東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた2020年秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。
力持川
私が出発する前に「ここだけは気を付けて」と言われていたのが、高家川と力持川の渡渉だった。他にも渡渉ポイントはあるけれど、この2つの川以外はたいして深くも速くもないらしい。気を引き締めて、力持海岸から川沿いに渡渉ポイントまで歩いていった。自然歩道に入りしばらく歩くと、道標やGPSから、ここが渡渉ポイントだろうと思われるところに到着した。
データブック上では力持川の川岸も「広場」扱いになっていて、その後にもいくつか広場があるようだったから、このあたりでテントが張れたらいいなと思っていたのだけれど、実際に来てみると、川岸はテントが張れるスペースこそあれ、辺りは森に囲まれ、川との距離も思っていたより近かった。こんなに近くに水の音が聞こえるところでは到底眠れそうにないな、と判断して、先に進むことにした。
川自体は思っていたほど大きくなく、力持などという強そうな名前とは裏腹に、しっかり気を付けていれば安全に渡りきることができる川だった。(前日の雨の降り方によって水位は随分変わると思うので、あくまで私の時は、である。)見た時の印象でいったら高家川のほうがよっぽど怖かったな、などと思っているうちに川を渡り終え、先に続く道を探した。のだけれど、なぜかそれらしき道がない。地図を見ながらとりあえず歩き回ってみるけれど、トレイルテープの青い色も、道も見えなくてすぐにもとの場所まで引き返した。さっきまでいた対岸には道標があったから場所はここで間違いないはずなのだけれど、なにしろ道がないのだ。渡って右手側はある程度見て回ったし、左手側は岸が途切れて行き止まりだ。困った。しかも時刻は午後2時を回り、落ちてくる日に焦りが募る。しかしここで冷静さを欠いてはいけないのだ。道標も道も見つからないけれど、GPSの地図上にはルートと自分の現在位置が示されている。上に行けば何かわかるはずと、ルートが示されている方へ斜面を登ってみることにした。今回はトレッキングポールも参戦だ。両手両足を使ってよじ登っていく。終盤腕が悲鳴を上げはじめるけれど、ここでやめたら落ちる。クソーっといいながら神経のサインを無視して這い上がり、何とか立てるところに到着した。
大きく息を吐きだして下を見ると、ずいぶん下に小さくなった力持川が見えた。上がってみたはいいものの、道らしきものはすぐには見つからず、GPSを確認しながら手探りで歩いた。すると、川を背にして左手下方、倒れた杉の木に隠れて道標があるではないか。体から力がざあっと抜けていく。なんとかルートに戻れたようだ。しかし、これでは川にいる人がこの道標を見つけるのは至難の業だろう。杉の木はまだ青々とした葉をたっぷりと蓄えていて、これがなおさら道標を見つけづらくしている。葉が青いということは、倒れたのは最近だろうか。杉の木の向こう側にはまだ川が続いていて、私がさっき行き止まりだと思ったのは、この杉の木に遮られて先が見えなくなっていただけなのだと知った。気づいてもよさそうなものだけど、どうしてか木だとは思わなかったようだ。
自然現象だから仕方のないこととはいえ、いやはや大変な目にあった。道標の下をのぞきこんでみたらちゃんとジグザグに折られた道が続いていて、さすがに正規のルートを行っていれば、あんなふうによじ登らなくてもよかったらしい。本日2度目のため息が、はぁ、と漏れた。今思い出すと、なかなか面白い体験でもあったけど。
とりあえず本ルートを見つけられたことに安堵しながらも、私にはもう一つのミッションが迫ってきていた。今日の寝床探しである。川のそばはダメだった。とりあえず進んでいるのはいいものの、ここから3kmは山の中で(宇留部山という山だ)、時刻はもう午後2時半を過ぎている。これはこの時初めて知ったことなのだけれど、街中ではまだ明るく感じる時間帯でも、山の中だと日が傾き始めたあたりからは影が濃くなってきて、焦りや不安が体にまとわりついてくる。午後2時も後半に差し掛かってくると、そろそろ人間は森から出ないといけないよ、とささやく声が聞こえてくる気がする。でも、まだ山を出るまで3kmも残っているのだ。1時間はかかると思っていい。歩くのに支障はないくらいの明るさは保たれているし、多分街に出るまでそれは保証されると思うのだけど、今にも日が落ちてしまいますよという空気に囲まれ続けては、やはり不安になるものだ。広場と指定された場所もいざ日が落ちかけている山の中を歩いているとどうにも留まる気にはなれないし、山の中で泊まれる人はすごいなあという感慨にも実感が伴うというものである。道自体は一度尾根まで上がってしまえば平坦で歩きやすく、気持ちのいい道だと思う。尾根と言っても周りの傾斜はゆるやかだ。
広く伸びた視界いっぱいに白っぽいうすみどり色の空気が満ち、ところどころ、オレンジ色の斜陽が差し込んだりしている。さっきからつけているラジオが唯一私をそこに溶け込ませないように存在を主張していて、自然に取り囲まれる中、人工物に安らぎを求める自分に気付いた。
私は「自然」の中で人工物に触れて安心するたび、ちょっと情けなかった。それは慣れてない、知らないということもあって、自分が必要以上に彼らを怖がっていることを自覚させられるからだった。つまみ食いみたいに「自然」のいいとこどりしかしてこなかったために、必要以上に恐れている自分が少し恥ずかしかった。
そもそも人間は森や川、海、動物たちを自然、自然と呼ぶけれど、自分たちだって本来その一部のはずなのだ。自分たちしかいない世界に閉じこもってしまってそれを忘れているだけで。きっと、大地の力や言葉の通じない相手がやっぱり怖くて、自分がコントロールできないものが怖くて、閉じこもったのだと思う。けれど、ちゃんと相手のことを知って日々向き合っていれば、その恐怖は幾分か減らせる気がするのだ。私たちは、知らず知らずのうちに森や川や海と引き離され、過保護に囲まれているうちに、必要以上に彼らを恐れてはいないだろうか?触れ合えば、わかることもあるはずなのに。
自分ではないものとの境界線が強くなるにつれ、わからない、こわいという気持ちはどうしても高まっていってしまう。今は、そういう世の中なのかもしれない。でも、しょうがない、少しずつ知っていくしかない。私は今回この旅で、彼らの怖い面と、恵みの面の両方を知ることができて良かったと思う。どちらか一方だけならわかりやすいけど、幸か不幸か、いやきっと幸福にも、何事も一面だけでは決めきれないのだ。
他者というのは怖いけれど、いないと生きていけない。正しく恐れ誠実に向き合い、共に生きていくしかないのだろうと、思った。
沢下り
それはそうと、日没の時間は刻々と近づいている。そんな中、村まであと1kmを切ったところで沢歩きの道に差し掛かった。いよいよ日が落ちてきて、夕日に照らされた道標に不安が煽られる。ここから1km弱、この木の根と岩に囲まれた細い沢の中を一人で歩いていかなくてはいけないと思うと涙が出そうだった。しかし引き返すわけにはいかない、ここまで来たらこの道を下って普代村まで降り、そこで何とかテントの張れる場所を探すしかない。ラジオの音量を最大にして、意を決して沢歩きに臨んだ。
沢を歩くとき、水をよけて石の上を辿ったりする方が逆に滑って危ないのだと教えてもらったのは、夏の間インターンに行っていた自然学校でのことだった。その時のことを思い出しながら水の中を進む。沢は深いところでもくるぶしが隠れるか隠れないかくらいの水量だったので、流れに足を取られるということはない。しかし両側の土の壁は私の背丈より高いところも多くて、自分の体の小ささをひしひしと思い知らされた。町、と言うのは基本人間サイズで作られているけれど、山の中はそうでない。そういう環境の中に置かれると、自分が周りに何も作用できなくなったような気がして不安になる。ラジオの音だけを心の支えにひたすらばちゃばちゃと沢を下っていく。木々の隙間から風の音が動物の遠吠えのように響いてくる。クマの声だったらどうしよう、と不安がピークに達した時、ラジオから女性パーソナリティの明るい声が、リクエストの曲名を朗々と読み上げた。
「広末涼子の、マジで恋する5秒前!」
友達がカラオケで歌うのを聞いてから、かわいさとノリの良さに打たれて私もプレイリストに入れているお気に入りの曲。音楽は五感の一つを埋めてくれるから好きだ。本当にありがたい。5分の1を別の世界に飛ばしつつ、少し鈍くなった感覚で恐怖や不安を紛らわして、何とか沢を下りきった。それがいいことだったのかは、正直よくわからないけど。