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第5回 雪谷(ゆきや)隧道・岩手県(後編)

 本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。

【前編のあらすじ】

岩手県北部、九戸村と軽米町が接する辺りに、存在をすっかり忘れ去られたようなトンネルがある。その名は雪谷隧道。大正14年に完成した、全長145メートルの道路トンネルだ。

「 本邦道路隧道輯覽」に掲載された雪谷隧道の図。各種の技術的情報が凝縮されている。この資料に出会えたのが雪谷隧道への全てのきっかけだった

雪谷隧道は、『本邦道路隧道輯覽(しゅうらん)』(※)という昭和16年の文献に記録されており、他の一次資料は未だ発見されていない。私は平成19年にこの文献と出会い、おそらく”岩手県最古のコンクリート道路トンネル”に違いない雪谷隧道を探し出すことに夢中となった。当時この隧道の正確な所在地も、現状も、ネット上や文献に記載が見当たらず、不明であった。 さっそく机上調査をスタートさせた私だが、圧倒的な資料不足のため、自宅でできることは限られていた。そのため、半ば見切り発車的に現地探索へと繰り出した。二人の仲間と共に向った軽米町図書館では、住宅地図という意外な資料から隧道発見の糸口を得た。だが、午後から実際に山中へ分け入ってはじめた隧道捜索は想像以上に難航し、秋の日はみるみるうちに傾いていったのだった。

五枚橋峠を出発して1時間15分、草むした廃道を2.5キロ歩いた先に現れた、前回のラストシーン。倒木に半ば塞がれた掘り割り奥に、凝り固まったような深い闇が佇んでいた。机上調査のスタートから数えて約1ヶ月ぶり、現地調査のタイムアップ直前に漕ぎ着いた、記念すべき雪谷隧道発見の瞬間だった!廃道探索者<オブローダー>である我々が夢にも見た洞内探索が、間もなく現実のものとなる!

土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブスにて公開されている。東北全体では、本連載の第2回でとり上げた「雄鹿戸隧道」を含む11本が掲載。

雪谷隧道内部探索編

2007/10/23 16:21 雪谷隧道 軽米側坑口

これが探し求めた雪谷隧道の坑口だ。既に日没後のため辺りは薄暗く、デジカメの性能の限界を超える撮影環境であったため、この後は過剰にノイズの乗った写真が多いがご了承をいただきたい。もっとも、仮に明るい時間に辿り着けていたとしても、谷底のどん詰まりである現地が薄暗いことに変わりはなかったが。

記録によれば、全長は145メートル。まっすぐ九戸側坑口へ通じていたはずの洞内には、一条の光も望めなかった。風が抜けている様子もない。これまで無数の廃止トンネルを相手にしてきた私は、この時点で、内部の潰滅(非貫通)をほぼ確信した。

廃道に慣れていない読者さんの中には、落盤した隧道内部を初めて目にする人もいると思う。閉塞した廃隧道への立ち入りには、落盤、酸欠、暗所での転倒など、地上の廃道にはない物理的リスクがあるので、探索には十分な注意と準備が必要だ。それに、廃隧道は多くの人が典型的にイメージする“不気味な場所”であって、侵入には精神的な意味でのハードルも高いであろう。ましてこんな夕暮れ時である。それでも私が立ち入ろうとするのは、どんな姿になっていたとしても、隧道が好きだからだ。隧道に関する一つでも多くのことを、この目で確かめたいのだ。

『輯覽』の1ページからようやく辿り着いたゴールに感慨ひとしおであったが、眼前にある坑口の姿に対する違和感がすぐにムクムクと湧き上がってきた。『輯覽』には設計図らしき「坑門図」が収められており、そこには要石(キーストーン)を有する立派なアーチリングや、坑門全体の転倒を防ぐための壁柱(パラペット)など、古いトンネル坑門の伝統的意匠をふんだんに取り入れた美しい坑門が描かれていた。だが、実際に発見された隧道にはそもそも坑門と呼べる構造物が存在せず、コンクリートの坑道が直接地上に露出したような異様な姿であった。まったく似ても似つかない。

この大きな食い違いの正体は、地面にあった。かつてあった坑門は既に倒壊し、坑口付近に山盛りの苔生す残骸と化していたのである。なんのための壁柱だったのかと問うても、死者にむち打つ悲しさよ。廃隧道として放置され続けてきた月日の長さを印象づける無残な現状に、期待されたような「文化財」という評価は似合いそうにない。広大な東北の山河の一隅からようやく見つけ出した“貴重な岩手県最古のコンクリート道路トンネル”は、皆に忘れられて過ごした長過ぎる年月の間に、華やいだ人造の形をほとんど失い、包容力に富んだ自然に溶け込んでしまっていたのだ。しかし、私はそれを単純な価値の喪失とは感じない。この破壊された人造物だけが醸すことを許された退廃美の凄みを見よ! おぞましくも美しい! 私の雪谷隧道評は、この言葉に始まる。

坑口前に散乱した、大量の苔生したコンクリート片。倒壊した坑門の残骸とみられる。この堆積のため、坑口は本来の断面の下半分を喪失していた。

次の一歩からはトンネルの内部というぎりぎりの位置に立って、ヘッドライトを点灯させ、改めて洞内を観察した。視覚よりも先に理解したのは、嗅覚に訴えるカビ混じりの重苦しい土の匂いだった。まるで淀んだ空気の重さが黒い色を帯びているかのように濃厚な闇が、ヘッドライトの光やカメラのフラッシュを遮っていて、洞奥は窺い知れない。崩壊は坑門だけに留まっていない。内部も酷い有様だ。両側の内壁(コンクリートの側壁)がボロボロに崩れ落ちて壁際に山を作っているうえ、路上には行き場を失った地下水がたっぷりと溜っている。その地底のプールに向って、天井からおびただしい量の水垂れがあり、ぴちょんぴちょんどころではなく、じゃぼじゃぼという豪快な音を立てていた。落盤、崩壊、そして水没。”廃隧道らしい”ものは、ここに全て揃っている。 ほぼ確定的に内部で閉塞している廃隧道。しかも、立ち入れば足を濡らすことが確定的。10月末の冷たい地底湖だ。車に戻るまでは替えの靴もない。少なからず躊躇いを感じたが、ここまで来て、見えている奥へ進まないという選択肢はなかった。私は隧道マニア(偏執狂)だ。

私たちは洞内へ歩みを進める。じゃぶじゃぶ。水に足を浸した瞬間、水面下を何か小さなものが矢のように走った。 何?! 生き物?! 動いた何かに向って光を当てると、イモリらしき小さな姿が水面下に佇んでいた。よく見ると何匹もいる。人が昔に忘れていった人工物に、いつの間にか棲み着いていた野生生物というわけだ。昼も夜もない暗い地底湖は、彼らにとって自然界に得がたい居心地の良い安住の地なのかも知れない。少しだけ和む。

入口を振り返ると、ギョッとする光景が!! 仲間の頭の上に、いつ落ちてきても不思議ではなさそうな、巨大なコンクリート塊がぶら下がっている。実はこの部分、唯一転倒を免れて残る坑門の残骸であるようだ。ここだけ落ちていない理由は、アーチ部分にも鉄筋が仕込まれていて、坑道のコンクリートと接続しているからなのだろう。側壁だけでなく、アーチ部分も鉄筋コンクリートであったことを裏付けている。

崩れた側壁の大きな隙間からは、地球の肉のような岩盤が露出していた。あばら骨のように見えるものは、側壁に仕込まれていた鉄筋だ。これは二つの意味で重要な発見だった。

一つは、この鉄筋が今日使われているものとは異なる、古い型であったことだ。今日の鉄筋は異形鉄筋と呼ばれるもので、表面にリブと呼ばれる凹凸が刻まれている。だがここに使われている鉄筋にはその凹凸がない。これは丸形鉄筋といい、我が国では主として戦前まで使われていた古いタイプである。これにより本隧道が戦前の建築物であることがほぼ立証された。

もう一つの意味は、そもそも論として隧道の内壁に鉄筋が仕込まれていたことの特異性だ。隧道の内壁を覆うコンクリートの壁(覆工という)は、鉄筋を用いない無筋コンクリートである場合が多いのだが、敢えてコストの高い鉄筋コンクリートを用いた意味は、おおよそ一つしか考えられない。すなわち、この隧道は建設当初から地質が悪く、崩壊の危険性が指摘されていたということ。『輯覽』にも記載の見られなかった、鉄筋コンクリート使用という新事実の発覚。隧道の崩れた壁一つでも、こんなに発見がある。

やはり、こうなっていた。坑口から見えていた長さが、辿りうるほぼ全てだった。悪い予感は的中した。入口からおおよそ30メートルの地点で、坑道は天井まで積み上がった土砂の山によって塞がれていたのである。ひときわ強く鼻をつく土の匂いは、隧道にとっては死の香りだ。今まで何度嗅いだことか。ここには未来がない。見よ!これが捨てられた隧道の末路だ。我々の選択が生み出した景色だ。一顧だにする必要なしと切り捨てることができるか。私はこの文明に放埒された末路に、最後の一人かも知れない足跡を刻む。そこに隧道を愛する私の大きな喜びがある。

ここまで見届けなければ気は済まない。土砂の山によじ登り、閉塞の本当の末端がどうなっているのかをつぶさに確かめる。これが人の身体で入り得る最奥だ。先端部の天井アーチには巨大な裂け目が生じており、そこから土砂がなだれ込んでいた。つまり、人為的な埋め戻しなどではない、自然の落盤による閉塞であることを確認した。土砂は強い湿り気を帯びており、間近にいるだけで窒息しそうな気持ちがする。写真にもコンクリートの表面につらら状のものが見えるが、これはコンクリート鍾乳石といい、コンクリート中に含まれる石灰分が析出したものである。水気の多さを示すアイテムだ。

この壊れた天井アーチの断面からも、死骨の如き丸形鉄筋が露出していた。通常よりも強固に守りを固めたのにも関わらず、それでも坑道を守り切れなかったのは、耐用年数を超越した放置のせいかもしれないが、地盤の地質が良好でなかったことも明らかだと思う。地質さえ十分に良ければ、隧道は覆工などしなくても自立して、落盤により閉塞することは滅多にないものだ。だから素掘の隧道でも百年以上残るものがある。しかし、例えば公園の砂場に作った手掘りのトンネルは、砂という不良な地盤のために長く保つことはない。それは皆様もご記憶だろう。不良な地盤を支えるのが覆工の最大の役割なのだ。

閉塞地点付近から振り返る、軽米側の坑道の全貌。混沌の向こうに終末が接近していることを感じる。遠からずここは人の世界から完全に切り離され、永劫に踏むことのできない地中に還る定めなのだろう。

16:36 軽米側坑口へ帰還

雪谷隧道は入口から約30メートルで閉塞していた。記録されている隧道の全長は145メートル。ならば閉塞の向こう側にも100メートル以上の坑道が存在するはずだ。既に日は落ち、刻一刻と薄暗くなっていくいま、本来なら探索の終了を決断する時刻に差し掛かっているが、間近にあるに違いない九戸側坑口の探索が後ろ髪を引く。九戸側坑口は、先に1時間以上捜索しているが発見のできなかった因縁あるターゲット。今こそリベンジを果たしたい!

我々は、軽米側坑口がある谷を脱出し、隧道直上にある町村境の稜線を強引に乗り越えて、九戸側の坑口へと下る作戦(直登作戦)を開始した。敢えて傾斜の緩やかな部分を探して迂回することをせず、地中にある坑道の直線をイメージしながら、その直上をなぞるようにまっすぐ進むことを心がけた。その先には、まだ見ぬ九戸側坑口が待ち受けているはず。必然、道なき厳しい斜面に息は上がったが、急激な気温の低下と相殺して汗を掻くまでには至らなかった。写真は急斜面をよじ登る仲間の姿である。頼もしい。

なお、我々3人が分乗してきた車の1台を九戸側の林道上に残してあるので、仮にこの後で坑口を発見できなくても、ここで九戸側に山越えするのは最寄りの帰路でもあった。

さすがに隧道が掘られただけのことはあり、急な斜面が稜線近くまで突き上げていた。その斜面の中ほどで、大きなひょうたん型をした陥没地らしき凹みが発見された。高確率で坑道の直上にあたる位置である。これは地中の隧道が落盤閉塞した結果生じた陥没である可能性が高い。陥没地は長辺30メートルにも及ぼうかという規模で、落盤の規模の大きさを窺わせるものであった。地上に現れた隧道の不吉な爪痕である。

16:40 隧道直上の尾根(雪谷峠)

少しでも明るいうちに九戸側坑口に出会いたい我々は、最後の力を振り絞るように全力で斜面を駆け上がり、わずかな時間で頂を極めた。そこに待ち受けていたのは予想以上に広々とした鞍部で、特に道らしいものは見当たらないが、『輯覽』に隧道の所在地として記載されていた「雪谷峠」とはこの場所を指すのだろう。一面の伐採地のため見通しがとても良く、仄日の残滓が灯る空がとかく美しかったが、人に忘れられた峠の寂寞が滲み出るような景色でもあった。一人だったら逃げ出したくなったかも。しかしともかく、今は美しいとか寂しいとかにかまけている場合ではなかった。このどこへでも歩けてしまう地形の穏やかさは、地下にある隧道の進行方向を見失わせる罠だ。我々は互いに声を掛け合いながら、慎重に“直進進路”で鞍部を乗り越えた。この薄暗さだとチャンスはおそらく一度きりだ。ここで九戸側坑口へと一発で辿り着けなければ、今日の探索は打ち切りという決断を下さなければならなくなりそう。正念場だぞ!

おっしゃあー!!!

結局蓋を開けてみれば、今日は私たちの完全勝利だ!

ついに九戸側坑口も発見された!

暗くなった森の中に再び男たちの雄叫びが木霊する。なぜ前に探したときにこれが見つけられなかったのか。それが不思議に思えるほど、あっけなく発見された。もっとも、見つけた後だからそう思うのであって、やはり決め手となったのは、先に発見した軽米側坑口を起点にまっすぐ尾根を越えるという地味な行為を徹底できたことだろう。(GPSさえあれば、この捜索はもっと容易になったが、当時は所持していなかった。)

九戸側坑口は急斜面の底に口を開けていた。特に最下部はコンクリートの高い擁壁に取り囲まれていて、道への下降を阻んだ。我々は一旦坑口から距離を置き、擁壁が途絶える地点まで迂回した。そうこうしているうちに辺りはますます暗くなったが、もうゴールは見えている。今度こそ焦ることはない。悠々とウィニングランの気分だった。

16:46 雪谷隧道 九戸側坑口

やりました!
九戸側坑口にも遅まきながら到着です!
さすがに鑑賞に堪えるような写真を撮ることが難しい暗さになってしまっているが、ぎりぎり滑り込みで今日中に隧道の全貌を見届けられる。

九戸側坑口の第一印象は、堅牢さだった。あらゆるものが破壊されて酸鼻を極めた軽米側坑口とは異なる印象である。坑口前は長い掘り割りになっているが、両側の壁面はコンクリートの高い擁壁で護られていて、坑門へ導かれる道の景色は城門を潜るような重厚さがあった。この深い掘り割りからは、可能な限り隧道を短くして工費や工期を節約しようという素朴な意図が感じられた。

軽米側の坑門は倒壊して失われていたが、九戸側坑門は原型を止めていた。特に目立つような装飾を持たない、ごくシンプルなコンクリート坑門だった。岩手県下初(東北地方全体で見ても最古級)の記念すべきコンクリート造の道路トンネルであったはずだが、隧道名を知らしめるための扁額さえ有していなかった。同時期に建設された全国の道路トンネルのうち、坑門を持つものの大半が扁額を有している。立派にしつらえられた扁額は、難事業を制して生み出された隧道の存在を全ての通行人に誇り、同時に門戸として関係する地域の栄華を示そうとしたのである。だが、雪谷隧道にはなぜか扁額がない。これは『輯覽』に掲載されている「坑門図」を見たときからの謎であったが、実際その通りであった。資力に乏しく扁額を取り付ける余力すらなかったのだろうか、理由は不明である。こんな些細なところにも、雪谷隧道の解けない謎がある。もしも『輯覽』がなければ、隧道名も竣工年も何も分からなかった、本当に謎の隧道であっただろう。恐い。

さて、内部は閉塞していることが既に確定しているが、再び侵入する。『輯覽』に記載された各種データと見比べながら、大正14年生まれの貴重な隧道の味を堪能しよう。幸いにして内部の保存状況も坑門同様に軽米側よりは九戸側の方が良さそうだ。

坑口部には長年にわたる崩土や腐葉土が厚く堆積しており、本来の路面の高さよりもだいぶ盛り上がっている。だから洞内から外を見ると入口が狭く、少し見上げるような感じだった。坑口自体が高い擁壁に囲まれていることもあり、薄明かりの空が遠い。だがこのように下半分を土に埋もれさせながらも、隧道自体は整然とした姿を保っている。特筆すべきはアーチの天井部に見える格子状の模様だ。軽米側には存在しなかったこの緻密な模様がなぜ生じているのか、答えは材質と構造の違いにある。『輯覽』の「巻立方法材料及厚」の欄を以下に転載しよう。ちょっとだけマニアックな話になるが、是非とも伝えたい内容だから、付き合って欲しいな。

巻立方法材料及厚


穹拱 伊保内側


 ブロック巻配合1:2:4コンクリート 長0.29m 幅0.30m 厚0.45m 一枚巻 20m


小軽米側


 場所打コンクリート配合1:2:4 厚0.55m 125.45m


側壁 場所打コンクリート配合1:3:6 厚0.39m

上記は隧道の内壁について、アーチ部(=穹拱(きゅうきょう))は九戸側(=伊保内側)20メートルまでコンクリートブロック巻きで、残りの軽米側(=小軽米側)125メートルが厚さ55センチの場所打ちコンクリート巻きであることと、側壁は全線とも厚さ39センチの場所打ちコンクリートであることが書かれている。

同じコンクリートという素材を使いながら、場所打ちコンクリートとコンクリートブロックは施工法がまるで違う。コンクリート自体は、江戸時代から石垣などの形で連綿と用いられてきた石材や、明治初期に西洋から鉄道技術などと共にもたらされた煉瓦に次いで、明治末から大正時代にかけて新たに登場した土木の素材だった。セメントと砂利と水を適当な配合で練って作られる、煉瓦より廉価で強固なコンクリートという新素材を、予めブロック状に固めたものがコンクリートブロックであり、これを石材や煉瓦と同じように積み上げて作る建造物をコンクリートブロック造という。全国の明治末から大正時代(稀に昭和初期)に作られた多くのトンネルに採用されている。だが、コンクリートという素材の真価はブロックとして積み上げて用いること(組積造という)ではなかった。コンクリートは「場所打ち」が可能だったのだ。固まる前の柔らなコンクリートを現場に設けた型枠に流し込んでから固まるまで待ち、それから型枠を外すと構造物が完成している。これが場所打ち。大型の構造物を作る場合、場所打ちの方が圧倒的に手間も工費も節約出来たし、強度もより強くすることが出来た。そのため、トンネルの材質としては昭和以降現代に至るまで、場所打ちコンクリートが主役であり続けている。

コンクリートブロックから場所打ちコンクリートへ技術が変遷する過渡期にあたる大正末に生まれた雪谷隧道は、九戸側のわずかな部分にのみコンクリートブロックが用いられ、大半は場所打ちコンクリート施工が用いられているという。さほど長くない1本の隧道で異なる工法を取り入れているのは珍しいことであり、土木技術の進歩を間近に観察できる貴重な状況になっている。そして、このような技術面における先進性があったからこそ、雪谷隧道は、内務省土木試験所が全国のトンネル技術者向けにまとめた、栄えある『本邦道路隧道輯覽』に採り上げられたのだろう。その後の活躍が全く不明であっても……、間違いなく技術的価値は高かった……! そのことを私は、取り残されたようなこの場所でひとり感じ入り、押し黙ったままの隧道に喝采を送っていた。

仕上げの洞内探索をスタート。こちらもやはり水没していた。入口から外へ排水されていない以上、地下水や雨水が溜るのはやむを得ない。我々が普段使っているトンネルが水没していないのは、ちゃんと排水の準備があって、日々それが維持されているからなのだ。ありがたいことなのだ。

水は恐ろしいほどに透き通っていて、手掬いでそのまま口にしたいと思えるほど。天然の地底湖のような印象だった軽米側とは全く印象が異なる、人造地底湖。坑口から少し離れると洞床には巻き上がる泥もなくなり、ますます清澄になった。ヘッドライトの光が波間に煌めき、天井に揺らめく水面が幽玄に踊った。水深は30センチほどで、歩こうとも立ち止まろうとも、あまりの冷たさに浸けた足がじんじんと痛んだ。だが、水底には角の取れた川砂利が敷かれていて、痛む足を優しく受け止めた。(でも痛い! 男たちの黄色い声が洞内に木霊した…)

アーチ部だけでなく、側壁にもコンクリートブロックが用いられている部分があった。『輯覽』は、側壁は全て場所打ちコンクリートだとしていたが、実際はそうではなかったのである。また、アーチ部と側壁ではブロックの寸法や積み方が異なっていた。そしてその境目には微妙に段差があり、モルタルを詰めて埋めたようになっていた。なんとなく雑な感じだ。『輯覽』との矛盾を含め、何か施工上の手違いがあったのだろうか。

さらに注意深く見ていくと、側壁にはコンクリートブロックの部分と場所打ちコンクリートの部分とが相互に現れた。その境目は左の写真のようになっている。なぜこのような不自然な施工になったのか、謎が深まるばかりだが、100年近くも昔の設計者や施工者に話を聞ける可能性はほぼなく、おそらく永遠に解けない謎になっている。しかしこのツギハギ感、難工事を感じさせるものがある……。

『輯覽』の「縦断勾配」欄には「中央より両口へ0.5%」と書かれている。これはどういうことかというと、トンネルの中央が一番標高が高くて、そこから両口にむかって100メートルで50センチ下る緩やかな勾配が付いていることを示している。このようにトンネル内が両坑口よりも高い勾配を“拝み勾配”と呼び、工事中も完成後も自然に排水できるため昔からよく使われている。そしてその結果、どういう景色が現れるかというと、坑口から30メートルほど進むあいだに水が次第に浅くなり、遂に水底から本来の路面が姿を現したのである。水域に隔絶された地底の陸地に上陸するのは、なんとも冒険心をくすぐる展開だった。

じゃくじゃくと小気味の良い音を3人分も響かせながら歩いて行くと、まるで昔日の通行人になったような心境が沸き起こる。隧道もほんのいっときとはいえ、生ある姿を甦らせたように感じられた。この瞬間が私は好きだ。

坑道のサイズについても『輯覽』に各種の記録がある。有効幅員3.636メートル、有効高3.64メートル、中央高4.55メートル。上記サイズは当時の隧道として見ると大きくも小さくもない平均的といえるもので、歩いて通るには十分に大きいし、貨物自動車の通行も可能であるが、自動車同士がすれ違うことはできない。現代の感覚からすると(自身で車を運転して通るとしたら)、かなり窮屈に感じるに違いないサイズであり、古さを感じる。

『輯覽』の「路面工種及厚」の欄には「砂利道」という表記があり、大正14年に完成した当初は砂利道であったことが分かっている。当時は地方の山岳道路といえば大半が砂利道であったから、このこと自体は驚くにあたらない。だが、昭和40年代頃からは国道や都道府県道の舗装化が一気に進展し、トンネルも優先的に舗装された。結果、トンネルは舗装されているのが当然といえるまでになっており、素掘(=覆工がないこと)以外で舗装のないトンネルは今日かなり珍しい存在だ。そんな中、雪谷隧道は廃止される最後まで舗装されていなかったという事実が明らかになった。もしかしたら、敷かれている砂利は大正時代からのものかもしれない。雪谷隧道が廃止された時期は今のところ不明であり、これが残された最大の謎なのだが、相当に早い時期ではないかと個人的に疑っている(個人的な印象としては昭和40年代以前の廃止)。

また、これも『輯覽』に記述があるが、両側の壁際には水抜きのための側溝が掘られている。側溝に蓋が見られないのも古いトンネルの特徴である。また、コンクリートブロックの側壁の所々が歯抜けになっていて、奥には地肌が見えていた。これは壁の裏側から地下水を排水するための構造と考えられるが、珍しいものだと思う。

軽米側ではイモリらしき先住者を見つけたが、九戸側にも別の先住者がいた。天井でギュギュギュッと密生して温め合っているネズミほどの大きさと色を持ったそれらは、隧道探索者にとって最も見慣れた生物であるコウモリたちだった。彼らは冬眠の習性があるので、いまはライトやフラッシュを当てられても微動だにしないが、活動期には近づくだけで大乱舞し探索者を威嚇してくる。噛まれるような実害はないが、凄まじい騒乱と体当たりのため、気弱な人がしばしば引き返す羽目になる。雪谷隧道は数百匹程度が暮らす小規模のコロニーになっているようだった。

坑口から50メートルを過ぎても洞内の堅牢ぶりには少しも綻びはなく、軽米側の惨状と比較して、とても同じ隧道内にいるとは思えないほどだった。そしてそのまま、計算上では閉塞地点がいつ現れても不思議ではない100メートル地点あたりまで平穏は続いた。最初に起きた変化は、天井のアーチがここまでのコンクリートブロックから、おそらく内部に鉄筋が仕込まれたコンクリートに変わったことだった。思うに、建設当初からこの先は崩壊の危険が予知されていて、特別に強度を高めるための努力が図られていたのではなかったか。場所打ちコンクリートというだけでもコンクリートブロックより強固だが、さらに堅固な当時の最先端技術である鉄筋コンクリートを用いたというのは、並大抵ではないはず。なお、『輯覽』ではコンクリートブロックの部分は20メートルとなっていたが、実際は100メートルほどもあったし、鉄筋コンクリートを用いていたことも記述にはない事実だった。こうした違いが生じた原因は不明である。

16:55 雪谷隧道 九戸側最深部(閉塞地点)

突然死。100メートルまでは何の綻びもなかった坑道だったが、出現した一箇所目の崩壊で完全に沈黙していた。状況は、軽米側坑口から立ち入って目にした閉塞地点とそっくりで、天井を突き破った莫大な量の土砂が、幅3.6メートル、高さ4.5メートルの隧道全断面を一発で埋め尽くしていた。我々は、現れるべくして現れたこの状況に、ただ納得し、踵を返すよりなかった。

結論として、隧道の全長145メートルのうち、軽米側の40メートルほどにあらゆる崩壊が集中していた。地質が九戸側とは違っているのだと思う。鉄筋コンクリートを覆工に用いるなど、“備え”ていたとは思うのだが、それでも長年の使用に耐えられなかったか。本隧道が歴史の闇に葬り去られた理由と関係があるのだろうか。

16:59 雪谷隧道 九戸側坑口前

冷たい水面を蹴り破って地上へ戻った我々は、そのまま隧道に背を向けて、コンクリートウォールに囲まれた掘り割りを進む。地上の道は完全に山林と同化しており、人や車が通っていた痕跡は皆無であった。廃道としての風化の具合は明らかに軽米側より進んでいた。50メートルほどで掘り割りを抜けたが、そこから振り返っても、二度と隧道は見えなかった。もう夜の闇に閉ざされていたからだ。

さて、雪谷隧道の発見と探索という今回の目的を達成した。あとはこの成果を持って帰るだけだが、四方は夜の森であり、道はどこにも見えない。予想では雪谷隧道の九戸側坑口の位置は林道からさほど離れていないはずなので、この森をまっすぐ突き進めば、すぐに見覚えのある林道に脱出できるはずだった。信じて進む!

17:03 林道へ脱出!

隧道を出て4分ほどで目の前がぱっと開けたかと思うと、そこが林道だった。林道から隧道までは100メートル前後しか離れていなかったのである。だが、こうして林道側から振り返ってみても、ここに雪谷隧道へ分かれ道があるようにはまるで見えない。知らない人にはただの笹藪だろう。廃道の入口でしばしば目にする「立入禁止」の看板すらも存在しないこの道は、もはや誰にも“道”として認識されなくなった、真に忘れられた存在という印象だ。単に目に留まるという意味ならば、かつてこの地で伐採に励んだ人たちも隧道を必ず見つけていたはずだが、それがニュースになった様子もなかった。今回の私の発見もまた、ニュースになることはないだろう。だが、私はこのままでは終わらせない。必ず報告の場を設け、価値を共有できる人たちに伝えたいと思うだろう。

つまり、これを書き、皆様が読んでいるいま、私の探索の“最終目的”は果たされたのだ。

我々が先に九戸側で隧道を探した位置(「前編」参照のこと)は、正解の場所から500メートルほど東にずれていたことが、林道を歩くうちに判明した。その数分後には、予め停めておいた仲間の車に辿り着き、五枚橋峠を出発地とした3キロ超の廃道探索は終わりを迎えた。

最後は、我々の恒例となった栄養ドリンクで祝杯を。煌々と照りはじめた月明かりの下で、本日の勝利に酔う男たちの歓呼の声は、土に塞がれた古の隧道をも通り抜け、大正14年6月30日に木霊しただろう「竣工万歳」の叫びを、近隣の山河に想起させたはず。

雪谷隧道、ここにありと!

【探索了】

次回は、軽い【補完編】を予定しています。お楽しみに!

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