東北太平洋沿岸に走る全長1,025kmの長距離自然歩道、みちのく潮風トレイル。町を歩いて峠を越え、谷を下って海に出る。バックパックひとつとたくさんの人に支えられて歩いた去年の秋の二ヶ月を、残した写真と、一緒に歩いた地図をお供に連れて、一歩一歩思い出しながら書いていく。
見えた道
急な勾配を抜けると、平らでしっかりした道に出る。公園のように整えられた道に油断してするすると進んでいったら、分岐を間違えたのだろう、下山時に通るはずの大びらき平に出てしまった。このあたりのルートは往路と復路が隣接する場所なので、まあ間違えてもそのまま山頂に進むことができる。その後少し大変な登りもあったけれど、山頂に到着した時に感じたのは、案外あっさり登れたなという感覚だった。十分な注意や準備が必要なのは前提として、私も一人で山に登れるのだという事実は嬉しい発見だったと思う。
山頂には、海側に向けて小さな展望デッキが設置してある。トレッキングポールをすき間から落とさないよう気を付けながら、バックパックを下ろし、海岸線を眺める。すると、遠くにぽつん、と見覚えのある形を見つけた。葦毛崎の展望台だ。私が一昨日、おごってもらったアイスを食べたところだ。階上町のルートは、階上岳に向かって海岸線とほぼ垂直に内陸側に折り込まれるような形をしていて、結果海岸沿いに歩けば500mで済むところが、往復30kmものルートになっている。MCT全体見ても目立つこの一見不思議なルートの理由はきっとここにあったのだ、と、この時気づいた。ここに登って海岸線を展望することで、自分の歩いてきた道が見える。視界の左から右まで、めいっぱい全部を歩いてきたんだという実感は、人間が体一つでこれだけ移動できるという生き物としての可能性を教えてくれるものだった。時間はかかるけど、人間は自分の足で、動物として一番最初に手に入れる交通手段で、この距離を歩くことができる。この感覚はMCTを歩いている間何度も、その都度少しづつ形を変えて私の前に現れる感動の、思い出深い第一回目となった。
体温が下がらない程度に短い休憩を取ったら、もう下山だ。展望デッキから見た景色の右端に暗い雲が見えたので、若干急ぎ足。下山ルートは何個かあって少し迷ったが、コンパスと地図を参考に選んだ道を下りていく。地図やGPSがあっても目の前の細い分岐は間違えやすく、そんなときコンパスはかなり役に立ってくれた。しばらく下ると、さっき登山中に間違えて通った道に入る。鳥居を通って大びらき平に出て遠くを見やると、ここからも海岸沿いの町が見える。海の近くは、建物で灰色く色づいている。初夏には満開のつつじが縁取るという空は、来る秋に向けて色落ちをはじめているように感じた。芝生や木々はまだ青いものの、真夏の盛りを越え、やっと一息ついたという様子だ。時刻は午前八時半。ここには結構しっかりした山小屋が立っていて、休憩がてらそこで朝食をとることにした。
小屋に入ったとたん、パッと自動的に照明がついた。最近の山小屋はすごいなあと思いながら室内を見渡すと、足元になにかが置いてあることに気付いた。腰を折って近づいてみると、ワサビやしょうゆの小さいパックが何やら文字が書かれて並べられているようだ。見ると、マッキーで「MAGIC」と書かれていた。トレイルマジックだ!だれか前にここに到着した人が、遊び心で置いていったのだ。トレイルマジックとは、アメリカのトレイル文化の一つ。トレイルエンジェルと呼ばれる沿線地域の人たちが、トレイル上にクーラーボックスに入れて食べ物や水などを置いておいてくれる。歩いているハイカーが、自分には不要になった燃料などを置いていく場合もあるらしい。ギリギリの荷物で歩いている長距離ハイカーたちにとってはまさにマジックなのだと、初めて聞いたときは昔話の妖精の話のようだとワクワクしたのを覚えている。 私は昔からこういう絵本に出てきそうなことが大好きだ。時間を越えて同じものが未来に渡される、ここにはもういない人の気配を感じる。まさに魔法のようだ。きっとワサビの人もその文化を知っていて、遊び心でパックを置いていってくれたのだろうと思うと、なんだかすごく嬉しかった。
朝ご飯を食べながら小屋の窓から下をのぞくと、木の枝の隙間から車道が見えた。なんと、私は完全に人の普段の行動範囲から離れた場所に一人、という気になっていたのだけれど、こんなところまで車が来られるらしい。この立派な小屋がここまできれいに整備されているのもこの道のおかげなのかもしれない、などと思いながら、その瞬間、私の中で張っていた山モードの緊張感がぱつ、と切れた気がした。この山登りも一区切りという感じだ。トイレがあって、電気が通っていて、動物は入ってこないようなしっかりした扉。いざとなったら人が車で来られる場所。 実際、歩き始める前相談に乗ってくれたハイカーさんはここをその日の宿にしたそうだ。でも、確かに安心できるのだけど、なんだろうか。うまく言えないけれど、それは少し、罪悪感のある安心だった。
階上岳放牧場
山を下りていくと牧場に出る。下りた、と言ってもまだまだ標高は高く、丘陵の合間から階上の町が見える。ここは曇りなのに町のほうは晴れていて、明度の違いが張り絵のような青空を演出していた。黒い牛がぽつりぽつりとかたまって草を食んだり座り込んだりしている。こんなに広いのに歩道のすれすれにまで来てる子もいて…いや、違うか、牛たちからしたら人間の通る道だからといって、そこが端という意識はないのかもしれない。だとすると彼らからしたらこの道もただ広い土地の起伏のひとつで、「わざわざ道の近くに座る」なんて思ってはいないのだろう。歩道まで出てこないのは有刺鉄線という物理的な障壁に従っているだけ、痛いから出てこないだけ。私たちは人間の歩くべき道から外れない。境界にたとえ有刺鉄線が無くても、特別な意図がない限りそこを歩くだろう。人間の世界には見えない境界線が多い。その線は、超えてはいけないのだろうか、超えない意味は、あるのだろうか…。そんなことを考えながら、私はすぐそばの牛にビビりながら歩道を歩く。
栗
牧場を出て、林道を歩く。この日の林道には栗がたくさん落ちていた。私は木の分類なんて全然わからなくて、わかるのは毎年のお花見で見慣れている桜と、自然学校で教えてもらったとちの木とほおの木の違いくらいだったから、栗が落ちているたびに上を見上げて栗の木を覚えようとしていたのを覚えている。見上げた栗の木はところどころ黄色くはなっていたけれど、まだ黄緑のやわらかい葉が大半を占めていた。
MCTを歩くうえで林道を通ることは多々あるのだけれど、意図と共に組み込まれているというより各所をつなぐためにここしか道がなかった、といった印象を受けることが多い。名前付きの思い出に残るようなことはなかなかここでは起こらない。地元の人は歩かないし、パンフレットに載るようなスポットもない。どちらかというと、それらの間を埋めながら介在する細胞液のような存在だと思う。だから人にここでのことをあえて話すことはなかなかないのだけれど、だからこそ今ここで書いておこうと思う。イベントが何もなくてつまらない、と言ってしまえばそれで終わりなのかもしれない。でも、林道を歩いているとき何を感じたか、どうやってここを歩いていたかというのは、歩いた人同士で話すと結構おもしろいんじゃないかなと思う。何らかのスポットには多かれ少なかれそれぞれが持つ特徴があるから感じ方も共通するところが多いけれど、林道はわかりやすいものがないから、本当に人それぞれで全く違う印象を持っている気がする。私にとって林道を歩く時間というのは、他のところを歩いていて起こったことを自分なりに整理する時間だった。さっき感じた違和感は何だったのだろう、あそこで感じた感動の理由は何だろう…アスファルトは硬くて足が疲れるのだけど、急登も、急降下もない道で、ただ足を交互に前に出すというリズムの確かな心地よさは、歩き終わった今でも、まだ足の裏に残っている気がする。