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第3話:ナオミの誓い

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教員として過ごした三十五年間を経てなお、子ども達や先生方、保護者の皆さんに伝えておきたいことが少なくありません。その思いで自費出版した「お天道様は見ています〜校長先生のおはなし〜」の続編やこぼれ話をお伝えいたします。お子さんと一緒に読んでみたり、かつての自分を思い出したりしながらお付き合いください。
まいにちみちこ編集室
https://my-michi.com/column/76954238/9602

東日本大震災大津波から間もなく七年が経過しようとしています。震災当時、小学校五年生だったナオミも高校を卒業しました。ナオミに兄弟姉妹はなく、一人っ子でした。とても明るく活発で、学級委員をしたり、バレエ教室に通ったりしていました。

 

三月十一日午後二時四十六分、教室で帰りの会をしている最中、突然ものすごい揺れに襲われました。教室の内外から児童の悲鳴が響きました。担任の先生は、それらをかき消すかのように

「机の下にもぐれ!」

と、大声で叫びました。揺れが収まった後も余震は何度も続きました。

児童は全員、多目的ホールに集合しました。三十分もすると家族が迎えに来て、一人また一人と家に帰っていきました。雪の舞う寒い日でした。あたりはすぐに暗くなりましたが、校舎内は停電のため真っ暗でした。地域の方々も避難のため学校に集まりホールはごった返していました。

夜七時ごろ、消防署の人が避難所の様子を見に立ち寄りました。その時、学校から二キロメートルしか離れていない市街地には大津波が押し寄せ、多くの犠牲者が出ているということを教えてくれました。迎えに来ない五十数名の児童は、先生方と一緒に多目的ホールで一夜を明かしました。

 

次の朝も寒く、雪がうっすらと地面を覆っていました。避難所となった学校の一日は慌ただしく過ぎ去り、震災二日目の夜を迎えました。この夜も家族が来ない児童、十数名が学校に泊まりました。ナオミもその一人でした。高学年らしく、不安で泣いたり、興奮したりする低学年児童のお世話をしてくれました。でも本当はナオミ自身も不安を押し殺していたのだと思います。

 

ナオミのお父さんが迎えに来たのは三日目の朝でした。お父さんは震災の日、仕事で宮古にいたそうです。地震後すぐに釜石に戻ったのですが、途中で車もろとも大津波にのまれてしまい、一時間波上を漂ったあと、なんとか命拾いをしたということでした。しかし、釜石の市街地で働いていたお母さんが家に戻ってこないので、ナオミを連れて探しに行くと、すぐに学校を飛び出していきました。

一週間後、行方不明者の安否を確認する名簿が学校の避難所に届きました。そこにナオミのお母さんの名前があり、残念ながら見つかっていないことを知りました。

 

学校は修了式をしないまま、春休みとなりました。学校再開は、例年より遅れること二週間、四月二十日からでした。

六年生になったナオミは始業式の朝、お父さんに連れられて登校してきました。担任の先生に話があるということでしたが、学級指導があるので代わって私が聞くことにしました。

 

ナオミはいつまでたっても帰ってこないお母さんが心配で、食事ものどが通らなくなり、しだいに口数も少なくなり、部屋に籠りきりになったということでした。それでも夜中に突然起きて、お父さんを起こし、

「お母さんを探しに行く!」

と言って瓦礫の街に出かけたともあったということでした。

お母さんが津波にさらわれたということをどうしても受け入れることができないナオミは、日に日にやつれていきました。そんなナオミを、お父さんはとても見ていられないと話していました。

 

確かに、新年度が始まってからのナオミは人が変わったようでした。以前のような明るい笑顔を見せることはなく、いつもぼんやりと遠くを眺めたり、うっすらと涙を浮かべたりすることもありました。

それでも仲の良い友達たちはナオミといつも一緒にいました。ナオミが休んだ日は、必ずナオミの家に行って学級の様子を話したり、宿題のプリントを届けたりしました。担任はいつもお父さんと連絡を取りあって、ナオミの学校生活に気を配っていました。そんな周りのさりげないいたわりに応えるようにナオミは、少しずつ、少しずつ元気を取り戻していきました。卒業式では涙でお父さんに赤いカーネーションを渡しました。その姿に教職員一同、胸がつまりました。ナオミのこれからを心配しながらも、中学校へと送り出したのです。

 

それから五年の月日が流れたある春の日でした。バスを待っていると目の前をナオミが横切りました。ナオミは、もう高校三年生になっていました。思わず、

「ナオミさん」

と、声をかけました。

「オー、校長先生!お久しぶりでーす」

以前のナオミを取り戻したように、輝く笑顔でした。街中でしばし、ナオミと立ち話をしました。

「校長先生、小学校の時は大変ご迷惑をおかけしました。今はもう大丈夫、元気ですハイ。中学校ではバドミントン部に入り、体を鍛えてこんなに大きくなりましたハハハハハ・・・。高校に合格した時、お父さんが

(これまで、がまんさせてた携帯電話を買ってやる、新しい腕時計でもいいぞ、なんでもほしいものを言いなさい)

って言ってくれた。でも私ね、

(お父さん、ものなんか何にもいらないから、一回だけお母さんに会わせて)

って言っちゃった。そうしたら、お父さんの顔がみるみる崩れて、ワ―ッと号泣して、

(俺だって、お母さんに会いたいよ!行方不明になってから、お母さんを一日だって忘れたことなんかない。たった三人だけの家族なのに、なぜ全員揃わないんだって・・・。せめて、お母さんが生きてて俺が行方不明になっていれば、ナオミにつらい思いをさせなかったのにって・・・)

と言ってオイオイ泣いちゃって、あんなお父さんこれまで見たことなかった。お父さんに悪いこと言っちゃったなって、すごく後悔した。でもね校長先生、その晩お母さんに会ったよ。夢で本当に。お母さんが夢に現れてね、私に

(高校を卒業したらどうするの?)

って聞くんだ。私は、

(看護師になろうと思っている)

と、話したら、お母さんは、

(それはいいね。私のように震災で命を落とした人がたくさんいる。命はかけがえのなものだから、看護師になってたくさんの命を救ってあげればいい。ナオミ、お母さんはずっとずっと見守っているからね)

って言ってくれた。私は、

(うん。必ず看護師になって、たくさんの命を救いたい)

って言ったんだ。私、お母さんに誓ったし、お父さんも賛成してくれているから、これから受験勉強、頑張るわ。校長先生も応援よろしく!・・・・」

すっかり大人になったナオミでしたが、元気さと明るさは、子どもの頃にもどっていました。

 

 年明け、ナオミは医療系の大学に合格したことをメールで伝えてくれました。

 この記事を書いた「マイみちスト」
(こんのひとし)
大学を卒業後、一般企業に三年間勤務し、その後1年間大学専攻科で特別支援教育を学ぶ。昭和57年から盛岡市、宮古市、釜石市の小学校に勤務。平成23年 釜石市立小学校長として勤務時に東日本大震災被災。平成27年度小学校長で退職。平成28年度は大阪府の小学校で校長を務める。

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皆さまよりお寄せいただいた感想はこちら (4)
  1. ルイ.ニャン さん

    当たり前ですが笑顔を取り戻すことができ、前向きに立派な進路を選択でき進む事ができて良かったと思います。父親の愛と先生の応援、見守りが大きく影響していると思います。素敵なお話でした。

  2. マッキー さん

    ナオミちゃん、ずっとつらかっただろうな。寂しかっただろうな。口に出せないお父さんも。
    周りの人々の温かい見守りや励ましがあって、元の笑顔を取り戻せて本当によかったね。
    看護師になるという希望に向かって、頑張れ、ナオミちゃん!
    お母さんもずっと見守っていてくださるよ。
    素敵なお話をありがとうございました。

  3. 柴田雅裕 さん

    悲しいけれど、乗り越えたナオミさんが素晴らしいと思いました。

  4. Qちゃんママ さん

    このお話を読ませて頂き、私は当時の6年生のある男の子の事を思い出しました。
    同じ避難所で、彼もご両親が行方不明。
    日々を重ねても嬉しい報告がありませんでした。部屋の隅っこで声を押し殺し涙を堪え震えていた姿。今でも思い出すと胸が痛みます。
    そんな彼が甲子園で地元に元気を与え、さらに自分で道を切り開き、真っ直ぐに生きている姿。
    まだ私でさえ経験したことのない、計り知ることの出来ないであろう悲しみを彼らは幼くして経験し、それでも明るく成長してくれている姿。
    日常は、また日常となり 当たり前の様に過ごしていますが、校長先生のお話を読ませて頂き思いました。あれから7年 改めて、忘れないように。あの日の絶望と、今ある希望を。

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