「michi-co」2017年12月25日号掲載記事

 

牛が連なった銅の道

 

落語家が記録した山道

江戸時代、旅を楽しみながら、各地で落語や浄瑠璃、義太夫などの興行を行ない、東北の街道を歩く芸人がいた。そのうちの一人に、扇遊亭扇橋という江戸の落語家がいた。本名を鈴木十蔵といい、天明6年(1786)ころ江戸の生まれ。はじめは狂言作者を目指したが、後に落語家の初代・船遊亭扇橋の弟子となり、2代目を襲名した。後世、この一門は入船亭を名乗っている。

扇橋は天保12年(1841)、弟子の船蔵に2代目を譲り、妻を伴う気ままな寄席興業の旅に出た。芸名を扇橋庵語佛とし、水戸、仙台、松島、盛岡、八戸と旅したのち、三戸(青森県)と鹿角(秋田県)を結ぶ来満街道を通って鹿角の花輪、さらに大館から先は羽州街道で能代、久保田(秋田市)に着いた。その後、津軽にも足を延ばしている。扇橋はその様子を『奥のしをり』という旅日記に残した。

大柴峠では蚊の群れに悩まされたこと、わびしいと映った大湯温泉のたたずまい、「こみせ」(雁木)がある毛馬内の宿場、山菜のミズを叩いて「みずとろろ」にして食べたこと、錦木塚についてなどを記している。

歌枕の地を巡るのも一つの目的だったらしく、随所に先人が残したかずかずの歌を紹介している。博識で好奇心も旺盛だった江戸の文化人は、各地で見聞した物事を、的確な表現でいまに伝えてくれる。

牛の背に積まれた尾去沢銅

扇橋が通った山道を、秋田では来満越え、三戸往来、奥筋往来、青森では田子道、鹿角道などと呼んだ。来満街道というのは、明治12年に秋田県で整備すべき道路として命名したもので、他にもある鹿角街道と区別するため、三戸鹿角街道と呼ぶこともある。その名の由来は、街道近辺にあった来満山からきたようだ。しかし、来満という名の由来については諸説あるが、はっきりしない。扇橋は『奥のしをり』で「雷幡」という字をあてている。

来満街道には北から大柴峠、来満峠、不老倉峠と、秋田と青森の県境を越える3本のルートがあった。江戸時代は大柴峠ルートが主要道で、この峠道は尾去沢から陸奥湾沿岸の野辺地湊(青森県)まで、荒銅を運ぶ銅の道であり、太平洋側の塩を内陸に運ぶ塩の道でもあった。また、来満峠、不老倉峠は、明治になってから開発された不老倉鉱山の粗銅や生活物資を運ぶ峠道だった。

尾去沢の粗銅を運ぶには、米代川を下すルート、盛岡に運んで北上川を下すルート、大柴峠を越えて三戸から奥州街道経由で野辺地に運ぶルートがあった。米代川ルートは、秋田藩との確執から次第に使われなくなり、冬期間を除くほとんどは大柴峠ルートが利用された。野辺地まで陸路で運ばれた粗銅は、盛岡藩の御雇船に積まれて大坂で精錬された。

駒形神社と松ノ木一里塚跡 盛岡と田代(大館市)をつないだ鹿角街道と来満街道の追分にあたる(鹿角市十和田錦木)
錦木塚 歌枕として知られていて、能や謡曲に「錦木」として謡われている(鹿角市十和田錦木)
中ノ渡一里塚跡 安久谷(あくや)川沿いの道、杉林の中に南側の塚が残っている(鹿角市十和田中折戸)
(伝)北畠昌教の墓 昌教は織田信長に滅ぼされた伊勢の国司。大きな円墳となっている(鹿角市十和田上折戸)

時代により峠の役割が変わる

江戸時代から操業していた不老倉鉱山だが、古川市兵衛の経営のもと最盛期は明治後期から大正の前期で、鉱山町の人口は一時は約5千人に膨れ上がった。鉱山町には学校、商店、映画館、旅館など、生活に必要な設備や娯楽施設が建設された。そこで使用される生活物資の多くは来満峠、さらに時代が下ると、標高が最も低い不老倉峠を通って鉱山町に運ばれてきた。また、不老倉鉱山や、青森県側にあった夏坂鉱山の粗銅は、ワイヤーによる索道や隧道を利用して小坂鉱山に運ばれて精錬された。

不老倉鉱山ふもとの折戸集落に住む人たちは、農作物や生活物資と交換する山の幸を担いで、田子や三戸まで日帰りで峠道を往復したという。

大柴峠への道 道の両側にはブナやナラの木が続く。街道を下敷きに道が拡幅されたようだ(鹿角市十和田)
夏坂御番所跡 国道103号沿いの民家前に標柱が立てられている(田子町夏坂字夏坂)
奥州街道と来満街道の追分石 「右 かつの」「左 もり岡」と彫られている。国道4号の改良工事で三戸城址の敷地に移転された(三戸町梅内)
街道周辺の道の駅は、こさか七滝(秋田県小坂町)、おおゆ(秋田県鹿角市/平成30年4月下旬オープン予定)、かづの(秋田県鹿角市)、さんのへ(青森県三戸町)

街道コラム

ライマンが見た来満山

鹿角地方の鉱山資源に着目した、お雇い外国人のB・S・ライマン(アメリカ)は、明治政府から依頼された秋田、山形、新潟県の石油探索に際し、鹿角地方を訪れ、尾去沢、小坂、大葛などの鉱山調査を行なった。ライマンが野帳(フィールドノート)に残した記録に、「Raiman-yama」とメモした絵がある。自分の名と同じ山名に関心を持ったのかもしれない。来満街道の名の由来はこのライマンによるという説もあるが、来満山はその前からあったことは間違いない。

B・S・ライマン