1 大島との深くて不思議な縁 ~安波ヶ丘にある父の第一歌碑

今は亡き私の父・加藤克巳は歌人であった。「個性の会」という結社を主宰していて全国に支部があり多くのお弟子さんがいた。全国にある支部の中でも文化人の多い気仙沼支部は一番大きく、昭和50年頃の結社の名簿を見ると大島だけで実に20人ものお弟子さんがいたことがわかる。現在では皆高齢になっていて亡くなられている方も多い。
気仙沼は遠洋漁業の街で多くの漁師達が直接世界の海に乗り出し、長い場合は1年近くも諸外国の港を渡り歩く生活をすることはあたりまえの土地がらだ。1回の遠洋から帰ってくると想像を超えた収入になり、その結果唐桑半島の「唐桑御殿」に代表されるような豪壮な住宅群が多く見られる。当然その間外国の諸文化に直接触れて帰ってくる漁師達は、文化的視野が広く極めて開明的な気質を持つ人が多い。

唐桑御殿

もう亡くなっているが、お住まいが大島の要害という港近くにありフェリーの船長もされていた村上八男さんに、船で龍舞崎近くに釣りに連れて行ってもらったり、建てたばかりのご自宅に招かれてごちそうになったりしたことがあった。船で釣りをしている時、彼が釣り糸を垂らし海の底を見ながらしみじみと「ぼくはここの海の底を眺めていると太古を感じるんですよね」とつぶやいたのを聞いて、彼の感性の豊かさに驚いたことがあった。彼はそのとき既に何冊か自分の歌集も出されていて、フェリーの上で父の短歌結社「個性の会」主催の出版記念パーティーを開いたこともある。
そんないろいろなご縁でぼくは若い頃から何度も大島を訪れた記憶がある。振り返ってみると、初めて大島に通い出してからもう半世紀近くになる。

大島にはそのころの想い出で忘れられないものがある。若い頃、観光で大島を尋ね国民休暇村に泊まったことがあった。夕方、夕食の時間を待っているとドアをノックする音がする。何だろうと思ってドアを開けると、父のお弟子さんが二人立っていてこれから一緒に来てくれと言う。これから夕食なんだけどと言うと、「夕食はもう断っておいたからとにかく来てくれ」と言う。何だろうと思ってついていくと、休暇村のすぐ裏手の田中浜にテントが二張り立てられており、確か当時島だけでも20人近くいた父のお弟子さん達のうちのかなりの方々が集まっている。テントの中には凄い量の魚介類にお酒やビールがずらっと並んでいる。どうやら父が事前にぼくが行くことを連絡していたらしく、息子さんの家族が来るというので歓迎会をやろうということになったらしい。その晩、潮騒の音をバックに美しい田中浜の月夜の下で、たくさんの島の人たちと語らいながら彼らの温かい人情にふれ楽しい一夜を過ごしたのだった。

田中浜

父の歌碑は現在全国7カ所にあるのだが、昭和51年の夏大島をはじめ気仙沼の方々の大変なご尽力により最初の第一歌碑が大島南端・龍舞崎近くの「安波ヶ丘」に建立された。そこには「眼つむれば つねに海鳴りがきこえきて 清き勇気を 清き勇気を」というぼくも大好きな一首が刻まれている。

安波ヶ丘の歌碑

震災のあとこの歌碑がどうなっているか心配で、2011年の8月に大島に渡った。たくさんのお店が建ち並びいつも賑わっていたフェリー発着の浦の浜の変わり果てた姿に愕然とした。幸いなことに安波ヶ丘の歌碑は、土台の部分は大きく割れていたが歌碑本体は無事だった。その後すぐに割れた土台も修復され、地域で120年もの歴史をもつ「崎浜美和会(さきはまびわかい)」という自治会の方々が定期的に清掃活動をして守ってくれている。また周辺の道路にはきれいな紫陽花が植えられ「紫陽花ロード」として整備されている。

震災前の浦の浜の賑わい
2011年8月の浦の浜

2 ヤマヨ水産の小松さん

大島との深くて不思議なご縁はまだある。震災後、東京の会社に勤めているぼくの娘が3ヶ月間会社として震災復興ボランティアで被災地域に入るという。どこへ行くのか聞くと、それがなんと気仙沼の大島だったのだ。亀山の麓の目の前に大島瀬戸を臨む海辺で代々牡蠣の養殖業を営む「ヤマヨ水産」の小松さんは、津波によって牡蠣筏をはじめ住宅、処理工場などを失い壊滅的な被害にあっていた。ぼくの娘は大島の中部にある小田の浜近くの「明海荘」という旅館に泊まり、このヤマヨ水産の牡蠣筏の修復作業にあたっていたのだ。東北沿岸部だけでも広大なエリアにわたって甚大な被害を受けた東日本大震災。たくさんの団体や企業、そして個人でも多くの方々がボランティアに入っていたが、自分の娘が入った場所がその中でもピンポイントで昔からご縁の深い気仙沼大島だったことに非常に驚き、ここでも人知を超えたなにかが働いていたような気持ちになったものだ。

この大島のヤマヨ水産の小松さんご一家との交流は、震災から4年後の2015年5月に娘達と一緒に明海荘に泊まって復興したヤマヨ水産にうかがったときから始まった。そのとき、牡蠣筏まで船に乗せていただいて取れたての牡蠣やホヤを食べさせていただいたり、いろいろな説明をお聞きしたりすることができた。そのときまだ3歳だったぼくの孫が、当時小学校二年生だった小松武さんの長女優ちゃんにずいぶん面倒を見ていただいたりした。
ちなみにヤマヨ水産代表の小松武さんご夫妻は、お二方とも躰道(たいどう)という武道のチャンピオンだった方で、優ちゃんも全国大会で優勝するほどの実力者だが、心優しく礼儀正しい素晴らしい少女だった。

小松さんのご家族と
小松武さん

ヤマヨ水産代表の小松武さんは、壊滅的な打撃を受けた震災後牡蠣の「復興オーナー制度」を立ち上げ、寄付という形ではなく牡蠣の権利を事前に購入してもらうことによって、オーナーになった全国の方々と交流を深めながら実質的に復興への絆をつくっていくという取り組みなど、自らの事業の復興のみならず島そのものの復興活性化を目指して実にアイデアに溢れた取り組みを精力的に進めている。
小松さんは、この大島が「みちのく潮風トレイル」のルートに入っていることを初めて話したときには大変喜んでくれて、以来地元の立場から力強いサポートをいただいているのである。

牡蠣の処理場

3 崎浜美和会(さきはまびわかい)の村上吉行会長と熊谷文雄副会長

NHKの朝ドラの「お帰りモネ」で気仙沼の離島で牡蠣養殖業の名人として描かれているおじいちゃんがいるが、小松武さんのお父さん正行さんもまさに牡蠣養殖業の名人だ。小松さん達に「みちのく潮風トレイル」の話をしている時に、正行さんから「そういうことだったらぜひ紹介したい人がいる」ということで紹介されたのが、島の南・崎浜地区にある120年もの歴史をもつ自治会「崎浜美和会」の村上吉行会長と熊谷文雄副会長だった。

中央が村上会長、左が熊谷副会長

会長の村上さんは温厚な紳士で、誰からも信頼され慕われているまさに地域のリーダー的存在の方だ。この崎浜美和会はぼくの父の第一歌碑がある安波ヶ丘の整備活動もしていただいているということをこのときに初めて聞いて驚いた。また副会長の熊谷さんは、かつては遠洋漁業で世界の海をまたにかけて活躍されていた方だが、大島の「大漁唄い上げ」というそれまで埋もれていた郷土芸能を掘り起こし復活させた方で、大島大橋の開通記念式典でも仲間と共に素晴らしい歌声を披露されている。

2019年5月、父の歌碑をいつも守ってくれていることへのお礼の気持ちで、第一歌碑に刻まれている一首で直筆のものを額装にして寄贈させていただいたことがあった。そのときに「ぜひ受贈式・交流会をやりたい」ということで崎浜美和会の方々が集まってくれて、いろいろと交流を深めることができて楽しいひとときを過ごしたのだが、その中で彼らが大漁祝長半纏である「かんばん」を着て、腹に響く素晴らしい唄い上げを披露してくれて大いに感動したものであった。

崎浜美和会の方々(受贈式・交流会)
熊谷さん達による唄い上げ

この村上会長や熊谷副会長はじめ崎浜美和会の方々には、その後2020年の秋に環境省の補助事業でJTBとともに大島での親子ツアープログラム造成事業に取り組んだときにも、地元の立場からモニターツアーの案内役として、また地元郷土芸能の実演と参加者による体験活動でも大変お世話になったのである。
ちなみに大島には、娘が復興ボランティアのときにお世話になった旅館「明海荘」の村上さんご夫妻や、元小学校長でノルディックウォーキングをされている菊田榮四郎さん、気仙沼市内から島に移住されゲストハウス「海風」を経営されている斉藤仁さんなど、島の復興活性化のために意欲的に取り組んでおられる方々が多くおられ、「みちのく潮風トレイル」にも地元の立場から様々なサポートをいただいている。

大島にはまだ多くの課題もあるが、長年の悲願であった気仙沼大島大橋の開通、浦の浜の気仙沼大島ウェルカム・ターミナルの完成、NHK朝ドラ「お帰りモネ」の舞台になるなど明るい話題が続いており、古くからご縁のある大島の一層の復興発展に向けた飛躍を大いに楽しみにしている。