己の見たもの、己の腑に落ちたものしか信じない、そんなスタンスで生きている歴史小説作家の谷津矢車でございます。この性格は作家としては便利なのですが、ときとして様々な軋轢を生みますし、面倒事を抱えがちであります。たとえば、物の本を読んでいてある記述が気になり始めると「本当にそうなのか」とうだうだ悩んでしまい、色々調べているうちに朝になっていたなんてこともよくあります。サラリーマン時代、先輩に言われていた「面倒くさい性格」とはこのことだろうと今になって気づいております。
と、いきなりこんな不穏な話をしたのには理由がございまして。
気になってしまったことがあるんですよ。
『まいにち・みちこ』愛読の皆様なら、中尊寺金色堂はご存じかと思います。
岩手県平泉市の名刹中尊寺にある、奥州藤原氏の栄華を今に伝える金色のお堂です。そして、あのお堂の中には奥州藤原氏三代のご遺体3.5人分(清衡・基衡・秀衡のものと思われる3人は全身が残り、忠衡ないし泰衡のものとされる1人は梟首された痕跡のある首だけ残る)が納められていることをご存じの方もまた多いと思います。昭和の頃の調査によって3+1名のご遺体がミイラ化していることが改めて確認されたのですが、実はこのミイラには謎が遺されています。
このミイラは人工的に造られたものなのか、それとも自然にそうなったのか、です。
昭和の調査では自然にミイラ化したのであろうとされたのですが、不審点もあり、未だに決着を見せていないようです。江戸期、即身仏が盛んであったり、アイヌ人文化圏とも地理的に近いという岩手特有のお国柄も、この論争に拍車をかけている様子です。
というわけで、中尊寺に行ってきました。
地衣類のこびり付いた森を横目に蛙が飛び込む池など(写真1)を眺めつつ、緩やかな坂道をふうふう言いながら登りました。清浄な空気とはこういうことをいうのだろうなあ、と背がしゃんと伸びました……というのは表向きで、実際はかなり足にキています。

それにしても、ジメジメが止まらない。覚悟はしていたのですが、山の上、森を切り開くようにして伽藍が続いているからか、湿り気を帯びた空気が否応なく忍び寄ってきます。また、湧き水なども多いようで池などもたくさん見受けられました。
そして、金色堂周辺です。

森の中に埋もれるようにして建っているので実にジメジメとしていました。話によると、金色堂は建立からかなり早い段階で「霧除け」がかけられたらしく、室町期になると覆堂によって風雨から保護されていました(なお、この古い覆堂は現在も中尊寺内に残存)。

このとき、わたしは腑に落ちました。
藤原三代はここでミイラ化したわけではないと。
かつての日本には殯(もがり)という慣習がありました。本葬にするまで、殯宮(もがりのみや・あきらのみや)といわれる他の場所に遺体を安置しておくというものなのですが、藤原三代もカラカラした別の場所で殯、ないしは一時的に留め置かれ、ミイラ化してから金色堂の中に収められたのでは……? ということです。
もちろんこの話、何の証拠もありません。物語作家が現地を見て回り、現地の空気を吸った結果の想像、もっといってしまえば妄想の産物です。
でも、もし藤原三代を書く機会に恵まれたら、きっと殯を描写することになるだろうな……という予感がしています。
作家は自分の実感を武器に物語を描いている面があります。正解のない「物語」を切り開くために、実感という「鉈」を手に進むのが作家という生き物なのです。
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