「おでかけ・みちこ」2018年9月25日掲載記事
海辺につくられた坂また坂の道
道普請に生涯をささげる
三陸浜街道は、東北に数ある街道の中でも指折りの難路だった。特に宮古から北では、100メートル前後の上り下りを繰り返す、急坂の道が続いていた。それは、海岸ぎりぎりまで山が迫っているためで、絶景で知られる北山崎、鵜ノ巣断崖に見られるような、高さが100メートル以上の崖に現れている。
そんな三陸海岸近くの旧新里村和井内(宮古市)の農家に生まれた牧庵鞭牛和尚は、三陸地方の貧困は冷害による飢饉に加え、交通不便で内陸部との物資交流が盛んでないためだと考え、46歳の時、道の開削と改良に生涯をささげる決意をした。
手始めは橋野村(釜石市)と大槌村(大槌町)を結ぶ小枝街道で、次に花輪村(宮古市)、さらに生地に近い盛岡と宮古を結ぶ宮古街道(現在の国道106号)の改修だった。閉伊(へい)川沿いを東西に走るこの道は、洪水になると通行止めとなったり、崖から落ちて亡くなる人が後を絶たない難路だった。
この改修に成功したことから、鞭牛は盛岡藩の理解を得ることができ、岩泉、宮古、山田、大槌、釜石など各地からの技術指導要請に応じて、玄能と鑿、鶴嘴を手に次々と道普請を進めていった。それまで、地域の人たちに苦労を強いた悪路は改良され、沿岸の海産物は盛岡に流通しやすくなった。改修を記念した道改修記念碑や供養塔が各地に立てられ、地域の人たちはいまでもその徳をたたえている。
沿岸と内陸とつなぐ脇街道
前回の25号で紹介した「気仙道」は、現在の仙台市から岩手県釜石市まで、仙台領のみを通る道だったが、この三陸浜街道は釜石市から青森県八戸市までの道で、一本の街道というより、地域間の交流に使われた道がつながった街道といっていいだろう。
途中、釜石や大槌から遠野を通って盛岡に向かう遠野街道、宮古と盛岡をつなぐ宮古街道、岩泉を通って盛岡に向かう小本街道、野田や久慈と内陸をつなぐ久慈野田街道が浜街道と直角に交わっていた。
この海道沿いの村々は、海産物生産を生業としてきた。ニシンやカツオをはじめとした塩干魚(えんかんぎょ)、ワカメ、干しアワビ、魚肥となる鰯〆粕(いわししめかす)などのほか、重要な産物に鉄と塩があった。鉄と塩を除く海産物は、沿岸の浜街道を南北に運ばれたのではなく、海船によって街道の起点の港に運ばれたり、東回り航路を使い石巻を経由して大消費地の仙台、江戸などに運ばれたりした。 しかし、盛岡をはじめとする内陸の消費地には、脇街道が利用された。特に野田など北部の海岸で作られた塩は、牛の背に積まれて盛岡城下や人口が多い尾去沢(おさりざわ)などの鉱山町にも運ばれた。浜街道は村と村を行き来するため使われる、生活道路の要素が強かった。
津波と飢饉の常襲地帯
この地域の歴史は、津波と冷害と飢餓を外して語ることができない過酷なものであった。三陸浜街道もたびたび津波に飲み込まれ、道沿いには数多くの津波供養碑や、津波到達を知らせる石碑を見ることができる。
「三閉伊一揆」と呼ばれる大規模な一揆が嘉永6年(1853)に発生した。野田・宮古・大槌代官所管内で起きたもので、度重なる飢饉や蝦夷地警備にかかる費用の増大などで、財政難に陥った藩が重税を課すなどした。それに耐えかねた三閉伊の農民や漁民1万6千余人が、「小○(こまる)」と書かれたむしろ旗を立てて浜街道を南下し、仙台領に入り込み越訴したという大きな出来事だった。このような歴史の舞台にもなった浜街道だが、東日本大震災でも津波に飲み込まれ、今でもその傷跡は痛々しく残っている。
街道コラム
野田ベゴと塩の道
野田村は江戸時代以前から製塩地だった。砂鉄が多く製鉄が盛んで、海水を煮詰める鉄釜が手に入りやすかったことと、周辺の山から薪が大量に手に入ったためである。製塩は「直煮(じきに)」と呼ばれる鉄釜で煮詰める方法で、できた塩は盛岡をはじめとした南部地方の消費地に、ベゴ(牛)の背に積まれて塩の道を運ばれた。野田村では現在も製塩が盛んだ。東日本大震災で製塩所は流されたが、再生させて道の駅などで販売している。
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