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日本各地に残る数多くの城。 いま、全国の城をめぐる旅がブームをよんでいる。 有名な大名の居城はもちろん、知る人ぞ知る小さなお城や居館まで、城址に残る「壺な見どころ」を読み解いていこう。

第10回 “伊達な名城”を描く正保城絵図【宮城県仙台市 仙台城[1-1]】

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まいにちみちこ編集室
https://my-michi.com/column/63129854/30205

仙台城本丸に立つ

 

 筆者が最初にこの城址を訪れたのは小学六年生のときだった。修学旅行でクラスメートといっしょに訪れたのである。そのころから戦国武将の生きざまに関心があったが、城郭に興味があったか、どうかは、記憶がない。ただ「青葉城はどこにあるのだ」と、その面影を探した記憶は残っている。

 既にそのときから50年、私は人生航路の折節にこの城址を訪ねてきた。ふるさとの盛岡城とはまたなにか違う「大きなもの」がこの城にはあるからだ。

 けさは、夏の朝日に映える高石垣を見たくて早朝5時、仙台城に登った。ランナーたちが息を切らして石垣の真下を駆けて来る。こちらは城歩きだ。

 さて今回<前半>は伊達政宗が築かせた仙台城を描く「正保城絵図」の話題。これまでにも東北地方の城を描いた同絵図について話してきたが、それがどのような絵図なのか、詳しくふれてこなかったのでここで詳説する。

 <後半>はその「正保城絵図」にまつわる石垣の話題。地震に強い石垣を築いた先人たちの苦労を、ほんのすこし解き明かしたい。

朝日に照り映える本丸北壁高石垣の下を散策するひとたち

 

本丸を守る高石垣

 

 仙台城本丸の規模は東西約245メートル(一三五間)×南北約267メートル(一四七間)もある。本丸だけの広さをみれば諸大名の居城としては全国最大級ともいわれる。しかも標高は最高所で142.3メートルを測るので、この広さから「山の上にある平城」という表現をした人もいる。

 この城を築いた武将の名はいうまでもあるまい。「独眼竜」の異名をもつ伊達政宗である。大坂城といえば豊臣秀吉、熊本城といえば加藤清正、姫路城といえば池田輝政といわれるように、仙台城といえば伊達政宗。誰もが認める日本の名城だ。

 勇ましい政宗の姿もまた、多くの人がそのイメージを共有する。仙台城本丸に建つ騎馬像の姿である。

仙台城址最大の人気スポット 伊達政宗騎馬像

 

 その政宗が身にまとう甲冑は「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)。重厚な黒漆塗りの鉄板で出来た胴が五枚に分割されている。細く金色に輝く月形の前立が印象的だ。現在、国の重要文化財に指定され仙台市博物館が所蔵する(展示期間については要問合せ)。

 政宗所用の甲冑と同じ形式の五枚胴は「仙台胴」と呼ばれ、歴代城主や家臣たちもその範に倣った。そこで仙台伊達家ゆかりの甲冑といえば、黒く、重厚な、このタイプの甲冑がイメージの定番となる。

みるからに精悍。騎馬像にみる伊達政宗の表情

 一方、仙台城本丸北壁の石垣は両輝石安山岩(産出地の名に因み三滝安山岩質玄武岩と呼ばれる)で、600万年前に生成された火山岩である。石垣石材の産出地は仙台市近郊で、三滝、国見峠、大石ケ原で採石され仙台城近くの石場に運ばれたという。

 その黒色基調の岩石は、マグマが冷却されて成り立つだけに重厚で、さながら政宗や歴代城主、伊達家家臣団が身に付けたあの甲冑を彷彿させる。

黒色基調の石垣は伊達家の武将像を彷彿させる

 

城郭石垣 高さ比べ

 

 山城である仙台城本丸は、その防御の大部分を天険に頼り(城の南西側)、人工的に構造物を造り防御すべきところにだけ石垣、土居を築き、堀を穿った(城の北東側)。

 石垣は総石垣で、主として本丸の北東側、北西側に築かれている。ことにも北東側の石垣は高さ約17メートル、東北地方の城郭では会津若松城本丸東壁石垣に次ぐ第2位の高さだ。麓にある三ノ丸と本丸の比高差は約100メートル。大きな築石を曳き上げ、斜面に合わせて石垣を築く土木工事は難工事であったことだろう。

東北地方の主な高石垣(高さが同じ場合、普請年代の早い方を上位とした)

会津若松城本丸  東壁石垣   約20メートル 割石・布積み(打込はぎ)

仙台城本丸    北壁石垣   約17メートル 切石・布積み(切込はぎ)

山形城二ノ丸   東大手門石垣 約14メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

盛岡城二ノ丸   西壁石垣   約14メートル 割石・布積み(打込はぎ)

二本松城本丸下段 南壁石垣   約13メートル 野面・乱積み(野面積み)

二本松城三ノ丸  南壁石垣   約13メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

弘前城本丸天守櫓 南壁石垣   約12メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

会津若松城天守台 北壁石垣   約11メートル 野面・乱積み(野面積み)

盛岡城本丸腰曲輪 南壁石垣   約11メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

白河城本丸三重櫓 北面石垣   約11メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

白河城本丸    南壁石垣   約10メートル 切石・布積み(切込はぎ)

白石城本丸三重櫓 北壁石垣   約10メートル 野面・乱積み(野面積み)

<参考>全国の主な高石垣

大坂城本丸    東壁石垣   約32メートル 割石・布積み(打込はぎ)

大坂城二ノ丸   南壁石垣   約30メートル 割石・布積み(打込はぎ)

伊賀上野城本丸  西壁石垣   約30メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

熊本城二ノ丸   宇土櫓石垣  約25メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

金沢城本丸    南壁石垣   約22メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

江戸城本丸    北壁石垣   約21メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

名古屋城本丸   天守台石垣  約20メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

篠山城天守曲輪  天守台石垣  約17メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

姫路城天守曲輪  大天守石垣  約15メートル 割石・乱積み(打込はぎ)

本丸北壁 艮隅石垣 高さ約17メートル。東北の城第2位の高さ

 上記数値は各地の自治体が測定した数値を載せる調査報告書、城郭関係図書、城郭事典、個別城郭書などから抽出したものなので、厳密な実測成果に基づくものばかりとは限らない。そこで全国統一基準で作製された「正保城絵図」記載の東北各県の城石垣の高さと比べてみよう。

「正保城絵図」にみる東北地方の主な高石垣

会津若松城本丸  東壁石垣    「石垣高水際より九間」*

仙台城本丸    北壁東北隅石垣 「石垣高九間」

白河城竹ノ丸   南壁石垣    「石垣長四十六間二尺高八間」*

二本松城三ノ丸  南壁石垣    「此石垣高七間」

会津若松城天守台 東壁石垣    「石垣高六間」

山形城二ノ丸   東大手門石垣  「石垣高六間半」*

盛岡城本丸腰曲輪 南壁石垣    「石垣高六間半東西壱丁三十七間」

白河城本丸三重櫓 北面石垣    「高六間一尺」

弘前城本丸    南壁石垣    「石垣高三丈五尺」(約六間)*

白河城本丸    南壁石垣    「石垣長四十一間高六間」

白石城本丸ニ重櫓 北壁石垣    「高六間」(実際には三重櫓とみられる)

仙台城本丸    北壁石垣    「子之方石垣高五間五尺」

*マークの付いた石垣は堀に面した石垣で、絵図に注される高さは水面を基準とした数値と思われるので、水面下根石までの高さ一~二間程度を数値にプラスして考える必要がある。

 

 「正保城絵図」記載の仙台城本丸艮櫓石垣は高さ「九間」とあり、さらに坂道を上がったところの石垣は高さ「五間五尺」とあるが、「正保城絵図」に描かれた石垣は、いま見られる本丸石垣の前身である。

本丸北壁石垣 「子之方石垣高五間五尺」の現況

 

「正保城絵図」とはなにか

 

 「正保城絵図」は江戸幕府が城持以上の家格を持つ大名に命じて作らせた。江戸時代の城はすべて徳川将軍家が所有支配するもので、領知安堵した大名に居城として預けていた。領知安堵は一代限り、前城主が死去、あるいは隠居をすると、後継者があらためて領知安堵を受けるシステムになっていた。後継がいなければ、その大名家は家名断絶となる。

 正保元(1644)年12月、幕府は徳川家光の命を受け、大名居城の基本図作りに着手する。大名の軍事基地、城郭の管理を徹底するためだ。幕府が目指す絵図の理想像は「見た目が同じ印象の城絵図」。そのため全国統一様式の作製規定を定めた。「島原の乱」を教訓に、城の監理、万が一の攻城戦を想定しての施策といえる。

 各大名にはその規定に従って城の縄張、石垣・土居・堀のかたちを鳥瞰図のように図示させた。だがその規模を、現状に忠実に描かせることはしなかった。幕府は城郭の縄張部分の縮尺が、城下とその周辺部の縮尺よりも大きくなるようにデフォルメさせ、城郭部分を拡大表示させたのだ。言うまでもなく城郭構造を見易くするためだ。

 よく「『正保城絵図』ではなく『正保城下絵図』と呼ぶべきだ」という意見を耳にするが、私はそうは思わない。幕府の関心は城郭構造の把握であり、城下・周縁部は関連情報だ。この絵図の本質に照らし「城郭図」「城絵図」と呼ぶべきであろう。

城址に設置される案内板にみる「正保城絵図」(右)

 

描かれるもの、省かれたもの

 

 幕府は天守や隅櫓、城門、塀などを立体見取風に描かせた。そのうえで城が山城か、平山城、平城か、書きつけさせた。また大手門の位置、各曲輪東西・南北の長さ、石垣・土居には高さや長さ、堀には深さと幅、水堀・空堀の違いを書きつけさせ、天守があれば階数を明示させた。

 しかし城主の居館や政庁、付属建物、蔵、厩など軍事的性格の低い建物については描く必要はないとした。もちろん、なんらかの理由で居館等を描いた絵図もある。

 外曲輪、城下、総構の内部については街路や街道を図示させ、その道の長さを書きつけさせた。城に登る主要な道筋には朱線を引かせた。武家屋敷や寺社、町家の所有者名の記入は不要だが、武家地・寺社地・町方など街区の区別は明示させた。

 城外では城にいちばん近い高所の姿(山容)を描かせ、その比高差、城との距離を記入させた。河川や湖沼の深さ、架橋のようす、渡河往来の可能・不可能、浅田・深田の別を明示させ、軍馬や兵員が通行可能か不可能かも明らかにさせた。言うまでもなく、この城絵図を攻城図としても使えるようにするためだ。

 こうして「正保城絵図」は将軍徳川家光の要望を満たしたものになっていく。

本丸大広間の遺構。「正保城絵図」にそのすがたは描かれなかった

 

これは大名家の労作だ

 

 各大名家は居城と城下、その周縁部の現地測量調査をおこない、作製規定に従うかたちで「下絵図」を描き、幕府に伺いを上げた。大名家の絵図担当者にとって、この「下絵図」作製がひと苦労だった。提出図に不備があれば、幕府大目付から“OK”が出るまで、なんどでも書き直す必要があったからだ。

 明君・保科正之が治めるあの会津藩でさえ、会津若松城の「下絵図」が一度“ダメ出し”にあっている。その理由は「詳し過ぎるから」ということだった。幕府への心配りからなのだろう。保科家の絵図方が城の構成を詳しく、ていねいに描いたのだが、絵図規定からは外れていて、修正を求められたのだ。

 こうした苦労を経て「下絵図」がめでたく“OK”となれば、こんどは幕府御抱の狩野派絵師に頼んで清書、仕上げを行い、ようやく「清絵図」が完成をみる。大名家により違いはあるが、だいたい3年がかりで完成に漕ぎつけている。

 完成した城絵図は江戸城紅葉山の御文庫(官庫)に収納され、大名居城の基本図とされた。大名が居城を修築、修補する場合には「正保城絵図」の城郭部分をひき写した小型の「城郭修理願絵図」を作製、修理申請書にその絵図を添えて、幕府に「基本図の変更」を届け出た。「正保城絵図」はあまりにも大きくて、修補のつど更新することができないので、こうした方法により大名の居城を監理したのである。

 なお大名家も「清絵図」と同じ様式の「控絵図」を作製、居城の基本図としてたいせつに保管していた。

 

「奥州仙台城絵図」東京・両国でみつかる

 

 現在、国立公文書館内閣文庫には全国63城の「正保城絵図」が残り、すべて国指定重要文化財となっている。全国で157城の絵図が作製されたと考えられているが、94城の絵図は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。

 実は仙台城を描いた「奥州仙台城絵図」も国立公文書館内閣文庫にはない。どこにあるかといえば仙台市博物館に保管され、仙台市指定文化財になっている。

 文庫からの流出経緯は不明である。しかし明治時代の初め、元仙台藩士の小野清は、偶然、東京・両国橋の腰掛茶屋で麻縄に掛けてある「奥州仙台城絵図」を発見、ただちに買い求め保存に努めた。その後、絵図は財団法人斎藤報恩会の所有となっていたが、同法人の解散にともない仙台市博物館に寄贈された。

2019年度仙台市博物館企画展。「奥州仙台城絵図」がポスター、看板を彩った

 この絵図については、「伊達家の『控絵図』ではないか」とみる向きもあったが、油浅耕三氏の調査・研究により旧紅葉山文庫から流出した仙台城の「正保城絵図」で間違いないことが確認された。この経緯は油浅氏の論考「流出した旧紅葉山文庫蔵会津・仙台・高田の正保城絵図についての一考察」(『日本建築学会計画系論文報告集第377号』1987年)に詳しい。この文献はインターネットで検索、閲覧できる。

 

描かれた仙台城

 

 「奥州仙台城絵図」に描かれる仙台城の姿はじつに華麗だ。青葉山の地形が鮮やかに、かつていねいに描かれている。絵図の大きさは、たて319センチ×よこ268センチ。その美しさから「正保城絵図の白眉」と称える人もいる。

 本丸西北面に築かれる高石垣の上には白壁の塀が巡り、要所には白亜総塗籠の三重櫓4棟が聳えている。大手門に似た重厚華麗な外観を持つ本丸詰ノ門の左右に建つ子之方(ねのかた)「東脇櫓」「西脇櫓」、東北隅の石垣上に建つ「艮(うしとら)櫓」、南へ少し離れた所に建つ「巽(たつみ)櫓」の姿である。

「仙台城模型」を用いた埋門跡の案内板

 しかし豪華壮麗な本丸御殿や有名な懸造(かけづくり)は描かれていない。城主の居館や付属建物などは軍事的性格が低く「描く必要なし」とされたからであろう。

 そのため“もの足りない”という方には仙台市博物館に展示されている「仙台城模型」の鑑賞をお奨めする。この復元模型は「奥州仙台城絵図」に描かれた城郭のすがたを基本情報とし、絵図では省略された本丸御殿大広間棟や懸造、城主の居館、政庁、付属建物、蔵、厩など軍事的性格の低い建物をも細かに再現。さらに幕末へ至るあいだに建造された建物も再現している。

 いつもの「城あるきの壺」であれば、最後に国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できる「正保城絵図」にリンクを張るのだが、仙台城絵図は同館に所蔵されていないのでリンクできない。

 そこで仙台市のホームページにアクセスし、「仙台市の指定登録文化財」のページを開いてもらえれば、下記の仙台城・城下絵図を見ることができる。仙台市役所のサイトにリンクを張っておくので、ぜひアクセスしてご覧いただきたい。

◆ 仙台市ホームページ

仙台市の指定・登録文化財 | 幕府提出用仙台城下絵図

http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c02493.html(外部リンク)

→ これが「奥州仙台城絵図」(正保城絵図)

 

仙台市の指定・登録文化財 | 藩政用仙台城下絵図

http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c02495.html(外部リンク)

→ これは「仙台城下五里卦絵図」(元禄4~5年)

 「奥州仙台城絵図」では幕府の命によりデフォルメされた仙台城が、城下とその周辺部の縮尺よりも大きく描かれていることが分かる。しかし約45年後に作製された「仙台城下五里卦絵図」ではデフォルメはされていない。その違いを見てほしい。

 ほかにも「仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図」「仙台城下鳥瞰図」「仙台城下絵図」「仙台城絵図」「仙台別業・江戸屋敷等絵図」「城・要害・在郷屋敷絵図」という資料が詳しい説明とともに掲載されているので、あわせてご覧願いたい。

 

「幻の仙台城」を求めて

 

 この「奥州仙台城絵図」は正保3(1646)年4月には間違いなく完成していた。ほかの大名家が翌年あたりから提出の動きをみせていることに比べれば、かなり早い段階での完成、提出である。その要因は、伊達家江戸留守居が幕府の規定を的確に理解した結果であろうが、測量技術(人材・機器)の高さ、すでに測量をともなう城絵図、城下絵図を所持していたか、いずれかであろう。

 ところが、絵図完成直後の正保3年4月26日、仙台地方を大地震が襲い高石垣上の三重櫓3棟が倒壊した。比較的低い本丸西側の石垣も崩れたようだ。

 もしこのとき「奥州仙台城絵図」の製作進度が他の大名家並みで、その完成が遅れていたならば、完成間近の絵図は書き直しを余儀なくされ、このような城の壮観が描かれることもなかったであろう。失われた三重櫓の姿をさも在るかの如く「正保城絵図」に描き入れることは、ぜったいに許されないからだ。

 仙台城本丸の石垣は30年前の元和2(1616)年7月28日にも大地震で崩れていた。このとき崩れた石垣は伊達政宗の時代に築かれた初代石垣で「野面積み」であった。高石垣を築くには技術的に無理があり、低めの石垣を三段構えに築いたらしい。

 その初代石垣を改修して規模を拡大、政宗があらためて築き直した二代目石垣が「奥州仙台城絵図」に描かれたものである。時代的にも、野面石と割石を多く用いた「乱積み」(打込みはぎ)様式の高石垣であったと思われる。

 しかし正保3年の大地震に耐えた二代目高石垣も、寛文8(1668)年7月21日の大地震ではあえなく崩壊した。その後、幕府の許可を得て修築された石垣こそ今日、私たちがみることのできる規模の石垣なのである。

 だが残念なことに、その塁上に三重櫓が再建されることはなかった。「御城」の機能が二ノ丸御殿に移ったからだろう。そのため「奥州仙台城絵図」に描かれた城郭景観は幻となってしまった。

幻となった仙台城の三重櫓をHV・CGシアターで体験できる青葉城資料展示館の広告

 

大地震と戦う石垣職人たち

 

 寛文8年7月の大地震後、伊達家では10月に幕府から石垣修復の許可を得たものの、直ちには工事に着手せず、5年以上もの年月を地震克服のための準備期間にあてていたようだ。そのため寛文13(1673)年に至り、あらためて幕府へ許可を求めることとなり、9月にその承認を得て三代目高石垣の普請に着手する。着工時期、完成時期を示す明確な史料は未見だが、竣工は「本丸修造成就によりて御登覧、小役人の輩は沢御門の外において拝謁」という『肯山公治家記録後編』天和3年閏5月22日の条文がこれにあたるのではなかろうか(肯山公とは第四代仙台城主伊達綱村の法名)。

 ところで、伊達家のなかには優秀な土木技師がいたようだ。その人は、亜炭層などから成る青葉山の土質・土壌、雨水や地下水の流れとその排水性、地盤の強弱などに精通していたと思われる。

 御抱えの石垣職人も優秀だった。彼らは石材加工法に光明を見出していた。割石を用いた従来の石材加工法(打込みはぎ)では、青葉山特有の地盤にかかる石垣の重力を均せないと考え、石垣の積み方を割石乱積みから切石布積みに転換、最新の石材加工法(切込みはぎ)を採用したのではないだろうか。

 石垣普請を成功させるためには、切石工(石材の切り出し)と彫り石工(石材の表面・側面加工)、積み石工(石垣積み上げ)による三位一体の協力・協調が大切だった。巨大な石材を使う隅角部算木積みには、勾配角度70度という、かなり急な石垣勾配を調節するため鉄製「敷金」が使われた。彼らのアイデアであろう。

 仙台城の石垣普請は、当時の土木技師とさまざまな工程を担う石垣職人たちが結集して臨んだ「地震との戦い」だった。いかに耐震性の高い、強固な石垣を築くか、彼らは結束した。その結果、三度目に築かれた石垣はその後一度も崩れることはなく、約300年の歳月を経て、現代へと受け継がれてきたのである。

城址案内板でみる石垣修復工事竣工後の本丸

 

そして仙台城「平成の大修理」

 

 昭和30年代、さしもの仙台城本丸高石垣にも変形、歪みが生じ、防災上の不安が指摘されるようになった。ことに近年、必ず発生すると予測された宮城県沖地震への備えが急務となっていた。そこで仙台市は平成10年3月から同16年3月にかけて、仙台城石垣修復工事を実施した。

 その結果、解体した三代目高石垣の背後からは、政宗時代の初代石垣、二代目石垣の遺構と、三代目石垣を支えた数々の土木遺構が検出された。それはおよそ70年に及ぶ仙台城石垣の歴史を物語るものであり、三代目高石垣を築いた伊達家土木技師、石垣職人たちの地震との「戦い」を現代に伝える証拠となった。

本丸跡に建てられた「仙台城石垣修復工事」完成の碑

 このように、仙台城の石垣にはとてつもない歴史が秘められていることが分かったのだが、今回のお話はここまで。次回は「山城」仙台城の魅力を探るとともに、東日本大震災から復旧を遂げた、仙台城の遺構を訪ねてみよう。

 さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

 

ご意見をお待ちしています。

また、「城あるき」のリクエストもお待ちしています。

リクエストは「まいにち・みちこ」お問い合わせフォームから

お送りください。

 

仙台市役所のホームページには、仙台城の歴史や構造を紹介する「仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―」が掲出されています。そこに「石垣は語る―石垣修復工事の概要―」というページがあるので、ぜひアクセスして、石垣修理、発掘調査の成果をご覧ください。

◆ 仙台市ホームページ

仙台市の文化財|仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―|石垣は語る-石垣修復工事の概要-

http://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/gaiyo.html(外部リンク)

 この記事を書いた「マイみちスト」
岩手県盛岡市在住の城郭史調査員(日本城郭史学会盛岡支部長)。小学生からの歴史好き、城の調査は中学生のときから続けている。地元の印刷会社を定年退職後、フリーランスの編集者・ライターとして働くかたわら、城歩きガイドと講演、歴史資料の調査や城郭関連の取材・執筆に取り組んでいる。「趣味はなんですか」と聞かれると、戦国武将・新選組などと答えているが、健康のためにも「なにかやらなければ」と真剣に考えている。

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