本記事では、東北各地で今もなお活躍し、或いは役目を終えて静かに眠る、そんな歴史深い隧道(=トンネル)たちを道路愛好家の目線で紹介する。土木技術が今日より遙かに貧弱だった時代から、交通という文明の根本を文字通り日陰に立って支え続けた偉大な功労者の活躍を伝えたい。
季刊誌「おでかけ・みちこ」2020年12月25日号掲載
奥山に煙立つ、村の経済生命線
中野俣川炭焼道の概要
鳥海山と月山を繋ぎ、庄内と最上を分かつ弁慶山地は、さほど高い山系ではないが広大であり、豪雪に研がれた鋭い谷を、多数の滝と底知れぬ深淵(ゴルジュ)が彩る、神秘の山域である。奥地まで車の入る林道が少ないこともあり、大規模な林業開発はほとんど進んでいないが、昭和40年代のはじめ頃までは、近郷の村々の経済を支える木炭生産の舞台として、山のそこかしこに煙立つ賑わいがあった。当然そこには薪を集める人々が行き交った踏み跡や、山で焼いた炭を運び出すための運搬路が縦横に巡らされていた。いわゆる炭焼道である。
山地最高峰より流れ出る中野俣川の渓流にも、大規模な炭焼道の跡が残っている。この道を主に利用していたのは円能寺地区の人々で、集落から5kmほど上流にあった窯場に通じていた。そこで焼かれた炭は、人の背やリアカーに乗せられて、集落に設けられた木炭倉庫に運ばれたのである。地元の方の話によると、当時この道を「深(おく)林道」と称していたそうで、昭和10年頃に朝鮮半島から動員された労働者の力を借りて、発破作業を伴う大規模な改良工事が行われてからは、リアカーや250ccバイクも通れるようになったという。
中野俣川の谷を遡る道の歴史は深く、明治以前から郡境の稜線を越えた現在の真室川町西郡地区へ通じる道が何本もあったという。これらの道は車の通るものではなかったが、炭焼きや山菜採りのほか、耕地に乏しい西郡の人々が、庄内地方の米や海産物を持ち帰る生活の道としても大切にされ、昭和30年代までは近隣村々の持ち回りによる春夏の草刈りが欠かさず行われていたそうだ。
昭和40年代に谷の中腹を通る現在の中野俣林道が窯場跡の近くまで整備されたことや、燃料革命によって木炭生産自体が終了したことで、谷底にあった炭焼道は使われなくなった。その道幅は広いところでも2mほど、水面スレスレを通ったかと思えば、20mもある崖を爪先立ちで横断するようなところもあって変化に富む。目を楽しませる滝や淵も豊富で、山の楽しみに満ちているが、極めて荒れているので、辿るのは一苦労である。
炭焼道の途中、集落から4kmほど入ったところに、地図にも載らない隧道が残っている。絶壁の岩角をすり抜ける短いものだが、内部は路面の玉砂利まで完全に保たれており、失われた炭焼道のタイムカプセルを思わせた。探索したのはもう15年も前になるが、たぶん今もあまり状況は変わっていないと思う。
現地探索レポート (探索日2005年9月9日)
(現地レポート各地点「①~⑬」は、この地図に対応しています)
①地点 円能寺への道から見る弁慶山地
中野俣川の渓流が広大な庄内平野へ流れ出る位置に、酒田市中野俣円能寺地区がある。写真は集落へ通じる県道円能寺砂越停車場線の路上風景である。行き止まりであるこの道路の交通量は疎らで、集落が近づくほどに弁慶山地の青い包囲網が狭まってくる。
②地点 円能寺集落
県道の終点にある円能寺バス停は、中野俣川を渡る円能寺橋の袂にあった。住人の方の話によると、写真右奥に写る青い屋根の建物は、出荷までに木炭を一時保管しておく倉庫だったというが、探索時はちょうど取り壊しの最中だった。
円能寺橋を渡ると道は直ちに二手に分かれる。ここが炭焼道の起点で、右折して中野俣川沿いに入る。現在は途中までが中野俣林道として使われている。砂利道だが、一般車両も通行可能だ。
③地点 中野俣林道
中野俣林道の路上風景。林道の護岸になっている玉石練積みの擁壁は、奥地の廃道化した炭焼道にも多く残っており、当時のものかもしれない。この辺りはまだ川幅が広く流れも緩やかで、のんびりとした景色だ。陽当たりのよいところには田んぼの跡もあった。
林道の途中にあったこの小屋は、炭焼きに使う薪を保管しておくために使われていたそうだ。現在は利用されていない。
④地点 炭焼道の分岐地点
中野俣集落の林道起点から2.7km地点に分岐がある。直進して上っていくのが、昭和40年代に整備された中野俣林道で、以前に使われていた炭焼道は、ここを右折して谷底に近いところを行く。両者の終点は近い位置にあるのだが、両者が再会することはない。
⑤地点 廃道と化した炭焼道
林道から離れた炭焼道は、薄暗いスギの植林地を横切ってから、川べりの急な斜面に取り付く。道の痕跡は鮮明だが、通る人はほとんどいないらしく、草が生い茂っていた。かつてはリアカーやバイクのような小さな車両も通行したというだけあって、崩れていないところの道幅は2mくらいあり、勾配も全体的に緩やかである。
入口から300mほどで猛烈なクズの藪に行く手を阻まれた。乗ってきた自転車が邪魔になったので乗り捨てた(もちろん帰りに回収)。傍らを流れる中野俣川には壊れた砂防ダムがあり、断面から廃レールが露出しているのが見えた。もしかして、この炭焼道にかつて敷かれていたレールの転用ではないかとも考えたが、あとで集落で聞いたところによると、別にそういうわけではないらしい。
⑥地点 大荒沢付近
大荒沢という支流を渡る地点には、かつて木の橋が架かっていたというが、崩れ果てていて橋桁はおろか橋台さえ痕跡は残っていなかった。だが、そのすぐ先に苔生した玉石練積の石垣が残っており、おそらく昭和10年頃に行われたという大規模な改良工事の名残だろう。この先もこうした石垣は随所に見られた。
⑦地点 砂防ダム
大きな砂防ダムがあり、炭焼道はコンクリートの堤体に突っ込む形で途切れていた。取り付けられた銘板によると昭和46年完成であるようだ。林道の建設と引き換えに炭焼道を廃止し、さらにダムを建設したことで完全に廃道になってしまったようだ。写真はダムを高巻きで越えるべく斜面をよじ登りながら撮影した。
ダムより上流は、堰き止められた土砂のため河床が上がり、低い位置にあった炭焼道もすっかり埋没してしまっていたが、200mほど上流から再び右岸に登場した。辺り広々とした河原であり、行楽にも訪れたいような綺麗なところだが、現在の林道は険しい崖の上へ離れているので、廃道でしかここへは来られない。
⑧地点 大規模な土工跡
蛇行する中野俣川の水勢の衝にあたる位置に、高い崖を削った道が作られていた。幅の足りない所はコンクリートや石垣で足されており、戦前の人力に頼った大規模な土木工事の形跡が鮮やかだった。滔々と流れる水が足元に迫る迫力があり、増水時には路上まで川底になっているようだった。
対岸から見ると、この険しい崖にイチから道を作り出した工事関係者の苦闘が、より鮮明に感じられる眺めだった。ここから隧道までがこの道で一番好きな区間だ。廃道になっていてもなお美しく、現役時代は道づくりの精緻の妙がいっそう強く感じられたことだろう。
この辺りから中野俣川の両岸は非常に狭まってきて、空は遠く小さくなる。谷底には深く水を湛えたゴルジュが連続して現われ、屏風のようにのような両岸の崖の上から、青い水面を目がけて、幾筋もの滝が落ち込んでいる渓相は、見応えがある。炭焼道を辿らねば見られぬ美景であった。
⑨地点 石垣の連続地帯
苔を纏った美しい玉石による護岸擁壁が道の随所に残っている。辿る私のテンションもうなぎ登りだ。この興奮の先に、秘かな隧道は待ち受けていた。
道はよく残っている所もあれば、崩れていて全く形跡を留めていない所も多かった。そういうところでは河原に降りて進んだ。やむを得ず水に浸かって進む場面も何度かあり、廃道探索でありながら、沢登りの真似事のようになりつつあった。
⑩地点 無名の隧道
そそり立つ柱のような岩場が道を阻んだ。見上げる樹冠のさらに上から、眼下に横たわる深い水面まで、真っ逆さまに落ちる崖だ。この悪地形を克服して先へ行こうと思うならば、川の上に長い桟橋を設けるか、あるいは……。
隧道だ! 隧道があった! 林道から約1.6km、おおよそ1時間歩いた地点に、今回初めて隧道を発見した。絶壁の先端を潜り抜ける長さ7~8m、高さ幅とも1.8m程度のミニ隧道だが、堅い岩場を手掘りで貫通させた苦心の作である。内部がカーブしているのも、特徴的。かつては歩行者だけでなく、リアカーやバイクも通行したというだけあって、路面には目の細やかな川砂利が敷かれたまま残っており、現役当時の路面が奇跡的に保存されていたようだ。
上流側の坑口を川底から見上げてみた。分かりにくいかも知れないが、○印の位置に隧道があり、オーバーハングした岩場を貫通している。小さいが印象的なルックスだ。話を伺った地元の方も、隧道の存在は鮮明に覚えていた。炭焼道の隧道はこれ1本だけで、特に名前は付けられていなかったという。
⑪地点 危険地帯
隧道の先、オシメ沢出合のあたりは、かつてバイクも通ったなどということが信じられないほど荒れ果てており、しかも水面から10m以上も高い崖を横断する部分があって、安全のため迂回を余儀なくされた。写真はその迂回箇所を谷底から見上げている。点線の位置が炭焼道の跡だ。
⑫地点 深淵を巻いて
崩れかけた道の跡を見上げながら谷底を進んでいたが、遂にそれも出来なくなった。回廊のようなゴルジュに行く手を阻まれたのだ。真っ青な水面が、まるで地底湖のよう。両岸は切り立っていて、泳ぐでもしなければ水面近くを通過することは不可能だ。
ゴルジュのため谷底が通れないので、苦労して炭焼道に這い上がった。案の定、道の跡も崩れが酷く、危険な状況だったが、慎重に通過した。一番狭いところでは、爪先が載るくらいの足場を伝って崖を横断した。
炭焼道から20mほど下に俯瞰した難所のゴルジュ帯。9月だというのに寒気さえ感じさせる神秘の渓であった。全線随一の難所であり、このようなところに命懸けの道を切り開いても、なおおつりがくる程度に、かつての炭焼きという生業は、村にとって魅力的であったのだろう。道幅を死守すべく、石垣が念入りに築かれていた。
一難去ってなんとやら。ゴルジュを越えて助かったと思ったら、その先で再び道が大決壊しており、前進不能に。やむなく今度は崖を下ってゴルジュ上流の谷底へ迂回した。写真のところで草木にしがみ付いて崖を下った記憶がある。
⑬地点 林道終点付近
林道から分かれて約2.5km地点にある無名の沢との出合。左の支流沿いに上る踏み跡があり、林道の終点に通じていた。炭焼道はさらに本流沿いに伸びているが、その終点も、もう近い。
⑭地点 炭焼道終点(窯場跡)
林道終点の約500m上流に炭焼道の終点だった窯場があったと古老は話していたが、現在そこには小さな広場があるくらいで、建物や炭焼き窯といった目立つ遺構は見当たらない。ただ、後者について草藪に隠れて見付けられなかっただけかも知れない。当時はここが山中における仕事の拠点であり、周辺に薪集めの道が何本も延びていたという。
さらなる上流は
終点を過ぎると中野俣川の谷はますます険しくなり、滝も多く現われはじめ、本格的な沢歩きの装備が無ければ踏み込めない領域となる。白糸の滝という大きな滝があると教えられていたが、私にとっては探すべき道がなければリスクを冒す道理もなく、引き返した。
また、中野俣林道の終点からも、谷の右岸中腹をトラバースしていく踏み跡が伸びていた。こちらは延々と続いており、1kmほど様子見に辿ってみたがキリが無いので引き返した。あとで聞いた話だと、これが郡境の稜線を越えて真室川町西郡へ通じていた古道の名残で、昭和30年代までは往来も多く、春と秋には集落から人を出して刈り払いを欠かさずしていたそうだ。
【完】