東日本大震災からの遺構復元

 

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災により仙台城の石垣、建築遺構は大きな損傷を受けた。あの日からもうすぐ10年になるが、石垣の修復は終わり、大破した大手門脇の土塀も元通りの美しい姿を取り戻した。

 いちばん大きな損傷を受けたものは、やはり石垣である。仙台市青葉区の震度は6弱を計測したが、本丸北西部の比較的低い石垣が3ケ所で崩落したほか酉ノ門石垣も損壊した。二ノ丸大手門から本丸へ上る城道では中ノ門跡の門台石垣が損壊し、三ノ丸から本丸へ上がる途中の清水門跡でも角石がゆがむなどの被害があった。

 現存建造物の被害は大手門脇の土塀で発生した。白壁の塀が途中で折れ曲がり、屋根瓦が崩れてしまったほか、石垣の一部も少し壊れた。この土塀は近代において改変を受けているものの、仙台城内に残るものとしては唯一の建築遺構である。道路を挟んで向かい合う復元隅櫓(脇櫓)とともに、情趣を醸し出していただけに、傷ついた姿を見て仙台市民の多くが心を痛めたに違いない。

城址案内板で見る修復工事中の本丸北西石垣。
崩落した石垣を解体した状況

修復が終わった本丸北西石垣の現況

 こうした遺構の被災状況とその後の修復工事について、ここでは詳しく述べるゆとりがない。そこで仙台市教育委員会が平成29年3月に発行した『仙台市文化財パンフレット第72集 仙台城跡東日本大震災からの復旧事業のあゆみ』をご覧いただきたい。これは前回ご案内した仙台市のホームページで閲覧できるし、PDF版をダウンロードすることもできる。

 もちろん仙台城跡を訪ね歩きながら、被害状況を知り、復元されたようすを理解することもできる。できれば両方見くらべながら歩いてもらうのがいちばん良い方法だろう。

美観を取り戻した大手門脇の土塀

土塀が載る石垣には「江戸切り」と呼ばれる細工が施される。
お見逃しなく

 

青葉城と青葉山

 

 ところで、筆者が盛岡市内の印刷会社で働きはじめたころ、佐藤宗幸さんの『青葉城恋歌』が大ヒットした。そのネーミングにふさわしい、優しく爽やかなメロディーとミュージシャンの人柄があいまって人気をさらに高めた。約40年を経たいまでも、そのメロディーは仙台駅の構内で乗降客を魅了する。

 一方、大相撲の世界では「青葉城」と「青葉山」という、ともに宮城県出身の個性派力士が直接対決。幕内の土俵を実況するアナウンサーがたいへん困惑していたことを思い出す。

 閑話休題。本題について話を進めていこう。

 仙台城址が広大な面積を占める青葉山丘陵は仙台市街の西北方向に位置し、城址はその東端、河岸段丘の頂部に位置する。城の東側を広瀬川が南に流れ、本丸南側には深く切り立った竜ノ口渓谷が入り込んでいる。本丸の西方、御裏林にも天然の深い谷があり、さらに人工で三条の堀切が穿たれている。

 青葉山丘陵の標高はいちばん高い所で約200メートル、本丸の通称「天守台」付近は同112メートルほどの高さがあり、まさに守るに易く、攻めるに難い、要害堅固な山城である。

広瀬川に架かる「大橋」から仙台城本丸を望む。
断崖の上に石垣や伊達政宗騎馬像が小さく見える

大橋から遠く青葉山の丘陵地帯を望む

大橋を渡り仙台城に足を踏み入れると、
その西方には伊達政宗が眠る「経ケ峰」の森が見える

 下掲の図は宮城県護国神社の境内に設置されている「仙台城鳥瞰図」であるが、こうした本丸をめぐる城の特徴がよく描かれている。

 また、前回紹介した「正保城絵図 奥州仙台城絵図」を見ると、広瀬川に臨む高さ約60メートル以上の崖際には「岩高三十五間、人馬不叶(じんばかなわず)」、標高差約40メートル以上の竜ノ口渓谷崖際には「土手高五間、門より沢底迄五十二間、人馬不叶」と記してある。

 いずれも居城の秘密を将軍に開示するための記述なのだが、逆に、仙台城の堅固さを誇っているように聞こえるから、この城はほんとうにすごい。

 そしてなによりも、この山城には十二分な保水力がある。「正保城絵図」には3か所の井戸が図示されている。

 沢や清水、湿原、いうまでもなく青葉山の恵みがもたらしたものであるし、こうした水利を得て三ノ丸の周囲には水堀が巡らされた。

宮城県護国神社の境内に設置されている「仙台城鳥瞰図」

大手門の下に位置する水堀「五色沼」とその案内板

大正年間には大手門下の五色沼が凍結した。
青葉山は自然環境の厳しいところでもあったようだ(城址案内板より)

 

仙台城「広がりの空間」と御裏林

 

 仙台城の縄張構成は既存の概念では説明がつかない。強いていえば段丘崖を巧みに利用した階郭式縄張なのであろうが、それとて的を射ているとはいい難い。

 城郭考古学者の千田嘉博氏(奈良大学教授)は「山の上に城主の御殿を備えた絶対的な中心があり、そこからつづら折れに連なった城道の要所に門を構えて、長大な外枡形の虎口空間に仕立てた。さらに山麓は拠点の曲輪(蔵屋敷)をおいて固めた。そして両者を斜面の囲郭で結んで一体化した」と説く(千田嘉博編著『別冊歴史読本 図説正保城絵図』2001年 新人物往来社)。

城址案内板にみる旧国宝大手門の華麗な姿

登城道の途中にある中ノ門虎口石垣。道路のところに二階門があった

 大手門跡から中ノ門を経て本丸詰ノ門へ至る登城道そのものが「虎口空間」になるという斬新な見方である。

 もう一人「城郭空間」という発想を説く堀田浩之さん(兵庫県立歴史博物館学芸員)に仙台城の特徴を聞くと「青葉山の存在がとても重要」という答えが返ってきた。

 この青葉山は御裏林と呼ばれ、本丸とは深い沢で隔てられている。多くの水源を有し、その防御のために三条の堀切を穿ち、土居を築いたというが、それ以外の構造物はいっさい存在しない。

 堀田さんはこの広大にして奥深い自然林こそ「城がその生を追求する空間」と捉えている。仙台城に限らず、城の「城らしい縄張」はあくまでもある一部分を占めるものに過ぎず、どの城にもさらなる「広がりの空間」があるはずで、城を訪ねたときには、「そこを見逃してはいけない」と教えられた。

仙台城といえばこの景色―大手門脇櫓(隅櫓)。
本丸に至る長大な「虎口空間」は大手門跡が起点になる

本丸に上るもう一つの登城道の中間にある清水門虎口の石垣

 

国の史跡と天然記念物が同居する

 

 堀田さんのお話を裏付けるように、ここは現在、東北大学青葉山植物園(昭和33年開園)となっている。城郭の後背部を守るこの自然林は、現代に至るまでほとんど人の手が付けられていないという。昭和47年には「青葉山」が国の天然記念物に指定された。その総面積約52万平方メートル、国指定史跡仙台城跡の大部分を占めている。

 これも「城」という概念を超えた仙台城の大きな魅力なのである。

 仙台市教育委員会の調査によると、本丸、二ノ丸、三ノ丸から成る城の総面積は約125万平方メートルに及ぶそうだ。自然植物園の範囲もその中に含まれてのことであろう。そのうち史跡指定面積は約70万3,644.72平方メートルを占めるという。東北地方の近世城郭としては山形城に次ぐ広さであるが、山城と平城の広さを比べてみるなどナンセンスなことなので、これ以上言うのはやめておこう。

「青葉山公園 仙台城跡」この城跡の案内板は“伊達で”センスがいい

 「青葉城」という名の爽やかな響き、余韻は、その名が示す緑豊かな自然林が、まさにここにあるから感じられるのである。

 正式な歴史的名称は仙台城だが、それに対し青葉城という名は、自然由来の正式名称と言っても良いのではないだろうか。

 いずれにせよ、青葉城という城名は、単なる雅称、愛称という理解では収まり切れない、優れた名前であることを理解していただきたい。

 

 さて、今日のお話は、みなさんの壺にはまっただろうか。

ご意見をお待ちしています。

 

 

仙台市役所のホームページには、仙台城の成り立ちを紹介する「仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―」が掲出されています。「仙台城の紹介―仙台城について―」「仙台城のみどころ―大橋・二の丸・三の丸・御裏林―」というページには空撮画像も多用されているので、ぜひアクセスして仙台城への理解を深めてください。

 

仙台城の紹介-仙台城について-

http://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/shokai.html(外部リンク)

 

仙台城のみどころ-大橋・二の丸・三の丸・御裏林

http://www.city.sendai.jp/shisekichosa/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazai/joseki/orabayashi.html(外部リンク)