「おでかけ・みちこ」2018年12月25日掲載記事
蝦夷地へ続く最果ての道
北海道の命名者
明治になるまで、「蝦夷(えぞ)島」や「蝦夷地」と呼ばれていた津軽海峡より北の地域が、「北海道」と命名されてから今年(平成30年)で150年になる。その命名者が北方探検家の松浦武四郎だ。
武四郎は文化15年(1818)、伊勢国一志郡須川村(現三重県松阪市)に生まれた。江戸に出て篆刻(てんこく)を習い、その稼ぎをもとにして各地を旅する生涯だった。西日本にも足を延ばしたが、多くは蝦夷地で過ごすことになる。
初めて蝦夷地に向かったのは弘化元年(1844)のこと。当時の蝦夷地にはロシアをはじめとした外国船が出没し、武四郎はそのような土地に関心を抱き、自分の目と足で確かめたいと考えた。健脚だったため何度も蝦夷地を探検し、北方四島や樺太まで足を延ばしている。
その後、幕府の「東西蝦夷山川地理取調御用」に任じられ、その業務は「取調日誌」と「取調地図」という膨大な成果につながった。その一方で、松前藩のアイヌ政策に対して批判的で、安政6年(1859)に病気を理由に職を辞している。
慶応4年(明治元年・1868)に箱館府権判事(ごんはんじ)となり、明治2年、開拓使の判官となった。その年に開拓使から蝦夷地の新名称を託され、六つの候補から「北加伊道」が選ばれ、のちに「北海道」と決められた。
奥州街道最北の地
江戸の日本橋から北に向かう奥州街道。宇都宮までは日光街道とルートが重なっていて、その先からが奥州街道となる。幕府が直接管理する奥州街道は今の福島県白河市まで。その先は、各藩が管理する街道で、「仙台道」「南部道」「松前道」などさまざまな名前で呼ばれていたが、今では青森県外ヶ浜町の三厩(みんまや)までの道を通して奥州街道としている。
蝦夷地を目指す旅人には欠かせない街道だったため、多くの文人墨客の記録に登場するが、街道沿いの寂しい村々の様子や飢饉の話が多い。現在の青森市油川で羽州街道が合流するが、その後は大きな脇街道や宿場もなく、ひたすら陸奥湾西岸の波打ち際を進むルートだった。義経の渡海伝説がある三厩で街道は終わりをつげ、その先は船で津軽海峡を渡って松前城下に向かうことになる。
松前藩の参勤交代路
この道を使って松前藩は参勤交代を行ったが、江戸からはるか遠方のうえ、船で津軽海峡を渡らなければならず、さらに北方警備の重要性から三年一勤という特別扱いを得ていた。三厩、平舘(たいらだて)、油川、その先に本陣を置き、松前公一行の便に供していた。
青森から先の陸奥湾西岸は外ヶ浜と呼ばれ、この地域に住む村人は少なかったが、海産物の収穫と加工は盛んだった。ナマコを干した煎海鼠(いりこ)、干しアワビ、昆布、カタクチイワシの焼き干し、干した貝柱、マダラなどが弘前藩や幕府に献上され、その一部は長崎まで運ばれて中国に輸出された。その伝統は今も生きていて、地域は海産物の宝庫となっている。
【街道周辺の道の駅】
道の駅みんまや(青森県外ヶ浜町)、道の駅いまべつ(青森県今別町)、道の駅たいらだて(青森県外ヶ浜町)、道の駅浅虫温泉(青森県青森市)、道の駅こどまり(青森県中泊町)、道の駅なみおか(青森県青森市)
街道コラム
イワシの焼き干し
この地域の特産の一つに焼き干しがある。魚の身に油が少ない秋、とれたばかりのカタクチイワシの頭とはらわたを丁寧に取り除いて乾燥させ、20~30匹程度を竹串にさして炭火でじっくり焼き干しにする。焼き干しからは極上の出汁が取れ、高値で取引される。産地は外ヶ浜町平舘と、平舘海峡をはさんだ対岸のむつ市脇野沢の九艘泊(くそうどまり)が中心となっている。