「michi-co」2017年9月25日号連載記事
交易と戊辰戦争の道
湯の道をゆく
『田沢湯元道中画報』(県指定有形文化財)と名付けられた画帳が残されている。明治10年(1877)に描かれた一冊で、作者は大坂東岳という絵師である。東岳は刈和野(秋田県大仙市)に天保13年(1842)ごろに生まれ、角館の絵師・武村文海に師事した。同門に日本画家の平福穂庵(百穂の父)がいたが、師匠からは穂庵より画才があると評価され、「文嶺」という雅号をもらっている。しかし、穂庵が東京に出て評価が高まるにつれ、穂庵への嫉妬から後半生は荒れた生活を送り、非業の死を遂げたとされている。
東岳は大仙市長野にある、「秀よし」の醸造元・鈴木酒造店の当主に、パトロンのように面倒を見てもらっていた。この画帳は54場面からなる旅のスケッチ帳で、現在も鈴木家が所有している。「秀よし」がある長野をスタートして、角館、卒田の金精神社、潟見峠(薬師峠)、田沢湖などを巡り、乳頭温泉郷の鶴の湯までの旅程が描かれている。
筆遣いは軽妙で、絵からは旅を楽しむ様子が伝わってくる。卒田の金精神社で金精さんを見て頬を赤く染める参拝の女性、鶴の湯で混浴を楽しむ男女などから、当時の世相が見える。また、街道沿いの様子もよくわかり、記録の面からも貴重な画集となっている。
盛岡と久保田を結ぶ最短ルート
岩手側では秋田街道、秋田側では生保内街道と呼ぶ道は、盛岡~国見峠~角館を指す場合が多い。角館から先、六郷までを生保内街道とすることもあるほか、大曲まで延びる角館街道と、旧・協和町(現・大仙市)の境まで延びる繫街道があった。盛岡から久保田(秋田市)に向かう最短ルートはこの繫街道(現在の国道46号)となる。3本とも奥州街道と羽州街道を結んでいた。
秋田街道は太平洋側と日本海側の交易ルートだったが、幕末の戊辰戦争では、盛岡藩兵が秋田側に攻め入る、戦の道となった。いまでも生保内や角館には、戦死者の墓や慰霊碑がいくつも残されている。
いまも岩手県側の街道の山道が残されていて、雫石町にある道の駅雫石あねっこの道路向かいには、秋田街道を示す木柱が立っている。標高が940メートルと、奥羽山脈越えの街道でも一、二の高さの難路だったが、明治9年に開通した明治新道の峠名は、秋田県側の仙北と岩手から合わせ取った「仙岩峠」と、大久保利通によって命名された。
秋田おばこと雫石あねっこ
美人の誉れ高い秋田おばこと雫石あねっこは、この秋田街道周辺に住まいする。一夜のうちに峠を行き来し娘のもとに通った若衆の夜這い話が、生保内と雫石に残されている。そのためもあるのか、いまでも県境を越えた結婚話は少なくない。
秋田民謡の「ひでこ節」は、岩手県三陸の下閉伊地方の「そんで節」が伝わったもの。また「あねこもさ」も岩手の「鋳銭坂」が秋田に伝わったとされている。いずれも国見峠を越えたものである。
徳川幕府のための馬買い衆が行き来し、日本海と太平洋の塩が時代によってそれぞれ運ばれた。さまざまな産物が行き来した峠には、物資の輸送を助ける「助け小屋」が藩境に設けられ、荷を運ぶ人の便を図った。