「おでかけ・みちこ」2019年3月25日掲載記事

唐丸駕籠で越えた院内峠

新庄・秋田の藩境となっていた院内峠(山形県真室川町及位・秋田県湯沢市上院内)

榎本武揚と大鳥圭介

戊辰戦争に引き続く戦となった箱館戦争の、中心的存在だった幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)。また、幕臣となり伝習隊に入って江戸、宇都宮、会津と転戦し、仙台で榎本隊に合流して箱館戦争に赴いた陸軍奉行の大鳥圭介。二人は五稜郭に最後まで立てこもったが、新政府軍に全面降伏。戦争の首謀者として東京に送られた。

 箱館から東京まで、7名の幹部は唐丸駕籠(とうまるかご)で護送された。津軽海峡を渡った青森から先は、奥州街道を南下するのが普通だが、なぜか羽州街道を選んだ。奥州街道は途中、幕府側として新政府軍と戦った盛岡藩、仙台藩の領地を通っていた。一方羽州街道は、弘前藩、秋田藩、新庄藩など、新政府側についた藩の領地を通る。奥州街道を進み、榎本たちの護送隊が襲われることを警戒しての判断だったのだろう。

東京までの日数は41日間というゆっくりとしたもので、その間のメモを大鳥は『流落(りゅうらく)日記』として残している。きわめて簡潔な記録だが、そのおかげもあり経路や宿泊した土地、天気が判明した。

「大久保(秋田県潟上市)近隣の龍毛(りゅうげ)村ではクソウヅ油(石油)出づ」「峠(院内峠)上秋田領と新庄領の境なり」「金山(山形県金山町)本陣にて香魚(アユ)を食す」などの記述が垣間見られる。

秋田県立横手高校の敷地内に、榎本が鳥海山を遠望して詠んだ七言絶句の詩碑が立っている。この碑は横手高校創立100周年を記念し、青雲の志に燃える後輩に呈するとして、38期卒業生が建立した。

榎本武揚の詩碑横手高校の裏手敷地内に立つ(横手市睦成)
吹張(ふっぱり)一里塚 羽州街道沿いに残る一里塚で、塚木としてケヤキが植えられている(湯沢市愛宕町)
岩崎のカシマサマ 秋田県内にはカシマサマ、ニオウサマなどの名が付く人形道祖神が日本一多い(湯沢市岩崎)
休石 街道を歩く人が、この石の上に背負ったままの荷物を置いて休んだ
(横手市十文字)

雄物川沿いを進む道

羽州街道は、奥州街道の桑折(こおり)(福島県桑折町)から分かれ、宮城、山形、秋田、青森の各県を通る、延長約500キロの街道だった。院内峠を北に越えると秋田藩領に入り、湯沢、横手、大曲と大きな宿場が続く。街道の西側を雄物川が流れ、土崎(秋田市)で日本海に注いでいた。

街道の左右には田んぼが広がり、昔も今も秋田を代表する稲作地帯である。雄物川を下る船はその米を満載し、上る船はさまざな生活物資を運んできた。街道は人が利用し、川は物資を運ぶ大動脈だった。

 

狐の与次郎

羽州街道をひた走る狐の「与次郎伝説」がある。

狐の化身とされる与次郎は、初代秋田藩主の佐竹義宣(よしのぶ)に仕えていた。与次郎は藩主の命を受けた早飛脚として、久保田と江戸を六日で往復したが、六田宿(ろくたしゅく)(山形県東根市)で殺害されてしまう。与次郎が佐竹公に多用されたため普通の飛脚仕事が減少し、六田の飛脚宿が不景気となった腹いせとされている。

この伝説に関わる神社がある。秋田市中心部の千秋公園本丸の与次郎稲荷神社、与次郎が殺害されたとされる六田の與(よ)次郎稲荷神社、そしてその中間に位置する大仙市大曲の大川寺(だいせんじ)境内にある与次郎稲荷だ。平成25年までは秋田市楢山登町にもあったが、老朽化から廃社となり、千秋公園の与次郎稲荷神社に合祀された。

4社はすべて羽州街道沿いに位置し、街道を走り抜けた与次郎らしい祀られ方だ。他にもまだないか、羽州街道や奥州街道沿線を調べているがまだ発見できていない。

六郷一里塚 吹張一里塚と同じく塚木としてケヤキが植えられている(美郷町六郷)
払田柵(ほったのさく)跡 東北地方最大級の古代の城柵遺跡。国指定史跡。
今も発掘が続いている(大仙市払田)
大川寺の与次郎稲荷 神社には高さ約20センチの狐の上に乗る老人の銅像が安置されている(大仙市大曲)

【街道周辺の道の駅】
道の駅なかせん(秋田県大仙市)、道の駅雁の里せんなん(秋田県美郷町)、道の駅さんない(秋田県横手市)、道の駅十文字(秋田県横手市)、道の駅うご(秋田県羽後町)、道の駅おがち(秋田県湯沢市)

 


街道コラム

羽州街道どまん中 六郷宿

羽州街道の宿場は58を数えた。六郷宿(秋田県美郷町)はその中間にあった宿場ということで、「羽州街道どまん中宿」を表明している。町の中心部に伝馬役所跡があるが、そこに平成22年、六郷史談会が中心となって大きな標柱を建立した。六郷は佐竹義宣の父・義重が住んだ歴史ある町で、中心部に多くの寺社が建ち並び、清水の郷として知られている。