鶴岡から村上
幕末の志士清河八郎
幕末の庄内に生まれ、江戸に出て討幕を企てた一人の青年がいた。庄内藩領清川村(現庄内町清川)の齊藤元司(もとじ)で、後に清河(きよかわ)八郎と名を変えた。
元司は天保元年(1830)、最上川沿いの清川村の豪農で、500石の農地を持ち庄内最大の造り酒屋だった家に長男として生まれた。頭脳優秀で、18歳で江戸に遊学し東条塾、昌平坂学問所などで学び、千葉周作の北辰一刀流玄武館では剣術を鍛錬し免許皆伝。23 歳で清河八郎と名を変え、神田三河町に文武両道を教える清河塾を開いたが火事に会い、清川村に戻った。
そのタイミングで、八郎は母を連れて伊勢参りの旅に出た。清川~鶴岡~新潟~善光寺~伊勢~奈良~京都~大阪~琴平~厳島~岩国まで行き、戻りは江戸~日光~山形~清川という、半年間に及ぶ大旅行だった。八郎はその旅を『西遊草(さいゆうそう)』として書き表し、激動ともいえる人生のなかの穏やかな一時を残した。
八郎はその後、江戸に出て討幕・尊王攘夷の思想を強く持ち虎尾(こび)の会を結成。桜田門外の変に影響を受け、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)に「急務三策」という建白書を提出し、将軍警護をうたう浪士組を結成した。しかし、本心は尊王攘夷にあった。横浜外国人居留地焼き討ち計画が外部に漏れ、警戒した幕府の刺客によって殺害された。34歳だった。
庄内初代藩主入部の道
小国街道は山形県では国道345号に、新潟県に入ると国道7号に重なる道で村上までつながっていた。
母を連れた八郎が、鶴岡から越後の村上まで歩いたのがこの小国街道だった。庄内・越後を結ぶ道として、海岸の鼠ケ関(ねずがせき)を通る羽州浜街道と並行した山中の道で、越後では出羽街道や山通りと呼んでいた。
小国街道の名は、山城の小国城があった小国を通るためだった。途中、大日坂、鬼坂峠、楠峠、一本木峠、角間台峠、堀切峠と山坂が多く道幅も狭かったが、越後までの距離が短く、浜街道に海からの高波が押し寄せる時期には小国街道がよく利用された。
この街道は参勤交代路ではなかったが、元和8年(1622)、庄内初代藩主酒井忠勝が、信濃松代から庄内入部の際に使った道だった。また、越後方面から出羽三山詣でに向かう人たちが、数多くこの街道を利用している。
八郎は温海(あつみ)川から小俣を通った時の印象を、『西遊草』に「山々連なり谷々巡り、どこでも谷川の音が聞こえ大そう深山らしい趣があった。ようやく春ののどかな眺めとなったので、草木の花を尋ね、あるいは残雪を取り、鳥のさえずりに疲れを忘れた」とした。
宿場の木札
街道名ともなった小国は、この街道の庄内側では一番大きな宿場で、小国関所も置かれていた。今でも宿場らしい雰囲気が残り、家の玄関先には「出羽街道小国宿 ◯◯◯屋」などと、屋号が墨書された木札が打たれている。同様の木札は、堀切峠を越えた小俣宿の家々にも打たれていて、県を越え同じ街道で栄えた宿場同志の心意気が伝わってくる。
街道一の難所だった葡萄(ぶどう)峠 の手前に大沢峠がある。峠には敷石道が約300メートルにわたり残っているが、新たな試みとして、埋もれた敷石を掘りだし、不足した石を敷くなど地域の挑戦が続いている。
小国街道周辺の「道の駅」は、
あつみ(山形県鶴岡市)、笹川流れ(新潟県村上市)、朝日(新潟県村上市)
街道コラム
しな織の里
本街道とは別に木野俣を南に直進する道もあった。途中、関川を通り雷いかづち峠で越後に入る道で、峠を下りた雷と、その先の山熊田、そして先にあげた関川は、しな織の里である。
しな布(ふ) は、かつては日本各地で織られていたが、現在はこの3集落に残すのみ。関川には「関川しな織センター」が、山熊田には「さんぽく生業(なりわい)の里」があり、伝統工芸品「羽越(うえつ)しな布(ふ)」の織り体験ができる。