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日本各地に残る数多くの城。 いま、全国の城をめぐる旅がブームをよんでいる。 有名な大名の居城はもちろん、知る人ぞ知る小さなお城や居館まで、城址に残る「壺な見どころ」を読み解いていこう。

第6回 世に名高き「土の城」【秋田県秋田市 久保田城[1]】

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まいにちみちこ編集室
https://my-michi.com/column/63129854/25012

秋田県には「天守閣」がいっぱい

 

 お城ブームの昨今、各地の城址を訪ねると、多くの探訪者が訪れている。
 秋田市の中心部、JR秋田駅の近くにある佐竹家の居城、久保田城を訪れる人のお目当ては、本丸に建てられた白亜の天守閣、いや「御隅櫓」(おすみやぐら)だ。
 歴史的にみて、久保田城に天守が建てられたという事実はない。

久保田城本丸 新兵具櫓跡に復元された「御隅櫓」

 市のシンボルとして建造された模擬天守は、全国各地にいくらでもあるが、城の歴史性を重んじ、あえて「御隅櫓」と呼んでいるところに、歴史認識に対する秋田市民の誠実さを感じる。

「御隅櫓」三重目をめぐる回廊からの眺望

 江戸時代の久保田城の様子を見ると、本丸の北西隅にあたるこの場所には、新兵具櫓と呼ばれる二重櫓が建っていた。その姿は明治時代の初めに撮影された古写真にもはっきりと写っている。
 実は、秋田県内には六つの城址に「天守閣・隅櫓風」の建物が建てられている。復興天守・模擬天守と呼ばれるもので外観はすべて「三重櫓」だ。

まずは、その城名を建造順に挙げてみよう。

  •  横手城 横手市(昭和40年)「展望台」として建設
  •  五城目城 五城目町(昭和59年)「森林資料館」として建設
  •  稲庭城 湯沢市(昭和63年)「今昔館」として建設
  •  天鷺城 由利本荘市(昭和63年)「天鷺村」のシンボルとして建設
  •  久保田城 秋田市(平成元年)「御隅櫓」(資料館)として建設
  •  赤尾津城 由利本荘市(平成元年)「歴史動植物展示館」として建設

 このデータは、公益財団法人日本城郭協会理事・加藤理文氏の著書、『日本から城が消える 「城郭再建」がかかえる大問題』(洋泉社 2016年)に掲載されている「全国の城郭復元・復興等一覧」を参考にしたものだが、同資料によると全国約150の城址に「天守閣・隅櫓風」の建物が復元・復興・模擬建造されていることが分かる。そこで、都道府県別の「天守閣・隅櫓風建物存在数トップ5」を上げてみよう。

  • 1位 愛知県 18城
  • 2位 静岡県・岐阜県 8城
  • 3位 兵庫県 7城
  • 4位 秋田県・千葉県・鳥取県 6城
  • 5位 新潟県・長野県・愛媛県・長崎県・宮崎県 5城

(この数字は、建造物の棟数ではなく城数で、現存天守がある城は除外している)
これに次ぐ6位は福島県・京都府・岡山県・徳島県・大分県の4城となる。

 数字だけをみれば、秋田県民は「お城好き」ということになるが、県民のみなさん、実際にはいかがだろうか。

 

錦旗を護りし「矢留の城頭」

 

 平成30年は明治維新から150年。いわゆる「戊辰150年」の年だった。
 佐竹家は、幕末維新の動乱で、初めは奥羽諸藩と同じく奥羽越列藩同盟に参加。会津藩・庄内藩の助命嘆願に名を連ねていたが、途中から新政府軍に与する決断を下し方向転換。
 そのため、同盟離反に怒った仙台・庄内・盛岡の各藩が、国境を越えて大挙侵攻。秋の出羽路は各所で戦場となり、秋田の山河を血で染めた。

二ノ丸に入る正門、黒門跡の折り曲がり通路(虎口)

新政府軍の精鋭・肥前佐賀藩が救援にかけつけるまで、秋田藩は孤塁と化した久保田城を守り抜かねばならなかった。

篤胤信淵 巨人の訓

久遠に輝く 北斗と高く

錦旗を護りし 戊辰の栄は

矢留の城頭 花とぞ薫る

歴史はかぐわし 誉の秋田

 この詩は、秋田県民なら誰もが知る「秋田県民歌」(昭和5年 倉田政嗣作詞・高野辰之補作詞・成田為三作曲)三番の歌詞だ。この歌は秋田県民の自慢のひとつで、長野県の「信濃国」、山形県の「最上川」とともに、日本の「三大県民歌」として称えられる。しかし秋田市在住の知人に聞くと、この三番の歌詞は、今は歌われる機会が少ないそうだ。

 「政見の違い」により、不幸にして干戈を交えざるを得なかった「隣人」たちを思いやる歴史的な配慮なのだろうか。
 この歌詞にあるように、久保田城は別名・矢留城とも呼ばれた。

 

水戸城から出羽国秋田へ

 

 豊臣秀吉とは親しい間柄の佐竹家であったが、そのため、徳川家康からは一筋縄ではいかない相手とみられ、警戒されていた。
 水戸城は、あまりにも江戸に近すぎたのだ。
 関ケ原合戦のとき、豊臣政権のなかでは石田三成に近い存在だった佐竹義重・義宣父子は、「中立」の立場を貫き、この戦いには積極的に加担しなかった。会津の上杉攻め、最上氏と上杉氏の抗争にも静観の構えをみせていた。
 家康は、こうした佐竹家の対応を「敵対」とみなし、慶長7年(1602)5月、常陸国から出羽国秋田郡への国替えを命じた。54万石余から21万石相当の領地への減知転封(石高さえ明示されない)という厳しい処分であった。

その後「御三家」の居城となる水戸城 二ノ丸跡の景観

 佐竹氏と入れ替えに、水戸城には家康の五男・武田信吉が入城、15万石を知行して支配する。このほか、常陸国の旧佐竹家分領には安藤氏(秋田氏)ら秋田地方の多くの領主が所替えを命じられ、今日の秋田・茨城県の歴史は新たな時代を迎えた。
 秋田郡に移った佐竹義宣は旧領主・安藤氏の居城、土崎の湊城をひとまず本拠としたが、平城で規模も小さかったことから、直ちに新しい拠点城郭の築城を始め、慶長9年(1604)8月、この久保田城を完成させた。家康の許しを得たうえでの築城であることは言うまでもないが、「土造りの城を築く」と言上したか、どうか、それは定かではない。

 

佐竹家の粋を集めた平山城

 

 新たな城地は仁別川(旭川)と太平川にはさまれた丘陵、神明山と定められ、佐竹家の城づくり技術の粋を集めて久保田城が築かれた。
 本丸地点の標高は約40メートル、本城域は本丸・帯曲輪・二ノ丸で構成される。平山城特有の階段式の構造、「一二三段(ひふみだん)」式の縄張りとなっている。

本丸の周囲に巡らされる帯曲輪
本丸から帯曲輪へ降りる城門跡

 本城域周囲の自然崖は険しい切岸(きりぎし)として切り立てられた。
 内部の人工的な土塁・土居は分厚く土盛りされ、堅固だ。
 本丸西南部の霊泉台には外観平屋内部二階建て、入母屋造りの楼閣(櫓座敷)「御出書院」が聳えている。これが久保田城の象徴的建造物で、天守に相当する存在とみられる。
 佐竹義宣が家老らに宛てた書状には、しばしば「御三階」という建物が登場する。実態は不明だが、いわゆる御三階櫓で、天守に代わるものか。この楼閣の前身である可能性が高い。本丸・二ノ丸の要所には、隅櫓や多門櫓が上げられた。本丸北西隅の二重櫓は新兵具櫓と呼ばれ、その場所に「御隅櫓」が建てられている。二ノ丸の土塁上には4棟の二重櫓と平屋櫓、長屋状の多門櫓が建ち並ぶ。

本丸跡に再建された表御門 石垣を伴わない楼門様式

 主な城門は二階門だが、石垣造りの城ではないので、山形城東大手門にみられるような渡櫓門とはならず、弘前城追手門のような楼門形式の二階門になっている。
 本城廻りの二ノ丸西側には、円弧状に張り出した兵具蔵曲輪が連なるが、この曲輪とは全く別次元の曲輪が三ノ丸で、二ノ丸の東・南・北側に広大な外堀を巡らしている。南面して大手門が構えられ、東域を上中城、南域を下中城と称する。ここには重臣屋敷が置かれた。下中城跡は現在、市立図書館や美術館、高等学校の敷地となる。上中城跡は医療関係施設の敷地となっている。

中城の南側を守る広大な水堀、「大手門の堀」
大手門跡を上ると「黒門の堀」に出る。左折し土橋を渡ると二ノ丸だ

 さらに、本城二ノ丸の北側には正八幡社と別当寺壱乗院が鎮座する別郭、出城のようなかたちの北ノ丸が築かれた。残念ながら、遺構の多くは都市化によって消滅し、街区の地割にありし日の姿を想像することしかできない。
 この城の大きさは総面積約17万坪。東北地方の近世城郭では山形城や仙台城、会津若松城につぐ規模で、弘前城の約14万坪を上回る。

 

佐竹家ならではの「土の城」

 

 久保田城には城石垣が存在しない。
 二ノ丸の黒門跡や、二ノ丸から本丸に登る道筋には、切石を丁寧に整形した、布積み状の土留の石垣がみられるが、防御・攻撃を目的とする城石垣ではない。
 そのかわり切岸の険しさ、土居・土塁の堅固さ、壮観さ、そして土造りの城ならではの柔軟で、巧妙な縄張りはみごとの一言に尽きる。

黒門跡の土留石垣
通路の左右に残る土留石垣 ていねいな切石積みだ

 久保田城を築いた佐竹氏は清和源氏の一族で、戦国時代には常陸国(現・茨城県)水戸城を拠点に威をふるい、小田原城の北条氏とならぶ関東の雄として君臨した。
 その勢力は陸奥国にも及び、会津の蘆名氏とは縁戚つづき。相馬氏・岩城氏らと連携し、伊達氏と抗争を繰り広げた。
 その拠点城郭・水戸城もまた、みごとな土造りの城だったようだ。ここに、佐竹氏の城づくりに対するアイデンティティーが感じられる。

 それと正反対の城がある。おとなり、南部氏の居城・盛岡城だ。久保田城にくらべると小規模だが、織豊系城郭の特徴を備え、東北地方の城では珍しい総石垣を多用する。しかしそれは、南部氏のアイデンティティーを示すものではない。南部氏には、南部氏なりの城づくりの流儀があったが、盛岡城の構成は、そうはなっていない。
(南部氏と盛岡城、その城づくりは次回のお楽しみ)

久保田城の構造がよく分かる解説板

 石垣を築き、天守を上げる織豊系城郭が各地の大名分国に築かれていたこの時代。豊臣政権下の有力大名・佐竹氏ならば、当時流行の居城を築くことは、その実力から推して不可能ではなかっただろう。石垣普請の専門家「穴太衆」を召し抱えるだけの国力、人脈があるからだ。
 水戸城でも、久保田城であっても、義宣が石垣造りの城を築こうと思えば、それは不可能なことではなかったはずだ。
 しかし、あえてそれをしなかったところに、佐竹義宣の器量が感じられる。

 

江戸城の普請を手伝う

 

 江戸城築城の歴史に詳しい野中和夫氏の著書『江戸城 築城と造営の全貌』(同成社 2015年)によると、佐竹家は5回、江戸城築城の「公儀普請」(幕府の命による土木工事への軍役奉仕)に際し他の奥羽地方の大名と共に、助役を命じられたことが分かる。

  •  慶長12年(1607)雉子橋北方より溜池際まで外郭の土居を2間高める普請
  •  慶長16年(1611)西ノ丸の修築に関わる石垣・堀の普請
  •  元和6年(1620)内櫻田より清水門に至る石垣と一ツ橋御門などの桝形修築
  •  寛永6年(1629)神田橋・半蔵門の石垣普請
  •  寛永13年(1636)市ヶ谷土橋より伊賀町新土橋まで堀・土橋普請
     (伊達・上杉家など七家の共同工事)

(付記 元和4年(1618)には蓮沼御門普請の御手伝いを命じられている)

江戸城の堀と石垣(奥に見えるのは平河門)
元和6年、佐竹家が担当した場所は特定できない

 これは幕府(徳川将軍家)から知行地支配(いわゆる藩の支配)を認めるという「御恩」を受けた大名が、その知行高(石高)に応じた人員・資金をもって土木工事に献身・協力する義務履行のひとつだ。こうした行為を「奉公」を果たすという。
 しかし、この命に背き、怠惰な行動(遅参など)をとれば、奉公を怠ったとみなされ、最悪の場合、大名としての支配権を剥奪される「御家とりつぶし」(改易)など、重い処分を受けることになる。

 佐竹義宣書状を読むと、佐竹家はよく奉公を果たしていたことが分かる。多大な経費負担をともなう公儀普請に当り、技術的な困難にどう向き合えばよいのか、苦悩するようすもうかがえる。
 このような義宣の心情を察し、手助けしてくれた人もいる。

 九州の大名、豊前小倉城主細川忠興・忠利父子は、日ごろから親しく交流している義宣に、石垣普請や石材調達の御用が課せられることを心配し、佐竹家の家老を細川家の石切場に案内するなど、さまざまな便宜を図っている。

 今も、昔も、「持つべきものは友」なのである。

 

国を守った、義宣の献策

 

 こうしたことから、佐竹義宣は幕府年寄衆(老中)に対し、石垣普請ではなく、堀普請を命じてくださるよう希望を述べていた。
 「当国の地下人は申すに及ばず、侍どもも国譜代ひたちものに候あいだ、石垣御普請は一切不案内に御座候あいだ、御堀普請か御引普請か、いづれなりとも土普請仰せ付られ候ようにたのみ入れ候」
 寛永元年(1624)7月25日付の、家老梅津政景の日記に残された記述だ。義宣は佐竹家にとって苦手な「石垣普請」を買って出るという無用な背伸びは止めて、佐竹家が得意とする「土普請」で幕府に貢献することを主張、献策したのである。

 身の丈以上の工事を買って出て、幕府に忠義をアピールする大名が多いなかで、自分たちにできることを精いっぱいに務める、こうした行動はやがて信用につながる、義宣はそう考えたに違いない。
 その証として、義宣は江戸城本丸御殿造営にともなう天守の移転、建て替えに際し、国元で採れる50桶分の「うるし」(生漆)を献上するよう、家老に命じたことがある。これは元和8年(1622)正月のことだ。

 それでも、幕府が石垣普請を免じることはなく、寛永6年(1629)には神田橋・半蔵門(麹町口門)の石垣普請を命じられた。このとき、石垣普請が「不案内」な佐竹家では、秋田で普請奉行を中心とする施工体制を整えて江戸に派遣した。
 実際の工事は、江戸の石垣工事請負業者を通じて石垣棟梁を確保したもようで、現代風に言えば、石垣工事を「民間委託」したことが知られる。
 江戸城の石垣普請は、主に西国の大名が命じられた。それは技術的にしっかりした体制が確立されているからだが、有力外様大名に多額な工費支出を強いることで、財力を弱めようとする狙いがあったといわれる。

唐金橋跡に残る内堀の遺構
久保田城本丸を巡る土居の上部「馬踏」はけっこう広い

 奥羽の大名衆のなかでは、伊達家に石垣普請や大規模堀普請が命じられた。
 佐竹家が過重な課役を免れた背景には、義宣の誠実な人柄と、精いっぱい奉公に励む姿勢があったのではないか―。そうした行動が「国を守った」と考えることも許されるのではないだろうか。
 その証として、完全なる土造りの名城、久保田城があったのである。久保田城が石垣造りの城だったならば、また違う局面があったと想像される。

 

 さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

 ご意見をお待ちしています。

「城あるき」のリクエストをお待ちしています。(*「城あるき」のリクエストは「まいにち・みちこ」編集室までどうぞ(お問い合わせのリンクが開きます

 

国立公文書館デジタルアーカイブでは、久保田城を描いた「出羽国秋田郡久保田城画図」(諸国城郭絵図/正保城絵図)を高精細画像で閲覧することができます。

ぜひアクセスして、堀や土塁、石垣の様子を見てください。

URL: https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000000279

 

 この記事を書いた「マイみちスト」
岩手県盛岡市在住の城郭史調査員(日本城郭史学会盛岡支部長)。小学生からの歴史好き、城の調査は中学生のときから続けている。地元の印刷会社を定年退職後、フリーランスの編集者・ライターとして働くかたわら、城歩きガイドと講演、歴史資料の調査や城郭関連の取材・執筆に取り組んでいる。「趣味はなんですか」と聞かれると、戦国武将・新選組などと答えているが、健康のためにも「なにかやらなければ」と真剣に考えている。

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Comment (1)
  1. monmon さん

    お城巡りが好きですが、秋田にはまだ行ったことがなく、ぜひ行きたいです。

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