諾し交渉事は解決。ようやく江戸に帰ることができた。
裕福な江戸の商人が触れた、秋田の人々の人となりが生き生きと描かれている。7年後に秋田を再訪し『雪のふる道』を残したが、合わせて読んで欲しい。
二つの峠を持つ街道
この街道は仙台と山形を結ぶ最短の道だった。山伏(標高934メートル)・清水(1130メートル)という二つの峠の手前で道が二本に分かれていることが街道の名前になったようだ。南北で並行する笹谷街道、関山街道に比べ山越えが険しくなく、左右
が切り立った崖であまり日が差さず涼しいため、仙台から山形までマグロなどの生魚が競って運ばれたという。
この道は参詣道としてもよく利用された。仙台からは出羽三山、山寺へ。山形からは金華山へ向かった。いま街道沿いに歴史を物語ってくれる史跡は少ないが、出羽三山や金華山の文字が彫られた石碑は無数残され、往時のにぎわいをほうふつとさせてくれる。
時代に翻弄された街道
二口街道の仙台側で一番奥の野尻は、藩境を警護する22戸の足軽集落だった。明治時代になり、仙台藩からの扶持米が絶たれた野尻の足軽たちは、私費で工事を行ったり、仙台の商人も大掛かりな改修工事をしたりしたが、明治15年、関山街道の峠にトンネルが建設され、以降、関山街道がこの間の主力道路となった。そのため、二口街道を通行する車馬は激減し、投資資金の回収には至らなかったという。
その後、大正8年に村道になり、昭和29年、両県は地域の生活と観光道路にしようと林道建設に取り掛かり、48 年に工事は完成した。しかし、脆弱な地質などのため、たびたび崖崩れが発生し、通年通行からは程遠い現状であった。現在、山形県側は県境付近まで通行できるが、宮城県側は磐司岩あたりから先は通行止めとなっている。
街道コラム
峠を越えた物資
二口街道の大掛かりな改修にかかったのは、宮城県士族大竹徳治と仙台河原町の商人若生儀兵衛だった。明治5年から1472円をかけて工事を行ったため、牛馬の行き来が盛んになり、仙台側から運ばれたのは酒、米のほかマグロ、カツオのなまり節、サケ、カレイ、イルカなど海産物が多かった。山形側からは日用品、木綿、砂糖、塩、石油など、北前船関連の物資が目立っていた。