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日本各地に残る数多くの城。 いま、全国の城をめぐる旅がブームをよんでいる。 有名な大名の居城はもちろん、知る人ぞ知る小さなお城や居館まで、城址に残る「壺な見どころ」を読み解いていこう。

第12回 総石垣がすごい!「境目ノ城」【福島県白河市 小峰城[1-1]】

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まいにちみちこ編集室
https://my-michi.com/column/63129854/30812

悲願。大旗が「白河の関」を越えるとき

 

 「白河の関」の名は、数多くの和歌に詠まれているが、わたくしたちの身近な話題としては「白河の関越え」という言葉でなじみがある。

 いうまでもなく、全国高等学校野球選手権大会(通称 夏の甲子園)、選抜高等学校野球大会(通称 センバツ、春の甲子園)の大舞台において、東北6県の代表校は一度も優勝を成し遂げたことがなく、優勝旗が白河の関を越えることが悲願とされているからだ。その甲子園優勝は北海道勢に先を越されてしまった。

 ゆえに優勝旗は「海峡を越えた」と言われていて、陸路による「関越え」はまだ達成されていない、とされている。悲願達成のときには、ぜひ、優勝チームには大優勝旗を奉じ「徒歩で」国指定史跡白河の関跡を通行してほしいものだ。そうして、小峰城に東北の高校野球ファンを集め、雄叫びを挙げてほしい!

 

奥羽諸侯に睨みをきかす

 

 小峰城といえば奥羽の城郭では数少ない「石垣造りの城」として有名だ。その理由は以前、このシリーズの「盛岡城1-1 真相解明!『東北三名城』の選定」で述べたとおりで、白河地方で採取される「白河石」(白河凝灰岩)があればこそ、これほどの城が築けたといえよう。

名産「白河石」をふんだんに用いた石垣

 江戸城を中心とする城郭観で小峰城をみると、徳川将軍家にとってこの城は関東と奥羽の「境目の城」ということになる。

 その特色として、本丸の東側に配される三ノ丸が特に広大であること、阿武隈川にのぞむ城の東北部が丘陵自然崖とその裾を守る長石垣、外堀、武家屋敷、内土居・外土居で堅固に守られていることなどを指摘できよう。丘陵部は比高約15メートル、本丸に比肩するほどの高さがある。

城の北側を守る外堀跡と背後の丘陵。ここにも石垣、土居が巡らされた

 参勤交代で江戸へ向かうため、奥州街道を南下してくる奥羽諸侯の大名行列は、阿武隈川を渡り、この三ノ丸東北部を外堀に沿うように真南に向かって進む。

 このとき、大名とその家臣たちは比高約20メートルの本丸を中心に「一二三段」を形成する高石垣と、そこに建ち並ぶ天守相当の三重櫓をはじめとする隅櫓群、多聞櫓を目にすることになる。このような圧倒的城郭景観は、奥羽地方のほかの城では見られない。これこそ徳川将軍家が丹羽長重に命じて築かせた小峰城の威信装置なのである。

 石垣の上にそびえ建つ三重櫓や隅櫓、塀、門の外壁は漆黒の下見板張りとなっていて、重厚にして優美な外観を見せる。それは織豊系城郭を築いてきた「長重好み」なのであろうが、やがて完成する寛永度江戸城天守(寛永14年作事)の黒い外壁に代表されるような、将軍徳川家光の「好み」を反映したものかもしれない。

漆黒の下見板と白亜の漆喰壁が織りなす美しい三重櫓(平成3年、木造復元)

 

奥羽の関門、「白河藩」の創始

 

 『白河風土記』の記述に従えば、小峰城の創築は南北朝内乱時代の興国・正平年間(1340~1369)のこととされる。当時、奥羽地方における南朝方の有力武将であった白河結城家の当主、結城宗広の嫡男・親朝が城を築き、別家小峰家を興したときとされる。結城家の居城は白河市の東郊約3キロの所にある白川城であったが、結城家が一族内紛で揉めにもめた永正年間(1504~1520)以降、拠点を白川城から小峰城に移したものと考えられている。

 しかし結城家は、豊臣秀吉に臣従せず、奥羽仕置により改易されてしまう。その結果白河地方は会津を領知する蒲生氏郷の分国に加えられ、約40年のあいだ、小峰城には城代が置かれた。地元ではこの期間を会津支城時代と呼ぶ。

 その領主は蒲生家―上杉家―蒲生家(再領知)と変遷するが、この間にも歴代の城代により城の強化が図られ、本丸や櫓台を石垣とするなど、けっこう大規模な城郭が完成していたようで、その遺構もわずかながらみられるという。この体制は蒲生家が伊予国松山城(現・愛媛県)に減知移封される寛永4年(1627)まで続く。「白河藩」が創始され、歴代城主が奥羽の関門を守るようになるのはこのあとの時代である。

三ノ丸会津門は蒲生家の旧臣が集住した「会津町」との出入口(城址案内板)

 

築城資金二万両、幕府が恩貸

 

 寛永4年、『大猷院殿御實紀 巻九』には「(二月十日)丹羽宰相長重は奥の棚倉五万石を転じて、同国白川に新城を築かしめられ、十一万七百石になさる」と記される。白河の城と町は会津支城時代に区切りをつけ大名居城として飛躍のときを迎えた。

 この丹羽長重の父は、織田信長の家老として知られる丹羽長秀で、通称は五郎左衛門、織田家中からは「ゴローザ」「ごろーざどの」と親しまれた。なによりも安土築城の普請総奉行を務めたことで知られる。

 御實紀が記すように長重は陸奥国棚倉城主であった。棚倉と白河は隣郡同士で、約25キロしか離れていない。ただちに白河に入った長重は城普請の計画に着手、「城築ノ場所」「櫓数」を決め、「隍塁石壁ノ城図」を作製して江戸に戻った。その後、関連絵図を将軍家光の「上覧」(当時は大御所秀忠、将軍家光の二元政治時代)に入れ、築城の許可を得たという。このとき幕府は長重に対し城普請の資金二万両を貸与している。この城普請が関東と奥羽の境目を守る「公儀のための普請」であり、その成功に向けて将軍が長重に寄せた期待の大きさが知られる。

城の南から北にかけて巡る内堀は旧阿武隈川の名残り

 同年6月6日には「侍町」(これが会津町)を拡張するため、阿武隈川の古川を埋め立て屋敷地とすることが将軍より許可されたのに続き、寛永5(1628)年8月11日には「白川之儀、普請之事」が、これも計画どおり将軍に許可され、約4年におよぶ小峰城の城普請(修築)が始まる。

 

「築城名家」が築いた平山城

 

 丹羽長重という近世大名は戦国武将の生き残りである。元亀2(1571)年の生まれだから、白河の領主(白河郡・石川郡・岩瀬郡・田村郡10万700石)となった寛永4年では、すでに齢57歳になっていた。その武将としての人生は文字通り波乱万丈なものだった。「栄枯盛衰」とは、この人のためにある言葉だとさえ思える。彼の人生について話せば長くなるので、それは「棚倉城」を紹介するときに話すことにしよう。

 その丹羽家であるが、織田信長の安土城築城をはじめ近江国佐和山城、同坂本城、豊臣秀吉の大坂・伏見築城にも関わったと思われる。若狭国後瀬山城を居城としたときには今も残る野面積みの石垣を築いた。しかし秀吉の命による露骨なまでの領知削減政策にあって家勢は衰え、多くの家臣が丹羽家を去っていった。築城技術者の多くも第二の主(あるじ)に仕え、それぞれの立場で築城に関わるようになる。藤堂高虎率いる藤堂家のような派手さはないが、丹羽家も自家の普請組織に石垣職人集団「穴太」を加えていたと思われ、「築城名家」と呼ぶにふさわしい大名家であった。

 小峰城は、その丹羽家が、長重の人生最後に築いた名城である。確実な史料を見出すことはできないが、丹羽家零落の歴史のなかで散り散りになっていた旧家臣が、棚倉・白河の領主となるに及び再び丹羽家に戻り、城普請に携わったといわれる。

本丸北側を巡る内堀沿いの高い石垣

 

東北地方最大の石垣

 

 小峰城の石垣については次回以降に詳述するが、本丸・二ノ丸を中心とする内曲輪の石垣はすべて総石垣であり、土居造り主体の三ノ丸でも重要虎口は枡形石垣造りとなっている。三ノ丸までをふくめた城郭の総面積は約16万3,700坪(約54ヘクタール)におよぶといわれるが、これは二十万石クラスの大名居城に匹敵する規模だ。

 石垣の規模も雄大だ。『小峰城石垣』(1984年8月、私家版)の著者山口喜一郎氏は、小峰城竣工時の石垣について「およそ総延長3,100メートル、壁面積2万2,600平方メートル、重量3万8,000トンの石垣が築かれた。350年を経た今もその大部分の、およそ総延長2,500メートル、壁面積1万8,700平方メートル、重量3万1,500トンの遺構が現存している」と述べている。壁面積とは石垣の表面積とみられるが、坪数に置き換えると、築城時で約6,848坪、現存遺構約5,666坪となる。いずれも南部家が築いた十万石の居城、盛岡城石垣の約4,200坪(約1万3,860平方メートル)を大きく上回る。会津若松城の石垣データはまだ確認できていないが、小峰城石垣を東北地方最大の石垣と呼んでまちがいないだろう。(会津若松城の石垣に関するこのようなデータをお持ちの方はぜひご教示ください)

内堀に浮かぶ本丸域の石垣は「軍艦」のようである
本丸域を構成する竹ノ丸南面の石垣と内堀

 

現代によみがえる「VR小峰城」

 

 小峰城は平山城で、縄張構成は梯郭式となっている。ことにも本丸・竹ノ丸・帯曲輪から成る本丸域は複雑な構成で織豊系城郭の縄張をほうふつさせる。寛永時代に築かれた「江戸時代の城」としては異色の存在である。これは丹羽家が前時代に築かれた小峰城の縄張構成を維持し踏襲したためと思われるが、丹羽家ならではの築城法なのかもしれない。

 その小峰城がジオラマとVRでよみがえった。平成31年4月、白河市は小峰城歴史館の新装開館にともない、最新VR・ARで「奥州の押さえ」小峰城の雄姿を再現、江戸時代の小峰城にタイムスリップと銘打ち、江戸時代中期の小峰城をみごとに再現したのである。

城山公園の芝生広場、二ノ丸から本丸域の石垣をのぞむ(11月撮影)

 同館を訪ねれば臨場感あふれるVRシアター映像でバーチャルリアリティ体験(270度映像)ができるほか、小峰城再現ジオラマに設置されたVR望遠鏡をのぞくと往時の情景を楽しむことができる(現在は新型コロナウイルス感染症対策のため休止している)。

 歴史館オープンをPRするフライヤーには「そこは江戸の小峰城」というキャッチコピーが躍る。筆者はその開館1週間後に小峰城を訪ね、「江戸の小峰城」を楽しんだ。読者のみなさまもぜひ一度、いや二度ならず三度でも、最新のバーチャル体験で小峰城ありし日の姿をお楽しみいただきたい。ちなみにVRシアター映像のナレーションは春風亭昇太師匠がつとめておられる。

小峰城歴史館へようこそ!

 

さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

ご意見をお待ちしています。

また、「城あるき」のリクエストもお待ちしています。

 

白河市役所の公式ホームページには、小峰城のみどころをご紹介する「小峰城歴史館」が掲出されています。『小峰城歴史館の展示内容』では小峰城の再現ジオラマやVRシアターのイメージ画像が見れるので、ぜひアクセスしてご覧ください。

小峰城の紹介-小峰城歴史館-

http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/dir000502.html(外部リンク)

 この記事を書いた「マイみちスト」
岩手県盛岡市在住の城郭史調査員(日本城郭史学会盛岡支部長)。小学生からの歴史好き、城の調査は中学生のときから続けている。地元の印刷会社を定年退職後、フリーランスの編集者・ライターとして働くかたわら、城歩きガイドと講演、歴史資料の調査や城郭関連の取材・執筆に取り組んでいる。「趣味はなんですか」と聞かれると、戦国武将・新選組などと答えているが、健康のためにも「なにかやらなければ」と真剣に考えている。

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