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茂浦鉄道 【机上調査編 第4回】

『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

【机上調査編 第2回】より、前述の「日本の廃道」では未公開の、完全新規の執筆内容となります。

 

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

 

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

【机上調査編 お品書き】

 

第1章.会社設立と計画(←今回もここ)

第2章.工事の進捗と挫折

第3章.復活の努力と解散

 

 

第1章.会社設立と計画(続き)

 

 

今回は、シェイキチ氏によりご提供いただいた貴重な一次資料、「茂浦鐵道株式會創立主意書」を読み解むことの3回目だ。

 

【主意書の内容 お品書き】

 1.起業目論見書

 2.工事設計説明書

 3.事業費予算書

 4.収支予算書

 5.仮定款

 付録1.免許状工事設計説明書

 付録2.茂浦港の価値

 

前回までに「起業目論見書」「工事設計説明書」「事業費予算書」を解読し、茂浦鉄道という会社が何を目的に起業し、どのような工事を行なおうとしていたかという概要を知ることが出来た。

次は「収支予算書」だが、これも読み解き甲斐のある内容だった。

 

3.収支予算書

 

 

   収支予算書

 

金72,388円也 (総収入金)

   内  訳

 金26,572円也 貨物収入 【注記1…後述】

 金3,504円也 旅客収入 【注記2…後述】

 金10,400円也 桟橋収入 【1トン1銭・1人4銭】

 金7,400円也 倉庫収入

 金23,400円也 土地収入

 金1,112円也 雑収入

 

金30,100円也 (総支出金)

   内  訳

 金8,000円也 保線費

 金8,000円也 桟橋及土地修理費

 金9,000円也 営業費

 金4,200円也 事務所及公納金

 金900円也 雑費

 

収支差引 金42,288円也

 (事務費40万円に対し1割5厘7毛)

 

この収支予算書は、茂浦鉄道線が計画通り開業した後の想定であり、実際は開業に至らなかったのであるから、現実との乖離を云々することは不可能だ。しかし、毎年1割を越える純利益を計上し株主へ配当するという、優良な経営を予定していたことは分かる。

収入の各項目を見ると、鉄道事業の収入のほかに、自ら築造する計画だった茂浦港の設備であるところの桟橋と倉庫の利用料に加えて、収入全体の3分の1を占める大きな「土地収入」を目論んでいたあたり、今日の大手私鉄各社と同様、不動産事業と鉄道事業を両輪とした収入構造を計画していたことが見て取れる。おそらく茂浦地区を大々的に市街地化し、不動産経営を行なおうとしていたのではないか。

 

なお、鉄道部門の貨物収入と旅客収入については、それぞれ金額を算出した根拠を示す次の注記があり、内容が興味深い。

 

(貨物収入の注記)

1マイル1トンに付3銭

10マイル分30銭

1日320トン片道160トン

総計11万5,200トン

 

(旅客収入の注記)

1マイル1銭5厘

4マイル6銭

1日166人片道80人

計58,400人

 

まず貨物収入についてだが、1日320トン、年間11.5万トンの輸送量を見込んでいたらしい。この数字をどう見るかだが、小漁村に過ぎない茂浦と、そこからわずか6kmほどしか離れていない山口地区間で完結する輸送量の見込みとしては余りに過大だ。この大半が、茂浦港を経て北海道(主に函館)と取引される輸送量であったことは想像に難くない。

参考までに、明治以来、北海道本州間交通路の圧倒的最大を占めていた青函航路の貨客輸送量と比較してみよう。

 

(「函館市史デジタル版通説編第3巻 第5編」より転載)

 

明治末から大正前期にかけて、青函航路の輸送量は爆発的に増加しており(そしてここに茂浦鉄道起業の理由があったが、これについては次回述べる)、茂浦鉄道が「仮に」大正元年開業を想定していたとして、この年の青函間の貨物輸送量は13万トンだった。この数字に対し、茂浦鉄道が想定していた貨物輸送量の11.5万トンという数字は(その全てが海を渡るものではなかったにしても)、かなりの占有率になる。

青函航路の輸送量は、大正8年には40万トンを越えるようになり、この段階では茂浦鉄道の輸送力は逼迫しただろうが、それでも青函航路の有力な一部を占めるだけの輸送量を確保し続けたはずだ。現実の世界では、青函航路の本州側に青森港に伍する港は登場せず、常に青森が圧倒的勝者であったが、茂浦鉄道次第で違った未来があったかもしれない。この想像にはロマンがある。

 

同じように旅客輸送も見てみると、茂浦鉄道の予想は貨物に較べて随分と抑制的に見える。1日166人、年間5.8万人という数字では、大正元年の青函航路の旅客利用者数30.6万人の2割に満たないし、その後はますます輸送力不足が激しくなる。

茂浦鉄道は単線なので輸送量の限界はあっただろうが、同社の方針として、貨物重視の考えがあったようにも見受けられる。もっとも、このような貨物偏重の利益構造は、当時の地方私鉄会社において珍しいものではなかった。

 

それにしても、この予定収支表から見える「茂浦港」という港の姿は、まさに一社独占の風景である。公共事業によって整備される今日の一般的な港湾とは、印象が大きく異なるように思う。

本州北海道間の連絡という極めて重要な国家的交通インフラにおける私企業の独占的な港湾運営には、国家の利益と相反する部分があったと思われるが、国はこの事業計画を持つ茂浦鉄道に免許を与えている。

もっとも、このような企業独占を危惧する考え方は、当時の法制度には当てはまらないかもしれない。軽便鉄道法の制度において、私鉄企業の運営は決して国家の事業に優先するものではなく、国が認める適当な金額で随時買収できることになっていたのだ。

軽便鉄道法によるものではなかったが、東北本線も初めは日本鉄道という私鉄が開業させたものだが、明治39年の鉄道国有法公布によって国有化されているし、青函航路も明治41年に国が鉄道連絡船という名目で青函連絡船の運行を開始した結果、2年後には従前の日本郵船が撤退している。

国家が必要と認めれば、茂浦鉄道の所有する交通インフラの大半が、国営になる可能性があっただろう。仮にそうであっても、最後に莫大な買収金を得られるし、その日までは充分な営業利益を得られる。そのように考えて多くの起業者が鉄道事業を興そうとしたし、それこそが国による軽便鉄道法制定の狙いでもあった。

 

 

本当は今回で「主意書」を読み解く最終回の予定でしたが、思いのほか「収支予算書」が面白く長くなったので、1回延長します。

 

 

 

 

 

 

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