今年も3月11日14時46分は宮城県気仙沼市、旧本吉町(もとよしちょう)小泉地区にいた。
震災の翌年から毎年必ずこの場所で献花し黙祷する。この地域や人々への想いが続いていることを自身で確認したいし、「僕はこれからもこの街に通い続けますよ」という気持ちを態度で示したい。(気仙沼に通い続けている理由についてはまた別の機会に。)
あの日から7年が経ち、被災地と呼ばれた場所は地域ごとに違ったスピードとやり方で復旧、復興が進んでいる。
そんな中で僕が気になっているのが「震災遺構」という存在だ。
東日本大震災の最大の特徴は津波被害の甚大さだ。多くの建物が破壊され流されてしまったが、流されずに残った建物にはその波のチカラがどれほどの凄まじさだったかが刻まれている。それを震災の記憶と教訓として後世に残そうというのが「震災遺構」という取り組みだ。
「あんなことは忘れたい。思い出したくもない」「同じ過ちを2度と繰り返さないようにするために忘れてはいけない」という相反する2つの想い。震災当時は「そんな建物など早く取り除いてしまえ」という声の方が大きかったように感じたが、今、それを残そうとする動きが広まっているのは冷静にその町の未来を考えられるようになったからかも知れない。
気仙沼で黙祷した翌日、その震災遺構を2ヶ所訪ねた。
まず1ヶ所目、気仙沼向洋高等学校跡。
現在5つの建物を整備中で、2019年3月からその中の1つ「南校舎」が公開予定。

手前が公開される南校舎。
3階までの窓ガラスは全てなくなっていて4階のガラスも何ヶ所かが割れている。3階はすっぽり飲み込んで4階の教室をも津波が襲ったということがわかる。
近づいてみるとこう。
3階には押し流されてきた自動車がそのまま残されていて、公開後はその車も見ることが出来る予定とのこと。

窓ガラス部分に見える鉄骨は強化工事によるものなのか元々こうなのかはわからなかった。
幸い、この学校の生徒、教職員は全員無事だった。その時の模様が詳細に綴られた文章が公開されている。
http://kkouyo-h.myswan.ne.jp/date/00%20index/file/sinsaigenkou(kesennnumakouyou).pdf
続いて2カ所目に行く前に、震災当時に行ったきりだった場所がどうなっているのか見たいと思って東松島市宮戸(みやと)地区へと向かう。2011年4月に物資を届けに2度ほど通って以来7年ぶりの場所だ。
まずは当時の写真。この時は支援ライブで集まったお金で購入したレトルトカレーとカップ麺合わせて1000食と電子レンジ等を届けた。4月9日のことだ。

当時は避難所として80数名の方が生活していたが本来の姿は「宮城県漁業協同組合、宮戸西部支所」であった。
震災から7年経った今は本来の役目に戻っていた。

様々なことを思い出しながらゆっくりと走っていると新築の空気感が漂っている施設を発見。

奥松島遊覧船乗り場近くにある「あおみな」。まもなく完成から1年。宮戸市民センターも併設している複合施設だ。
自分お土産にこれを購入。

味噌汁が感動的に旨かった。
しばらく宮戸をうろうろした後、次の目的地に向かう途中、東名(とうな)運河を越える。
これが7年前の様子。

そして静けさと美しさを取り戻した現在の様子。

予定よりだいぶ遅れて目的地に着く。
震災遺構2カ所目の東松島市、JR仙石線「野蒜(のびる)駅跡」。
この周辺一帯は「震災復興メモリアルパーク」とされ、広範囲に渡って整備中だった。

そしてその野蒜駅の建物自体は無事だったということで、リフォームされ「東松島市震災復興伝承館」として使用されていた。
かつて駅だったことがわかるサインがあちこちに。


破壊された券売機が展示されていた。

当時撮った写真が残っている。2011年4月7日の野蒜駅。画面中央右、薄緑色のホームの屋根を覚えておいて欲しい。


そして7年後の現在。ホームの屋根から同じ場所であることが分かる。

倒れた鉄柱もそのままで。
震災遺構として第2の役目は始まったばかり。

ここで意外な出会いがあった。
この場所には「語り部」的なスタッフの方が何名かいて、希望者には施設を案内をしてくれたり当時の話を聞かせてくれたりする。
そのうちのひとりの女性と話している時に「2011年の4月7日と9日に物資持って宮戸に行ったんですよ」と言うと、なんとその女性「え!私、当時宮戸にいたんです。その物資、多分食べたと思います!」と言うではないか!なぬー!
宮戸島(島なのであった)にかかっていた唯一の橋が津波で流され、ようやく島に渡れるようになったのは4週間近く経った4月7日。まさにその日に宮戸に渡り必要な物資を調査し、9日に持っていったのだ。それを彼女は「それ、多分食べました!あの時はありがとうございました!」と言う。混乱の最中だったから記憶違いもあるだろうが本当だったとしたらなんという出会いだろう。
何をすれば良いのかわからず、夢中でやった当時の行動が少しでも役に立っていたのだということを今になって知らされた。悩みながら過ごしたあの日々が報われたような気がして、晴れ晴れとした気持ちになった。ここに来て良かった!
「震災遺構」は震災・津波の恐怖と教訓を風化させないためのものだ。
それらのいくつかを見ようとして周ったこの日の小さな旅で、あの時の自分の気持ちが鮮明に思い出された。
そしてそれが今の想いと意外なほど差がないことに気がついて、自分でも驚いた。
誰かの役に立ちたい。そして誰かの邪魔にはなりたくない。
やっぱりあの時、僕の中で何かが変わって(決まって)、その気持ちは今も続いているのだと確認できた。
少なくとも僕にとっては震災遺構は大きな意味があるものだった。今後も追っていきたい。
最後に新しい野蒜駅で見た練習中のブルーインパルスの画像を。
所属している航空自衛隊松島基地はすぐそばということでこの辺りの人々には見慣れた光景かも。

気仙沼向洋高等学校オフィシャルサイト
http://kkouyo-h.myswan.ne.jp/index.html
東松島市震災復興伝承館
http://miyaumi.info/search/page40.html
あおみな
https://www.facebook.com/宮戸地区復興再生多目的施設あおみな-114292845950659/
2011年4月7日まとめ(坂本サトルブログより)
https://ameblo.jp/sakamotosatoru/entry-10855022859.html
2011年4月9日まとめ(坂本サトルブログより)
https://ameblo.jp/sakamotosatoru/entry-10857471788.html
坂本サトル東日本大震災における活動まとめ
http://www.sakamotosatoru.com/0403.html
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お疲れ様です、こんばんは(^^)
震災遺構は『忘れないために残そう!』と『そんなもの思い出すから見たくない!』と大雑把に二つの意見があるものだと思います。どちらの意見も分かります。
ただオレとしては『こんなことが現実に起こる』というのを知らない人に伝える為に残すべきだと思います。
またこのページを見てみたいと思います(^^)
震災復興、、、福島第1原発に終止符がつかない限り、復興は終わらないでしょー。物理的に完了しても、精神的復興に終わりはない。それは、広島、長崎原爆と同じように。
、、、私達が出来る事は、
苦しんでる人、悲しむ人、助けを求める人に寄り添い、励まし、共に生きる。と、ゆー事。共感して、共存する事。
手を取り合い、声を交わし、見つめ、一緒に生きていこうと思う事。
だから、命あるもの同士分かり合えないといけない。わからなければいけない。
生きる為に、みんなの力が必要なんです。