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日本各地に残る数多くの城。 いま、全国の城をめぐる旅がブームをよんでいる。 有名な大名の居城はもちろん、知る人ぞ知る小さなお城や居館まで、城址に残る「壺な見どころ」を読み解いていこう。

第7回 真相解明!「東北三名城」の選定【岩手県盛岡市 盛岡城[1-1]】

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まいにちみちこ編集室
https://my-michi.com/column/63129854/29673

はじめに

 

 読者のみなさま、お久しぶりです。

 新型コロナウイルス感染症の影響により、読者各位、お城好きのみなさまが不自由な暮らしを余儀なくされております。一刻でも早く感染流行が終息し、誰もが安心して暮らせる日が訪れることを祈るばかりです。そして一日でも早く、みんなで晴れて城の壮観、天守の威容を仰ぎ見たいものです。

 さて、約1年半の休載でしたが「城あるきの壺」を再開いたします。盛岡城からの再開です。東北三名城の由来、歴史的背景、石垣の謎解きを3回連続でお送りします。

 今年は盛岡城址(岩手公園)でも感染防止のため花見宴は禁止。来園者にはマスク装着、咳エチケット、利用マナーの順守が求められました。

 筆者も不要不急の外出を避けていましたが「この春のようすを後世に残すこと」も使命と思い、感染予防に万全を期し、短時間で城址の撮影をおこないました。

 今回その写真を掲載しますが、本来、慎むべきときに撮影した画像を公開することには慎重であるべきで、読者各位のお叱りを覚悟せねばなりません。しかしこの春、城址の桜を楽しみにされていたみなさまに、この光景をご覧いただきたいという率直な思いから写真掲載を決意しました。

 今年は訪れることができなかった盛岡城の桜、春景色をお楽しみください。

春らんまんの盛岡城本丸下段腰曲輪南側石垣

 

総石垣の城郭

 

 私にとって盛岡城は「ふるさとの城」。

書店の店頭に並ぶ城郭書のなかで、盛岡城が褒められるなど、適切に評価されれば素直に嬉しい。

まずは最近の評価を聞いてみよう。

 

 「南部氏の盛岡城は東北地方随一の壮大で新式な石垣を持つ平山城であるが、その縄張は小曲輪を連ねた古式なもので、複雑な割に虎口が手薄という特徴がある。」

(三浦正幸著『城の鑑賞基礎知識』249~251ページ 1999年 至文堂)

 

 「(前略)従前の南部家の拠点と盛岡城は大きく異なる。なによりも総石垣の城館であることが一目瞭然である。加えて、空間も従前のような群郭式城館ではなく、主従関係を意識した郭配置になっている。(後略)」

(齋藤慎一・向井一雄著『日本城郭史』403ページ 2016年 吉川弘文館)

 

 「それぞれの曲輪が石垣で囲まれており、会津若松城、白河小峰城と並んで『東北の三名城』と称されるが、盛岡城では用いられている石垣の量は桁外れで、東日本全体の城を対象としても五指に入る。」

(解説文吉谷純一、三浦正幸監修『復元CG日本の城Ⅱ』116ページ 2019年 山川出版社)

 

 これは凄い。「東日本」には東海・甲信越・北陸地方の城も含まれるのだろうか?

 それはさておき、盛岡城の石垣について「東北地方の城としてはめずらしい、総石垣のお城です」という説明を聞くことがある。

 どうやら本丸・二ノ丸・三ノ丸が総て石垣造りだから「総石垣の城」という意味らしい。しかしそれは、ちょっと意味が違うのではないだろうか。

 「総石垣」とは、塁壁面に対し地面からてっぺんまで、全て築石を積み上げた石垣の形態である。

 上の方が石垣、下の方が土居という場合は「鉢巻[はちまき]石垣」、下の方が石垣で上の方が土居のときは「腰巻[こしまき]石垣」と呼んでいる。

 鉢巻石垣は土居の防御力と石垣の攻撃力を共有できる画期的な塁壁。

 腰巻石垣には土居の崩壊を防ぐ土留の役割とともに、塁壁の防御力強化という両面性がある。

 なかには彦根城のように塁壁の上部が鉢巻石垣、中間部が土居、下部が腰巻石垣という事例もみられる。

 ただし下掲・彦根城写真の場合、土居下部の石垣は水堀から立ち上がるので腰巻石垣とは呼ばずに「水敲[みずたたき]石垣」と呼ぶ形態の石垣。

 したがって「東北地方の城としてはめずらしい、本丸・二ノ丸・三ノ丸の各曲輪を総石垣で固めたお城」と説明するほうが良いように思う。

 なお、盛岡城の石垣は水堀を伴わない「裸石垣」である。水堀と石垣をセットにした部分が少なく、わずかに北上川古川に面した御舟入と川口門付近に見られる程度で、前者の遺構は既に失われ、発掘調査で検出された後者の石垣は埋め戻された。

会津若松城本丸鉄御門 門台石垣にみる「総石垣」
岩村城本丸帯曲輪にみる「腰巻石垣」
彦根城にみる「鉢巻石垣」(上部)と「土居」(中間)、「水敲石垣」(下部)
白河小峰城にみる「腰巻石垣」(左側)、「土居」(左側上部)、「総石垣」(右側)
盛岡城は本丸(画面左側)・二ノ丸(中間)・三ノ丸(右側)が全て「総石垣」の城

 

「東北三名城」という格付け

 

 盛岡城は「東北三名城」の一つに選ばれている。

 ほかの二城は会津若松城と白河小峰城なのだが、会津若松城は当然として、仙台城・弘前城が選ばれておらず「納得いかない」という声を聞く。

 じつはこの選定、「日本100名城」のように公的機関や法人・団体、城郭愛好団体が公正な投票、モニタリングなどに基づいて選んだものではない。

 誰が、いつ、どこで、なんのために、どのようにして「選定」したものか、全く分からない。

「東北三名城」盛岡城 本丸下段腰曲輪櫓台の石垣
「東北三名城」会津若松城 本丸廊下橋御門枡形の石垣
「東北三名城」白河小峰城 本丸多聞櫓台の石垣

 そればかりか、会津若松市や白河市の人に話を聞いてみても「知らない」という声がほとんどなのだ。なかには「白河小峰城の石垣は会津若松城・盛岡城とともに東北の石垣造り三名城に数えられる。それは盛岡城を訪ねたとき、城跡の入り口にある説明板を見て知った」という趣旨の文章を読んだこともある。

 そこで盛岡市在住の歴史家(近代史)に話を聞いたところ「それは盛岡人が言い出した自慢話の一つだろう」という見解だった。

 20年ほど昔の話しになるが、地元のタウン誌から「東北三名城の由来」について寄稿を求められたことがあった。私自身、けっこう興味・関心を抱いていたことなので真面目に調査したことがある。

 今回はこの件について述べてみよう。

 

大類伸[おおるい のぶる]博士の著書

 

 結論から言うと、日本の城郭研究のパイオニア、大類伸博士(1884~1975年)がその著書で述べられた東北地方の城に対する「城郭観」が根拠になっている。

 大類博士は著書『城郭之研究』(1915年11月 日本学術普及会)のなかで「京阪及び東北の城郭」(202~232ページ)と題して両地方を対象に築城術の比較・検討を行っている。

 ここでその見解を詳らかにするゆとりはないが、今回の「壺」に値する部分を以下に抜粋してみよう。

 

 塁濠及び縄張り

 次に城塁及び城濠について注意すべきことは、東北の諸城郭に石塁を用いたものが少ないことであろう。多くの内で全城に石塁を用いたものは会津鶴ヶ城、南部盛岡城及び白河城の三城のみである。但し仙台及び二本松は半ば山城の性質を帯びたるものであるから、石塁を用いたことの少ないのは自然の結果であろう。その他の諸城に至っては多く土塁である。殊に秋田のごときは大規模の城郭でありながら全城石を用いなかったに至っては、異様の感がされるのである。しかして此れ等の間にあって盛岡城が特に高大なる石塁を用いたのは注目の値がある。なおまたその石塁の傾斜の甚だしく緩やかであるのも、異彩を放ったものといってよろしい。

(以下略 引用文の漢字は新字体、現代仮名遣いに改めた)

 

「東北二大城郭」とは

 

 博士の経歴は、『東京大学総合研究博物館ニュース第1号』西野嘉章「新規収蔵の大類伸博士旧蔵 江戸時代城郭史学・兵学関連資料コレクション」(1996年9月 東京大学)に詳しく述べられている。

 明治17(1884)年2月に東京市神田区で生まれ、神田練塀小学校、東京開成中学を経て第一高等学校へ進学、明治36(1903)年、東京帝国大学文科大学史学科に入学、明治39(1906)年には大学院へ進学した。

 大学院を修了した大正4(1915)年9月には学位論文「封建時代における城郭の研究」を著し、31歳の若さで東京帝国大学から文学博士の称号を授けられている。

 大正13(1924)年11月、東北帝国大学法文学部西洋史研究室に教授として着任。学生を連れて東北地方各地の遺跡調査現場に出向くこともあったという。

 話をもとに戻そう。

 新進気鋭の歴史学者は『城郭之研究』のなかで、

 「京阪地方における築城術の進歩した有様を見た後、転じて勿来白河の二関址を越えて、足一たび奥羽の地に入ると、恰も百花の園を出でて冬枯の野を訪うの感なきを得ないのである」

 と述べている。

大類博士が「傾斜の甚だしく緩やか」な石垣と評した場所はここか?
(榊山曲輪南辺)

 東北地方の名士・文化人の多くが切歯扼腕したことは想像に難くない。

 だがそうした中で、盛岡城が「特に高大なる石塁を用いたのは注目の値がある」と評価されたものだから

 「そうか。盛岡城の石垣はたいしたものなんだ!」

 盛岡の先人たちはさぞかし鼻高々だったのではないだろうか。

 そこで彼らは「東北地方の石垣造り三名城」のことを「東北三名城」と解して盛岡城、会津若松城(鶴ヶ城)、白河城を数え上げたのではあるまいか。

 ただし博士が、姫路城・名古屋城・大坂城の三城が有している地位を東北の城に当てはめるならば「雄大なる仙台城、整然たる会津若松城でなければならないと思う」と述べ、これを「東北二大城郭」と唱えていることを見逃してはならない。

 そのうえで「白河城、盛岡城も東北の名城たるものであろう」が、仙台城・会津若松城と比べれば「すこぶる遜色なきを得ない」と評価している。

 私はこのことが、東北三名城「選定」の真相だろうと考えている。

「東北二大城郭」会津若松城
 復元建築群 左から本丸干飯櫓続多聞櫓・鉄御門、天守
「東北二大城郭」仙台城
復元大手門脇櫓、手前は焼失前の大手門(古写真)説明板

 

博士と同世代の人たち

 

 大類博士と同世代の「盛岡人」「岩手県人」には歴史に名を残す人が多い。その多くが名門「旧制盛岡中学」(現・岩手県立盛岡第一高等学校)で学んでいた少年たちだ。

 金田一京助(言語学者 文化勲章受章者 1882年生まれ)

 及川古志郎(海軍大臣 1883年生まれ)

 板垣征四郎(陸軍大臣 1885年生まれ)

 石川  一(啄木 歌人 1886年生まれ)

 もう一人、米内光政(連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣)は1880年生まれで少し年長だ。

 当時の盛岡中学は盛岡城址のすぐ近くにあり、荒城と化してはいたが、かつての名城は血気盛んな少年たちにとって格好の「遊び場」だったようだ。

盛岡城二ノ丸石垣端から、かつて「盛岡中学」があった方向を望む

 博士が西日本の城郭を踏査、探訪したのは明治40年代、大学院生時代のことだという。しかし、いつ盛岡城址を訪ねられたのか、私もずいぶん興味を持って調べているのだが、いまだ詳らかにできない。

 『城郭之研究』には前述の石垣の話、城下町の話題や街路のこと、北山寺院群の配置などが詳しく述べられているので、数日間、盛岡に滞在し南部伯爵家ゆかりの資料調査を行った様子がうかがえる。

 

博士が訪ねた盛岡城

 

 盛岡城の建造物は博士誕生の10年前、既に明治7(1874)年に破却されていた。その城址が岩手県立の公園「岩手公園」として県民・市民に開放されるのは明治39(1906)年のことであるが、公園整備に際し著しく遺構改変が行われた。

 本来、城郭は防御上の観点から「バリアだらけ」である。

 公園化に際しては回遊性を高め、誰もが楽しく散策できるようにと、石垣に接する石段を取り付けたほか、急峻な坂道をかさ上げして道の勾配を緩やかにするなど、城内各所でバリアフリー化が図られた。その結果、城としてのありかたは、甚だ弱々しいものとなった。前述、「虎口が手薄という特徴」はそのためだろう。

 博士の目に、そうした改変のようすはどのように映ったのであろうか。

この石段も公園整備に際し増設されたもの。石材は城の築石を崩し、転用

 

櫻山神社に参詣しよう

 

 盛岡城三ノ丸の北側には藩祖南部信直をはじめ南部家初代(開祖)南部光行、第二代藩主南部利直、二十万石に高直しされたときの藩主南部利敬、この四公の御神霊をおまつりする「櫻山神社」が鎮座する。

 その境内の一角に、神社の由緒を解説した説明板があり「旧城址櫻山神社御遷座建築之図」(以下、櫻山神社建築之図)という絵図が掲示されている。

 この櫻山神社建築之図を見ると、盛岡城址が岩手公園として開園される直前、まだ遺構が保たれている状態が描かれているので、その特徴的な部分を見ていこう。

 神社「神饌所」の右手には既に失われた「鳩御門」跡の石垣が見える。

 御神殿後方には「烏帽子岩[えぼしいわ]」がひと際大きく描かれている。盛岡城を代表する巨石で、印象的光景だ。

とても『壺』にはまる!
「旧城址櫻山神社御遷座建築之図」は必見
必見!「鶴ケ池」のほとり、櫻山神社境内脇にある神社由緒説明板
櫻山神社はいまも変わることなく「領民安堵」「五穀豊穣」を祈願
櫻山神社参道の商店街を抜けると目の前に石垣が!
生垣後方が「鳩御門」虎口跡。画像右は「瓦御門」虎口の石垣

 三ノ丸に上がる喰違虎口は「瓦[かわらけ]御門」の跡。石垣は現状より高く描かれている。通路は相当かさ上げされているので、この絵のほうが旧状を伝えているのかもしれない。「鵜住[うずみ]御門」跡の石垣は低いためか図中には見当たらない。

 石垣の間を抜けて二ノ丸に上がると「車御門」跡の石垣が見える。喰違虎口には石敷き通路が見える。これも旧状を描いている。

 注目すべきものは車御門を抜けたところ、二ノ丸「御中之丸」御殿玄関や登城口まで続く通路の敷石がしっかり残されていることだ。

 中之丸を囲む低い石垣、車御門脇櫓から続く石土居もきちんと描かれている。

 二ノ丸石垣上に建つ「古物陳列場」にはなにが展示されていたのか興味深い。

 その上方、石土居が途中で途切れた所には、二ノ丸と本丸の境にあった穴門の旧状が描かれている。虎口は二ノ丸と本丸を隔絶する石土居の間に穿たれていた。

 二ノ丸と本丸を結ぶ廊下橋跡には仮橋が架かり、最高所本丸の周囲には低い石土居が巡る。本丸が「総多聞」であった可能性を物語る、貴重な描写だ。

 本丸の隅櫓群、「御天守」(御三階櫓)、御二階櫓、御小納戸櫓(二重櫓)の隅櫓台石垣遺構もしっかり描かれている。

 図の左端、中津川に架かる「櫻橋」(現・毘沙門橋)の向こうにはお椀を伏せたような山がみえる。戦国時代の陣場山、紫波郡攻防の陣城が置かれた経ケ森(現・蝶ケ森山)で、一直線に伸びる馬町の街路は、この山頂を目標に通されたのだろう。

 櫻山神社建築之図に描かれる城門跡の名称だが、鵜住御門は「うずみごもん」と読む。そう、埋門の佳名・当て字である。

 車御門は「くるまごもん」と読む。中之丸御殿玄関に通じる、「車寄せの門」という意味だろう。もしも可動式、移動式城門に由来する名称であったなら、夢のようでとてもおもしろい。実際、髙田徹さんの話では、飯田城八間門には車輪が付いていたそうだ。

 この櫻山神社建築之図は見ていて飽きない。ほんとうに「壺にはまる」。盛岡城探訪に訪れたみなさまにもぜひ、ご覧いただきたい。

 

 さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。次回はなぜ、南部氏がこのような石垣造りの城を築くことができたのか、築城の背景を考えてみたい。

ご意見をお待ちしています。

また、「城あるき」のリクエストもお待ちしています。

リクエストは「まいにち・みちこ」お問い合わせフォームから

お送りください。

 

 「盛岡城には不思議がいっぱい」と題する筆者の講演録が、盛岡市のNPO法人「いわてシニアネット」のホームページ(http://iwate-isn.sakura.ne.jp/)にアップされています。「文化サロン」のコーナーをクリックすると閲覧することができます。ぜひアクセスして、盛岡城の「謎解き」をお楽しみください。
 この記事を書いた「マイみちスト」
岩手県盛岡市在住の城郭史調査員(日本城郭史学会盛岡支部長)。小学生からの歴史好き、城の調査は中学生のときから続けている。地元の印刷会社を定年退職後、フリーランスの編集者・ライターとして働くかたわら、城歩きガイドと講演、歴史資料の調査や城郭関連の取材・執筆に取り組んでいる。「趣味はなんですか」と聞かれると、戦国武将・新選組などと答えているが、健康のためにも「なにかやらなければ」と真剣に考えている。

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Comment (1)
  1. アバター 日本 城男 さん

    城に関心あり。情報ほしい。

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