私が小学校5年生になったばかりの頃でした。
新年度の始業式が終わると、転入生が教室にきて自己紹介をします。私たちの学級にも東京からヤスシという男子1名が転入してきました。
私たちの学校は、たくさんの社宅の中にある小学校でした。私もそうであるように9割のお父さんは同じ工場に勤めていました。社宅は、木造の6軒長屋で、隣近所は助けあい、親戚同様の付き合いをしていました。近所の子供たちも兄弟姉妹のようにみな仲が良かったのです。
しかし、そんな私たちと違って転入生のヤスシは、役宅(やくたく)に引っ越してきたのでした。役宅というのは、社宅でありながら洋風のしゃれた一軒家で、その役宅に住む人たちは会社の上役に限られていました。
ヤスシの印象は、最初から違っていました。着ている服は運動着ではなく、私たちからすればよそ行きの服で、上品な顔立ちによく似合っていました。靴は黒光りする革靴でした。自己紹介では、流ちょうな東京弁で
「ぼくの名前はヤスシです。東京からきました。趣味は、サッカーでリフティングが得意です」
私たちとは、大違いです。私たちもサッカーをしますが、「リフティング」なんて言葉はだれ一人知りません。女の子たちは、なんとなくうっとりと見とれているように思われ、私たち男子一同、心の中は、穏やかではありませんでした。
休み時間には早速、外に出てサッカーをしました。驚きました。東京では、少年サッカークラブに入っていたということでした。私たちの町には、そんなものはありません。スイスイと私たちをかわしてビシッとゴールを決めるプレイは見事でした。しかし、心中は誰も面白くなかったのです。
ヤスシは、お勉強も私たちとはけた違いによくできました。どんな難しい算数の問題もスッと手を上げると、前に進み出て、チョークで黒板に解答をすらすらと書いたのです。担任のマツダ先生も恐れ入ってしまいました。
しかし、ヤスシは、それを自慢するふうでもなく、みんなと一日でも早く友達になりたいと思っているようでした。
二日目も女の子たちは、ヤスシに東京の学校のようすなどを聞いたりしていました。そんな様子に、むかついた私たちはだんだんと「ヤスシいじめ」に走ったのでした。
示し合わせていじめようというのではありませんでした。誰からともなく、ヤスシを阻害する行動をとると、学級の男子は全員それにならったのでした。
授業中、ヤスシが発言してもだれもそっぽを向いて聞きませんでした。休み時間や教室移動の際には、男子全員ヤスシから距離を置きました。給食は、ヤスシの分だけ、配膳しませんでした。掃除のときもヤスシの机を運ぶ男子はいませんでした。ヤスシに対して私達、学級の男子は全員、陰湿ないじめをし始めたのでした。
ヤスシは、それでも顔色一つ変えませんでした。何も取り合ってくれないクラスメートにも笑顔で話しかけたり、まだよくわからない学級の決まり事などをたずねていました。・・・・しかし、誰もがヤスシを無視したのです。
3日もするとさすがにマツダ先生は、ヤスシへの男子の態度がおかしいことに気が付きました。ヤスシをちょっとの間だけ、職員室に行かせ、私たちを叱りました。「おまえたち、ヤスシくんの身になって考えてみろ。遠い東京から、たった一人で転校してきて、それだけでも心細いのに、みんなが相手にしてくれないなんて、とてもつらい気持ちで過ごしていることがわからないのか」
私たちは、ヤスシに対してよくない態度をとっていることをわかっていました。マツダ先生の話を聞いたふりをしながら、心の中では
「なあに、そのうち仲よくすればいいだろう……」
と、思っていたのでした。
一週間が過ぎ、明けた月曜日の朝でした。
ヤスシが登校してこないのです。
さすがに、私たちがしたことが原因で休んでいるのだろうと想像し、少し不安になりました。
教室にマツダ先生が来ると、先生は言いました。
「…………ヤスシくんが、東京に戻ることになった…………」
マツダ先生は、今にも泣きそうな悲しそうな顔でした。そこで初めて、自分たちはヤスシに対してとんでもないことをしたと、やっとで気が付いたのでした。
マツダ先生は、大きなショックを受け、授業はなかなか始まりませんでした。私たちも大変なことをヤスシにしてしまったととても後悔しました。女の子の中には、涙ぐんでいる子もいました。マツダ先生は
「もう、ヤスシくんの気持ちは変わらないようだ。取り返しがつかない。ヤスシくんにとって、ここでは何一ついい思い出ができなかった。そのことを本当に申し訳なく思う」
家に返ってから、おばあさんに一部始終を話し、どうしたらいいだろうか、と相談しました。
「そうか、それはヤスシくんにとって、とてもつらいことをしてしまったなぁ。おまえは、もう5年生だ。いつまでも子どもじゃない。なんでも自分のしたことが許されるのは、せいぜい4年生までだ。高学年になったのだから、自分のしたことの責任をよく考えなくてはならないよ。どうすればいいか、それは自分で考えることだ」
いつでもやさしいおばあさんだと思っていましたが、初めて厳しい言葉を突き付けられたような気がしました。
どう考えても、ヤスシには悪いところはなく、全く私たちが悪いのでした。よくよく考えて出した結論は、ヨッチを誘ってヤスシの家に行き、これまでの自分たちの行為を謝って、東京に戻らないよう考え直してもらう、ということでした。
すっかり暗くなった6時過ぎ、ヨッチと二人で、ヤスシの住む役宅の呼び鈴を押しました。しばらくするとヤスシのお母さんが出て来ました。細身のきれいなお母さんでした。私とヨッチは、これまでのことを正直に話し、謝りました。お母さんは話を聞いてくれ、ヤスシを連れてくるからと言って、奥に戻りました。しかし、お母さんは、ひとりで玄関先に戻ってきました。
「ごめんね、ヤスシは会いたくないと言って、きかないの。明日には、私と東京に戻るけれど、友達二人が謝りに来たことは、忘れないようにと、言っとくからね。わざわざ来てくれたのに、ごめんなさいね」
謝らなければならないのは、私たちの方でした。
軽い気持ちで、ヤスシをいじめてしまった私たち。マツダ先生の言った、ヤスシは何一つ楽しい思いをすることなく、苦しく、つらい思い出だけを心に刻ませて東京に戻ってしまうことに、取り返しのつかない、大変な罪を犯してしまったと深く後悔したのでした。

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初めて感想を書きます。
読んでて、とても悲しい気持ちになりました。
自分も幼稚園の頃に今の場所に引っ越してきたというのもありますが、いじめを受けたものとして、過去を思い出さざるを得ません。
小学校は6年、いずれかの学年で必ずといっていいほど転入生を迎えると思います。
振り返ると、私は逆に転入生の方としか仲がいい人はいなかった。その人としか話せる人がいなかったということです。
特に意識して話しかけたわけでもなく、いつの間にかそうなっていました。なので、きっかけも覚えていません。
ただ、その方以外の人とはほとんど話せていません。普段から、一般的に想像のつく限りのいじめを受けていたからです。
引っ越してきた人に限らず、小学校入りたてのときだって誰だって馴染もうと必死になります。
でも、馴染む馴染まない関係なく、いじめは突然始まります。
誰ともなく、きっかけは何でもいい、そんなものです。
ヤスシさんは勇気があります。
ちゃんと親に話せた。
とても悲しかったと思います。
担任の先生も気づいて行動に出た、素晴らしいと思います。
ヤスシさん、クラスぐるみでされたことは、きっと忘れることはないですよ。
一方で、その中でもお二方の行動も決して忘れることはないと思います。
会ってはくれませんでしたが、少しだけ救われたと思います。
後悔の念があるとしたら、二度としないこと、それだけです。
長文失礼いたしました。
せっかく友達を作りたいと思って引っ越して来たのに、男子にいじめられてたった1週間で東京へ帰る決心をしたヤスシ君。学校では平気な顔をしてたけど、心はすっかり傷ついてもうここではやっていけないと思ってしまったヤスシ君。マツダ先生に注意された時に男子が態度を改めていたら、誰もこんな苦い思いをせずに済んだのに。折角の機会を逃してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった時にできることは、二度と同じ過ちを犯さないこと!二度と人をいじめないこと!悲しい思いをする人を作らないこと!
いじめは昔からあった。今は陰湿化して、悲しいかな、いじめが原因で自殺する子供たちが後を絶たない。いじめは、「そんなことをさせたら相手はどんな思いをするか?」という想像力が欠けて起こることが多い。せっかくこの世に生まれてきたんだもの、どの命も輝きます様に~。
環境が変わると大人でさえイライラして同僚を軽くあしらうこともある。転入生ならなおさらだ。ヤスシが東京の小学校から田舎の小学校に転入した時、学級の生活に溶け込むためヤスシは自分の腕を発揮して、それを自慢する風でもなかった。みんなと一日でも早く友達になりたかったのだろう。残念ながら学級の男子はヤスシを阻害する行動をとって、陰湿ないじめをします。クラスメートに仲間外れされ、さぞかしヤスシはさびしくがっかりしただろうと思うと胸が痛い。
私も同じような体験があります。
後から気づき、取り返しが付かなくなってしまったことがありました。
その苦い経験は、大人になった今でも思い出します。
東京に戻ったヤスシ君が、その後楽しい人生を送ったことを願っています。
読ませて頂きました!
この場を借りてお久しぶりです紺野校長先生
2010年に千徳小学校を卒業したものです
今は、宮古から内陸に引越して盛岡地域の有名な園芸店に務めてます。機会があればお会いしましょう!涙が出てしまいました。