仙台から相馬、平を通る海岸の道
水戸藩士、玉造温泉に旅する
江戸時代後期の水戸に、小宮山楓軒(ふうけん)という水戸藩士がいた。明和元年(1764)生まれの楓軒は、水戸藩の学者・立原翆軒(すいけん)に学び、後に水戸藩の藩校彰考館(しょうこうかん)で「大日本史」の編纂に16年間携わった。
当時の水戸藩内の農村は荒廃が進んでいた。楓軒は農政提言を行ったところ認められ、郡奉行に命ぜられ農村を疲弊から立ち直らせた。その後、町奉行、御用人と引き立てられ、学者の道に戻ることはなかったが、地誌や古文書の編纂に関わり続けたという。
60歳を過ぎた文政10年(1827)5月14日、楓軒と3名の従者は水戸を立ち、江戸浜街道を北に向かった。目的地は陸奥の玉造(たまつくり)温泉(川渡・鳴子温泉)で、持病の疝気(せんき)(下腹痛)治療が目的だった。水戸〜磐城〜相馬〜仙台〜松島〜大松(大郷町)〜古川〜川渡〜鳴子と14日間の旅をした。玉造温泉には5日間逗留し、戻りは奥州街道を古川〜仙台〜福島〜黒羽(栃木県大田原市)〜水戸で、全行程30日間となった。
その旅の様子は『浴陸奥温泉記』として残されている。博学だった楓軒の目には、みちのくの歴史、学問、政治、産業、風俗がよく見えたようで、並みの旅日記にはない深い観察が感じられる。
長い浜街道、今号から3回に分けて紹介するが、楓軒の旅日記にも目を向けてみたい。
古代からの要路
この街道に公称はなく、相馬道、仙台道、磐城相馬街道などと呼ばれた。また、明治5年、政府によって陸前浜街道と命名され、現在の国道6号の前身となった。ここでは仙台から水戸を経由して江戸に向かう浜道ということで、江戸浜街道とする。
街道は仙台の南、岩沼で奥州街道から分かれ、阿武隈川を河口近くで渡った。海岸近くを通るため山坂はなく、歩きやすい道が続いていたが、参勤交代で利用する大名は磐城平(いわきたいら)藩と、映画「超高速! 参勤交代」で知られる磐城湯長谷(ゆながや)藩など数藩しかなかった。スタートしてすぐ常陸国になるので、福島県内の浜街道はほとんど通らなかった。ちなみに相馬藩は奥州街道の二本松に出る街道を利用していた。
だからと言ってこの街道が重要でなかったということはなく、古代から鎌倉・南北朝時代には東海道(あずまかいどう)として、常陸国と陸奥国を結ぶ重要路だった。道沿いには古代の遺跡や装飾古墳が多く残されている。
相馬藩では街道の整備として慶長9年(1604)から一里塚を築き始め、磐城平藩も勿来(なこそ)の関の切通しを開削するなどした。浜街道の整備は慶長年間(1596〜615)に終わったと考えられている。
藩境の村
先に歩きやすい街道と書いたが、阿武隈川を渡ったあとの仙台領内の浜街道は、本当に穏やかな雰囲気に包まれている。亘理(わたり)は亘理氏、片倉氏、伊達成実(だてしげざね)と領主が交代し、その居城が亘理要害(臥牛城)だった。町なかには町割りの鍵の手が残り、蔵造りの商家が立つなど、亘理宿の雰囲気が伝わってくる。
昭和30年に山下村と坂元村が合併してできた山元町には山下宿と坂元宿があったが、仙台藩と相馬藩の藩境に近いため、しばしば戦乱に巻き込まれた。
現在の福島県新地町はもともと相馬氏が治めていた。天正17年(1589)伊達政宗が攻めて領地にしたが、明治元年の戊辰戦争で幕府側についた仙台藩は破れ、280年後に相馬藩領に復し、現在の福島県となった。その藩境の遺構が現在も残されている。
【 街道コラム 】
⑧相馬に残る貴重な藩境塚
新地町と相馬市の境で藩境塚を探してウロウロすること2時間。ようやく相馬市側で藩境塚と土塁を見つけた。塚の写真を撮らせていただいていたら、塚の背後を車が通る。そこは1988年にできた国道113号の相馬バイパスではないか。バイパス側に回ってみると、道路から塚がきれいに見える。よくぞ道路工事で壊されなかったと感激した。藩境塚が残るのは全国でも珍しく、とても貴重な遺構である。大事にしてほしい。
参考資料:『随筆百花苑』第三巻「浴陸奥温泉記」中央公論社発行