岩城平藩領から水戸藩領をゆく
旅好きな儒学者・長久保赤水
水戸藩は有能な人物を多く輩出したが、そのうちの一人に儒学者、地理学者だった長久保赤水(せきすい)がいる。享保2年(1717)、江戸浜街道(水戸街道)沿いの常陸国多賀郡赤浜村(現茨城県高萩市赤浜)の農家に生まれた。若いころから地元と水戸の学者から学問や漢詩の手ほどきを受け、地域の貧困者を救済する活動などを行い尊敬を集めていた。
52歳の時、水戸藩から郷士格(武士待遇)に列せられ、江戸藩邸で藩主に学問を講義する侍講(じこう)を命じられた。安永8年(1779)、日本で初の経緯度線が入った地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」を完成させ、100年近くに渡り改訂を繰り返し、5版まで版を重ねるベストセラーになった。
赤水は若いころから旅好きで、宝暦10年(1760)44歳の時に村の若者たち6名と江戸浜街道を北上し、平〜相馬〜仙台〜松島〜石巻〜出羽三山〜鶴岡〜新潟〜会津若松〜郡山〜白河〜那須〜赤浜と20日間にわたる乗馬旅行をした。その日記は『東奥(とうおう)紀行』として残されている。
「馬を連ねて勿来関(なこそのせき)に至る。坂は予想よりは険しくない。岩山をのみでほり切通(きりとおし)にしたため、暗く洞穴のようだ。頭上と隧道(ずいどう)のすきまはわずかで、崩れることを恐れながら互いに戒め合って進んだ」(筆者・意訳)と勿来の切通を記している。
郡山からの街道が合流
江戸浜街道の熊川宿までは相馬中村藩領だった。熊川宿の南端には堺川があり、この川が岩城平藩との境界となっていた。その先の富岡夜ノ森などには樹齢300年を超える街道の松並木があったが、枯死したり伐採されたりして、多くは残っていない。
街道は富岡宿で西側に向い、今は廃道となった道の片側に清水一里塚の西塚が残されていて、その先をたどると四十八社山神社と浄林寺の横に出る。井出一里塚が残る楢葉を過ぎ、戊辰戦争古戦場跡の二ツ沼、下北迫(しもきたは)地蔵尊がある広野を越えると久之浜、四倉に入り、JR常磐線にほぼ沿って平、湯本と進んでいた。平では郡山からの岩城街道が、湯本では白河からの御斎所街道が合流した。
湯本の南にある鮫川を渡った所で、勿来関の西側から藩境を越える道と、海岸を南進して九面(ここづら)、平潟(ひらかた)に向う浜道に分かれていた。この二つの道は関本の粟野(北茨城市)で再び合流していた。
この後、街道は現在の茨城県高萩市、日立市、東海村、ひたちなか市を通って、終点水戸市に至っていた。
難所の改良工事
江戸浜街道一の難所が勿来付近だった。高さ約50メートルの山越え道は厳しく、切通開削は荷を運ぶ商人や通行人たちの悲願であった。開削の許可を得た神岡新町(北茨城市)の豪商・篠原和泉が岩城の商人と申し合わせ、慶長年間(1596〜1615)に洞門を貫通させたが狭量だったため、承応元年(1653)に関本村福田(北茨城市)の庄屋酒井平佐衛門が許可を得て切通とした。
また、浜道の便をよくするため、九面と平潟の間の山道の下に洞門を掘ることにし、地元の人たちの手で安永4年(1775)に完成させた。洞門の規模は長さ約27メートル、幅約3.6メートル、高さ約3メートルで、馬ですれ違うには頭が天井につかえるような状態だった。後に九面にも洞門が掘られたが、そこは切通となり現在の国道6号ルートになっている。
【 街道コラム 】
⑧陸前浜街道起点(茨城県水戸市本町)
今回紹介した江戸浜街道を、水戸では岩城街道や相馬街道、陸前浜街道と呼んでいた。水戸藩からすると、水戸より北に向う道は領内視察に使う程度で、あまり重要視していなかったと思う。しかし、北にあこがれる文人墨客にとっては、重要な道だった。今号の長久保赤水、40号、41号で紹介した『浴陸奥温泉記』の小宮山楓軒、『陸奥日記』を残した江戸の商人小津久足などが旅日記を残しているが、記録に残らない旅もたくさんあったはずだ。
参考資料:『東奥紀行』−長久保赤水の旅日記− 長久保片雲編著(筑波書林発行)