東北をフカボリ!「道の駅」日刊ウェブマガジン「まいにち・みちこ」

まいにちみちこ

まいみち編集室
(まいみちへんしゅうしつ)
日刊ウェブマガジン「まいにち・みちこ」と季刊誌「michi-co」の運営と営業と取材と編集を行っています。

第21回 関山街道

特定非営利活動法人「東北みち会議」執筆による。東北各地の街道団体との連携や、地域づくりグループとの交流を強めるとともに、東北150ヵ所を越える道の駅の発展に貢献できる、「みち」のパートナーシップ形成を目指す。(本記事は季刊誌「michi-co」掲載のバックナンバーです)
「michi-co」2017年6月25日号連載記事

かつては嶺渡りの難路

 

明治の文学者、東北を歩く

日本を代表する俳人、歌人のひとりだった正岡子規。今の愛媛県松山市生まれで、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公・秋山真之の友人として、NHKの大河ドラマに登場して茶の間に浸透したが、その業績は一般的にはあまり知られていない。

俳句、短歌、小説、文芸評論などをこなす多彩な文学者だったが、持病の結核がもとで重度の脊髄カリエスにかかり、歩くこともできなくなった。発病する前は野球と旅を好む青年だった。

26歳の時(明治26年)、その2年前に全線開通した東北本線を使って、東北地方に旅立った。目的は歌枕の地・松島と象潟を訪れること。仙台から松島まで行き、その後、関山峠を徒歩で越えて山形の東根に行き、最上川を下って酒田、象潟に旅をした。最終地点は秋田県の八郎潟を望む三倉鼻(みくらはな・八郎潟町)だった。

その時の旅をつづったのが『はて知らずの記』で、随所に俳句と短歌がちりばめられた紀行文となっている。江戸から明治に時代が変わり、交通手段は大きく様変わりし始めたころ。この本で「奥羽北越の遠きは昔の書にいひふるして今はたとへにや取らん」と表わしている。奥羽本線の全線開通はその12年後だった。

関山峠を越えたときは、明治15年開通の新道を通った。峠には隧道が造られ、嶺(みね)渡りといわれた急峻な峠道は、風通しのよいトンネルになっていた。

 

隧道のはるかに人の影すゞし    子規

 

関山隧道の山形側坑口 現在は通行できない。宮城側坑口は鉄柵でおおわれている(東根市関山)

 

正岡子規 子規の東北の旅は約1カ月間におよんだ(提供 松山市立子規記念博物館)

 

山口の大仏 板碑としては山形県内一の大きさといわれる。板碑の石粉は「おこり」の妙薬とされたため、下部が削り取られている(天童市山口)

 

坂下境目番所跡と関山街道開鑿殉難之地碑 関山街道の嶺渡りはこの近くから始まる。関山街道フォーラム協議会が毎年「嶺渡りを歩く会」などを催している(仙台市青葉区作並)

 

急峻なため利用が少なかった山越え道

関山街道を宮城側では「関山越最上街道」、山形側では「仙台街道」とも呼んでいた。仙台から天童に至る、現在の国道48号とほぼ重なるルートである。

関山街道の西側には二口(ふたぐち)街道、笹谷街道という、仙台と山形をつなぐ奥羽山脈越えの街道があり、3本の街道は脇街道で密接につながっていた。明和9年(1772)に東北地方を旅して『奥游日録(おうゆうにちろく)』を残した中山高陽は、関山街道の途中から二口街道に抜け、山寺見物をしている。

峠が急峻なため、荷物の輸送ルートとしては敬遠されたが、出羽三山に向かう講の人たちは、この道をよく利用した。いまでも旧道沿いに湯殿山・月山・羽黒山と彫られた石碑を多く見ることができる。

 

川崎潜り穴と川崎用水 ニッカウヰスキー仙台工場の横に取水口がある。ここから引いた水で熊ヶ根、愛子の水田を潤す計画だったが、愛子まで引くことはかなわなかった(仙台市青葉区川崎)

 

関所神社 戦国時代、近くに関所があり、その守り神として祀られたと推定されている(仙台市青葉区熊ヶ根)

 

回文入り道標「みな草の名は百と知れ薬りなりすぐれしとくは花のさくなみ」と回文が彫られている。道標には「右 定義迄四里廿一丁 左 二口街道作並街道」とある(仙台市青葉区郷六)

 

山形県令・三島通庸(みちつね)

「土木県令」ともいわれ、「県の経済を発展させるには、まず第一に交通の整備が必要である」を持論とした三島は、東北開発の一大物流拠点を目指した、宮城県の野蒜(のびる)築港計画につなげる道路の開削を検討した。そこで選ばれたのが関山街道ルートだった。

旧峠の標高790メートルに対し、開通した関山新道は594メートル。開通後は月に300駄以上の荷が行きかい、一時は仙台・山形間の荷のほとんどを占めた。しかし、東北本線、奥羽本線の開通で様相が一転し、関山街道を通る荷物は激減した。

現在は国道48号を1日1万台ほどの車が行きかい、山形自動車道とともに、仙山交流に欠かせない重要路となっている。

 

 

街道コラム

子規と歩いた宮城

仙台市に住む画家の古山拓さんは『はて知らずの記』に魅せられ、その足跡を訪ね歩いて、河北新報紙上に水彩画紀行を30回にわたって連載した。スタートは東日本大震災から3か月後だった。
古山さんは、震災後の松島と、子規が旅してから119年後の宮城の変わり様を、水彩画で淡々と表現した。連載は『子規と歩いた宮城』として、1冊の本にまとめられている。

お問い合わせ先
古山拓ギャラリー/アトリエアルティオ
〒980-0822宮城県仙台市青葉区立町19-20 パークサイドコーポ1F
電話022-797-8389

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