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茂浦鉄道 【第1回】

『このレポートは、「日本の廃道」2013年7月号に掲載された「特濃廃道歩き 第40回 茂浦鉄道」を加筆修正したものです。当記事は廃線探索をテーマにしており、不用意に真似をした場合、あなたの生命に危険が及ぶ可能性があります。当記事を参考にあなたが廃道へ赴き、いかなる損害を受けた場合も、作者(マイみちスト)およびみちこ編集室・道の駅連絡会は責を負いません。』

幻の大陸連絡港と運命を共にした、小さな未成線

所在地 青森県東津軽郡平内町

探索日 2010/6/6

 

◆ 2010/6/6 5:30 水産総合研究センター 

 

 

 

おはようございます。

 

朝一番、茂浦鉄道工事の起点になる予定だったといわれる、青森県水産総合研究センターへとやって来た。もっとも、同センターは最近に建てられたもので、茂浦鉄道が建設されようとしていた明治末から大正時代とは全く関係がない。この土地が鉄道の起点に選ばれた理由は、ここが茂浦港の築港予定地だったからに他ならない。

 

この土地の行政的な地名は平内町茂浦だが、茂浦の集落や漁港からは少し離れた場所で、海岸沿いの町道のどん詰まりである。

まだ早朝だが、センターの正門にある大きな門扉は開いており、漁師の朝と同じく、漁業の明日を考える施設の朝も早いらしかった。施設の前には漁船らしき船が碇泊していて、涼しげに揺れていた。

 

 

これが今回集った仲間だ。いずれも探索を何度も共にしている精鋭である。集合写真ではないので、みんなばらばら(笑)。右から、現場監督の中村氏、ちぃちゃん氏、鳴瀬たつき氏で、左端の車のドライバーとしてミリンダ細田氏が車内にいる。これらに私を加えた5名で、未知なる未成線の探索を行なう。

 

 

早速だが、今日の茂浦には、明治時代に建設されつつあった茂浦港の痕跡は、ないに等しい。その事は、『幻の茂浦鉄道』の記事にある、「水産増殖センター(水産総合研究センターの旧称)が建設された昭和42年まで築港の石垣が残っていた」という記述からも、逆説的に読み取れる。

 

鉄道を引き込むほどの大規模な築港が企てられた土地となれば、地形的にも経済的にも、良港になる素質を相当見込まれていたに違いない、単なる漁港ではない、いわば港のエリートである。このうち、地形的な素質については、私のような素人が目にする今日の静かな浦の風景にも、確かなものが残っているはずだった。

そんな目線で、改めて直前の写真を眺めて頂くと、どうだろう……。

 

陸奥湾という巨大な湾の中の一部である青森湾のさらに小さな一部である、茂浦湾とでも呼びたくなる湾内の風波は、快晴の今日でなくても穏やかに違いない。湾港部に茂浦島と呼ばれる小さな無人島が浮かんでいるのも魅力的だ。この島は、東北の冬を苛烈にする西からの季節風の直撃から湾内を守ってくれるはずだ。一方、海岸線に目を向ければ、遙かな奥羽山脈に連なる八甲田山地が海へなだれ込む急峻な地形と対をなす海の青さが、大型船の碇泊に十分な深さを感じさてくれる。

素人目にも、ここは確かに、優れた港湾の素質を有する地形のように思われたのだ。

 

 

ここから南西の水平線を双眼鏡で覗きこむと、まるで蜃気楼を思わせる大都会のビル群が見える。県都青森に他ならない。

穏やかな青森湾に隔てられた彼我の距離は、直線で15kmに過ぎず、茂浦港は青森港と海陸の両面で連絡しうる至近にある。これは、東京に対する横浜港、あるいは大阪に対する神戸港のような関係を感じさせる距離だ。今日の青森と茂浦の風景は印象を異にするが、茂浦への築港を志した人々の脳裏には、明治の大開港地にあった開明的な都会風景が浮かんでいたのではないかと想像した。

 

 

正門からセンター敷地内に目を向けると、そこにもそこはかとない明治開港地の香りが漂っていた。

絵に描いたような洋風建築物が見えた。新しい建物だろうが、「賓陽塾」という看板が掲げられており、その名も建物の外観も明治の開港場に付きものだった迎賓館をイメージさせた。この建築物をここに置こうと考えた者は、間違いなく茂浦に開港場のイメージを重ねていたはず。事情を知らない人が見れば、ただお洒落を狙った場違いな建物に見えてしまいそうだが……(由来を伝える案内板などは一切なかった)。 

 

 次回、茂浦集落から、鉄道未成線の捜索をスタート!

 

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