「michi-co」2017年3月25日号連載記事
会津と奥州街道をつなぐ要路
柳田が見た勢至堂越えの道
明治政府の農商務省官僚であり、民俗学者として知られる柳田国男は、福島県の依頼による講演のため、明治38年8月30日から9月12日まで、福島県内に滞在した。1日から7日までは講演で福島町に宿を取り、その後、調査旅行で会津地方に移動して、会津から白河に向かう行程に白河街道を選んだ。その時の様子を紀行文「勢至堂(せいしどう)峠」に残した。
安達太良山の南麓にある石筵(いしむしろ)から猪苗代湖の湖東を歩き、白河街道の宿場だった三代(みよ)に一泊し、勢至堂峠、長沼を経て白河に着いた。柳田が石筵と三代で馬市を見るのを目的とするほど、当時はこの街道沿いに、馬産の村がたくさんあった。
此村は会津街道であったから、村の中を用水が流れ路幅が広く、くぐり戸や腰高障子の家が多く、火の影が路へさして、只の田舎のようではなかった。(中略)三代村の川を段々に登れば勢至堂峠である。(中略)峠の名になった勢至堂は、降りの中腹にあって荒れた宿場である。昔は門前の茶屋に赤い前垂れが居て、会津へ帰る武士はここで酒を飲んだ。
「勢至堂峠」の部分だが、白河街道の宿場の様子が伝わってくる。柳田は峠を越えるのに、馬を借りて峠道を進んだ。峠を下った先の村で、前日の馬市で買われた2歳馬が、5匹6匹とひとつなぎになって曳かれていく様子を見ている。馬が村の風景や生活の中に、自然に溶け込んでいた時代だった
会津藩、新発田藩主の参勤交代路
白河街道は参勤交代の道であり、諸国巡見使が通り、時には佐渡金山の金を江戸まで運ぶ、会津五街道の中の最重要路だった。五街道とは、会津若松を中心に、北に米沢街道、東に二本松街道、東南に白河街道、南に下野街道、西に越後街道と延びる5本の街道で、数々の歴史のドラマを生んだ。
白河街道には、起点の会津若松から南方へ滝沢、沓掛(くつかけ)、黒森、勢至堂の峠があったことから、通行が楽な道でなかったことは推察できる。それもあって、途中には赤津、福良、三代、勢至堂、上小屋、飯土用(いいとよ)などの宿場が点在し、旅人の疲れを癒やしていた。
五街道の宿場の中で、指折りのにぎわいを誇った三代は、そばが名物だった。「月のない夜も三代坂楽し、闇に明るいそばの花」とうたわれたほど、街道沿いにはそばが植えられていた。いま三代はそば屋ではなくラーメン店が目立つ、国道沿いの町になった。しかし、各戸につけられた昔の屋号を標(しる)した木製の看板には、白河屋、山形屋、越後屋などと見られ、かつての宿場町を彷彿とさせてくれる。
勢至堂峠と殿様清水
勢至堂峠は、国道294号の勢至堂トンネルの上に残っている。会津側から峠道へ上るには、トンネル入り口横の階段を使うと便利だ。道を20分ほど歩くとなだらかな峠に出る。頂上に「是より西北会津領」と刻まれた藩境石が立てられている。以前は、磯貝権四郎の茶屋跡の標柱も立っていたが、いまは朽ちたのか見られなかった。
白河側に下って行くと旧国道の下に殿様清水がある。参勤交代の時、殿様がのどを潤そうとしたら家来に「野人が通る道下の水は飲むべきでない」と制止された逸話が残っている。ふもとの勢至堂集落の水源のため、いまは立ち入り禁止なのが残念だ。
街道コラム
滝沢峠にあった籠太茶屋
会津若松を出た白河街道は、間もなく滝沢峠にかかる。そのふもとにあった籠太茶屋は廃業したが、その名前を冠して会津若松の町で営業しているのが居酒屋「籠太」だ。主人の鈴木信也さんが包丁を握り、女将さんが優しくお酒を注いでくれる。ここは紛れもない、会津を代表する名居酒屋だ。
【連絡先】
会津若松市栄町8‐49 / TEL 0242‐32‐5380