「整然と残っている」石垣

 

 日本中で盛り上がる「平成・令和のお城ブーム」。いま、新型コロナウイルス感染症の影響で水を差された感は否めない。一刻も速い終息、一日でも早い安全な日々の訪れを願わずにはいられない。

 「お城ブーム」を語るとき、いまも、むかしも、日本の「城文化」をけん引している公益財団法人日本城郭協会(小和田哲男理事長)の存在を忘れてはならない。64年にわたり、城郭研究を通じて城郭ファンの底辺拡大、啓蒙・普及に努めている。

 その活動の中で、井上宗和編著『日本の名城と城址』(現代教養文庫440 1963年)が果たした役割は大きい。

 同書「まえがき」には、「日本の城に関する本も相当数発刊されているが、一冊で150城におよぶ写真と解説を収録したのは本書がはじめてである」とある。この本のよいところは、名城・無名の城を区別することなく、1城1見開き(2ページ)で平等に紹介しているところだ。

 同書「盛岡城」解説ページには本丸廊下橋跡の写真とともに「城は三層の天守閣を中心に、本丸、二の丸、三の丸、各曲輪からなり、石垣は現在もなお整然と残っている」と紹介されている。そのおかげで「石垣の城 盛岡城」の認知度が高まり、同書掲載写真の場所が城を訪れる人の人気スポットとして定着するようになった。

『日本の名城と城址』にはこの場所の写真が載る
画面中央、巨大な石土居は橋の高さのまま手前に伸び、
この場所のあたりに埋門虎口(穴門)が開けられた
廊下橋の跡に架かる朱塗りの橋「渡雲橋」は人気のスポット

 

それでも「普通」の石垣

 

 ここで三浦正幸氏(広島大学名誉教授 工学博士・一級建築士、公益財団法人日本城郭協会評議員)の東北地方の城の石垣に関する見解を引用することとしよう。

「東海地方以西の近世城郭が高い石垣や壮大な天守を有するものであったのに対し、東北や関東地方では石垣や天守を持つ城が少なかった。(中略)岩手県や福島県の辺りでは比較的に築城用の石材に恵まれている。しかし、それでも壮大な石垣を有する城は少数派に属する。盛岡城と会津若松城、白河小峰城の三城を東北地方における石垣造の三大名城に挙げるぐらいであるから、石垣の低普及ぶりは容易に察しがつこう。それら三大名城にしても、西日本の近世城郭に残る壮大な石垣と比べてみると、取り立てて言うべきほどでもなく、普通の石垣とみなされるからである。」

(三浦正幸著『城の鑑賞基礎知識』249ページ 1999年 至文堂)

 

 筆者もこの見解に異論はない。ただ一言付け加えるとすれば、見た目の印象ではあるが石垣の築石が大きいこと、石質が固く長年の石垣解体修理で交換された石材(新補石材)の数は、わずか数個体にとどまることを付記しておきたい。

 三浦氏は先年、東北地方南部のある城下町で講演された。そのとき「東北地方のお城で見ておくべき価値のある城はどこですか?」という会場の質問に対し「それは盛岡城だね」と即答されている。

 きょうは三浦氏に代わり、筆者が盛岡城の遺構のうち「ここだけは見ておいてもらいたい」という場所を案内させていただこう。

 それは縄張図の確認など、城歩きの事前準備をしておかないと、うっかり見落としかねない「隠曲輪」である。

 

石垣巧者を生む

 

 盛岡市教育委員会による「石垣様式変遷」(編年表)をみると、前号に掲載した「年表」の第2期(慶長年間初期)、第3期工事(慶長年間中期)で築かれた「築城期石垣」は1期石垣、第4期工事(前半:元和年間、後半:元和・寛永年間)の石垣は2期石垣となる。以下3~5期石垣は城郭の維持に伴う「維持期修復石垣」である。

 

1期石垣 16世紀終末(慶長3年~)角石に割石、築石は野面石、乱積A

2期石垣 17世紀前葉(元和3年~)角石・築石は割石、乱積B

3期石垣 17世紀後葉(寛文8年~)角石・築石は割石、布積A

4期石垣 18世紀前葉(宝永元年~)角石・築石は割石、布積A′、B、C、D

5期石垣 18世紀後葉~19世紀中葉(~明治期)

 

二ノ丸西側の石垣は隅角部が高度化、盛岡市教委「3期石垣」に編年される

 

 盛岡城址でいちばん高い石垣は二ノ丸西側の石垣で比高約14メートルを測る。その出隅部分に石垣普請奉行2名の名を刻んだ築石が残っている。

貞享三 丙寅 年三月吉日 

奉行 奥寺八左衛門

   野田弥右衛門

 
普請奉行の名を刻む築石は下から二番目の角石の右にある
普請奉行2名の名を刻す築石

 

 この高石垣は「石垣様式変遷」に従うと3期石垣となる。北上川の流路が西よりに切りかえられ、今日のすがたに改修されたことにより、城の要害性が著しく後退したために築かれた。

 南部家は延宝7(1679)年7月に幕府へ許可申請をおこなった。これは「新規」の石垣普請なので、老中には決裁権限がなく、将軍徳川家綱が直々に絵図をみて決裁するハイレベル案件なのである。

 しかし案ずるより産むが易し。石垣普請は無事許可され、翌年3月に着工した。

 申請の際の理由は「土手長さ百間余、高さ十間または七~八間の所が、毎年冬になると凍結し、崩れてしまい危険なので、新規石垣普請を行いたい」というもので、間違っても、失われた要害性を取り戻すための強化策とは言えないのである。

 この高石垣がすべて完成するまで、およそ10年の歳月を要した。ことにも本丸下段腰曲輪へ上がる坂道際の石垣がなんども崩れ、その修復に関しても幕府の許可が必要となったので、よけいに手間取った。

 石垣普請には江戸から石垣師を呼び寄せた。実働者は組頭奥寺八左衛門、野田弥右衛門に属する足軽同心たち。彼らは「新田開発」の土工にも従事するつわものたちである。一組30人の足軽組を2組動員、計60人で工事を進めた。そうしたなかで「石垣巧者」というべき士卒が育った。やがて「石見役」という役目を与えられ、石垣普請下奉行にも任じられた。足軽・卒身分から御給人(盛岡在住の南部家家臣)に抜擢されたもので、南部家ではこうした昇進制度を「組付御免」とよんだ。

 

堡塁のような三角形の曲輪

 

 江戸時代中期にさしかかる時期ともなると、これほど大規模な新規石垣普請はそうそうめったにあるものではない。幕府も関心を寄せたに違いないケースであろう。

 また、このような形の曲輪は全国的にもめずらしい。まるで幕末に築かれた五稜郭の堡塁をみるかのようだ。

 ところが、石垣が完成した元禄初年以降、南部家が江戸幕府に提出した城郭修理願絵図には「榊山曲輪」、二ノ丸石垣の「横矢枡形」が描かれていないのである。

 延宝8(1680)年に作製された城郭修理願絵図(将軍代替わりにつき幕府へ確認申請したときのもの)をみると、この場所は自然地形の崖状法面で、榊山曲輪は円形状の小曲輪に描かれている。

元禄16年盛岡城修理願絵図(もりおか歴史文化館所蔵)
榊山曲輪は、写真図版「本丸」「二丸」中間部の上に存在するが描かれていない
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 しかし元禄16(1703)年の城郭修理願絵図にはその完成形が描かれず、二ノ丸西面の石垣は榊山曲輪の部分で緩やかに膨らんでいるだけなのである。

 このような状況は、南部家が作製した城下絵図(藩用図)にも共通していて、榊山曲輪の形が公的城絵図に描かれることはほとんどない。南部家はこの三角形に突き出た石垣の存在を幕府に意図的に隠したのであろうか。

 

ほんとうに隠したい?「隠曲輪」

 

 この榊山曲輪は本丸下段腰曲輪からは死角になっていてよく見えない。岩手公園となった今日でも、多くの城郭見学者が気づかずに通り過ぎ、見逃しているようだ。まさに、いまもなお「隠曲輪」なのである。

 また石組井戸が1基現存するので「水の手曲輪」でもある。

 榊山曲輪は本丸の下段、腰曲輪の西南隅にある櫓台と相横矢を成している。この間には吹上御門の虎口があり、虎口に上る坂道が存在する。また北側の二ノ丸高石垣には横矢枡形状の張り出しがあり、この部分とも相横矢を形成する。

 城郭の攻守にくわしい友人から「盛岡城の弱点は二ノ丸西側にある」と指摘されたことがある。河川改修の結果、北上川本流が西方に遠ざかり、ここの面が手薄になったことは前述したとおりだ。そのための新規石垣普請なのである。

かつての北上川本流側から望む榊山曲輪(左)
本丸上段には御小納戸櫓台(左端)、御二階櫓台石垣(右上)が見える

 

 では、写真で詳しく見てみよう。

 榊山曲輪はこの弱点を補って余りある。二方向の相横矢に加え、寄せ手の敵に対し十字砲火を浴びせることが可能であり、本丸上段・同下段腰曲輪・榊山曲輪で三段構えの石垣は、藤崎定久氏が名著『日本の古城2中国・四国・九州編』「島原城」(227ページ 1971年 新人物往来社)で述べているような「火網」を形成できる。

 そして榊山曲輪の更に上には本丸御小納戸櫓(西北隅二重櫓)櫓台が見えるので、ここが戦闘指揮所となる。

盛岡城復元模型(もりおか歴史文化館展示)
榊山曲輪を中心とした城の構成が手に取るように分かる
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榊山曲輪をクローズアップ
三段構えの「火網」が敷ける仕組みが分かる
吹上門虎口に上る坂道から望む榊山曲輪。左右に「横矢」が効く構えだ
二ノ丸石垣から張り出た形の「横矢枡形」から榊山曲輪を望む

 

 結果的に、このような攻撃的な曲輪を造ったことで、江戸幕府に知られたら「たいへんなことになる」。南部家はそう考えて榊山曲輪の石垣を絵図に描かなかった。そういう可能性があるのではなかろうか。

 

ふだんは「平和利用」

 

 榊山曲輪には「榊山正一位稲荷社」の本殿・拝殿が建てられ、御神体(南部家家祖、源義光伝来の観音仏)が祀られていた。盛岡城「三社」の一つで、領内総鎮守の守護神として城主、家来衆に崇められていた。城下郊外、下小路にある御薬園(現・盛岡市中央公民館構内)の西南隅には御旅所を造営、城下市民にも参詣を許した。

 江戸時代後期には諸士参詣の便宜をはかるため、石垣を斜めに昇る「百足橋」が取り付けられた。「懸け造り」様式の奇妙な橋だ。その模様は城郭復元イラストの第一人者・香川元太郎氏の「【陸奥】盛岡城」復元イラストで知ることが可能である。興味・関心のあるかたはぜひお読み願いたい。(香川元太郎『ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城』P19~20 2018年 学研プラス)

南部家御抱絵師 狩野存信画「盛岡城」(部分 明治期、個人蔵)
『盛岡城本丸復元計画目論見書』(建設準備委員会 1965年)より転載
榊山曲輪石垣に掛かる「百足橋」と榊山稲荷大明神本殿・拝殿の様子が分かる
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 幕府になにか言われたら、南部家では「いちばん格式の高い神社の社殿敷地、神聖で別格な場所です」と釈明するはずだ。あくまでも平和利用なのである。

 ちなみに、本殿・拝殿の前にある石組井戸の深さは約10メートル。石垣の高さとほぼ同じということだ。石垣普請の直前に掘削した記録があり、地盤調査のために掘った竪坑だったとみられる。

 

「謎解き」の結果は

 

 ところで、前に述べた城郭修理願絵図には「見かた」「読みかた」がある。

 既に絵図の写真も掲載したが、筆者は将軍の上覧に入れた絵図が、写真図版と同じであった可能性は「ほぼない」とみている。

 南部家に伝わる盛岡城の城郭修理願絵図はすべて「控え絵図」である。城郭修理を願い出るとき、大名家は4枚の城絵図を用意した。

 最初に使うものは幕府との事前折衝に使う下絵図。次は下絵図を踏まえて作製した自家用の控え絵図。その次は御用番(月番)老中が保管する控え絵図。そして正式な申請絵図となる御本絵図(清絵図)ということになる。

 このような絵図に、それぞれの段階で必要な「御連書」という申請書類が付けられるので、ほんとうにたいへんな手続き作業である。

 南部家が作製した盛岡城修理願絵図の場合、下絵図と南部家の控え絵図、老中の控え絵図は同じ様式であることが分かっている。

 だが御本絵図だけは、また別な様式の絵図であった可能性が高い。

 このような城郭修理願絵図作製の場合、そのやりかたは大名家ごとに対処法が異なっていて、統一性はあまり認められない。南部家の場合には「石垣の見取図」であることに重点を置いて下絵図・控え絵図を作製していたもようだ。別の大名家では縄張を正確に描くことに重点を置き、控え絵図と御本絵図の「見た目の違い」が少ないというケースもある。

 しかるに御本絵図は「正保城絵図」の様式を踏襲した絵図でなければ意味がない。正保~明暦年間に各大名家が幕府へ提出した正保城絵図を基本絵図として、それ以降、修理・修築で変更された部分を書き継いでいくことが、幕府と大名家のあいだの約束ごとになっていたからだ。

「明和三年書上 盛岡城絵図」(もりおか歴史文化館所蔵)
榊山曲輪の姿が鮮明に描かれる数少ない城絵図で、なおかつ公式なもの
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 したがって三角形の榊山曲輪のすがた、二ノ丸石垣の横矢枡形のかたちは、隠すことなく、御本絵図にはきちんと描かれていたのではないだろうか。

 上掲「明和三年書上 盛岡城絵図」は、南部家の命を受けて家来の下斗米小四郎(軍学者)が作製したもので、宝永元(1704)年ごろの城絵図を原図として明和3(1766)年に書き上げたものだ。三角形の榊山曲輪も正しく描かれている。当時、城内の石垣修理が頻繁に行われていて、城郭修理願絵図も多く作製されていた。彼が手にした原図こそ御本絵図の「写し」であった可能性があるのだ。

 

「はばき石垣」のこと

 

 城郭修理願絵図の考察が一段落したので、この話の最後に、幕府の許可を得た石垣修理の実情をみておこう。

 元禄16(1703)年の城郭修理願絵図をみると、本丸下段腰曲輪南面の石垣がずいぶん傷んでいることが分かる。しかし江戸時代中期以降、慢性的な財政危機に陥っていた南部家には、幕府の許可が得られたとしても、石垣積み直しなど全面修理を行う余裕がなかった。

 それまでは江戸から石垣職人を呼んでおこなっていた石垣修理の方法も見直され、長三郎(車力)という御用庭師を江戸の石垣師のもとに数年間派遣、技術を習得させたうえで自家修理できるようにしている。

 長三郎とその子孫たちは、庭師を生業として働きながら、必要が生じれば石垣修理を請け負い、最初のうちは高石垣も積み直していた。しかし蝦夷地警衛や領内海岸警備などで財政がさらに窮すると、石垣本体の「はらみ」を押さえ、石垣を補強する暫定工法に頼ることが多くなった。

 そこで生まれたのが「はばき石垣」工法である。

二ノ丸東側石垣に足された「はばき石垣」(2か所)
後方の本石垣は慶長期の野面乱積み。寛延元(1748)年の修復普請

 

 盛岡言葉で「はばき」と言うと、家屋外壁を積雪から保護するため、壁の下方に取り付けた横木のことをいう。建築用語の「幅木」(巾木)である。

 もう30年近く前のことになるが、南部家関係の古記録に「御天守下の鎺石」という表現を見つけたが、その意味が分からず、たいへん苦労したことがある。「鎺」は、「はばき」と読み、刀剣用語であることが分かったが、どういう形状の石なのか、まったく理解できなかった。

 そんなある日のこと、例の長三郎とその子孫の家に関する資料をみていたところ、石垣修復の図面に、石垣本体に取り付けた横長の補強石垣の説明に「はゝきいし」と書いてあることに気がついた。

 そうか。これが鎺石なのか!つい最近のことのように思い出す。その後、盛岡市教育委員会の報告書にもこの名称・呼称が採り入れられるようになり、各地の城址を調査・研究される方々も、石垣下部の「孕み止め補強石垣」のことを「はばき石垣」と呼ぶようになった。

本丸下段腰曲輪西南隅櫓台下の「はばき石垣」(後補:平成の石垣修理)
発掘調査の結果、軟弱な地盤を補強するため築城当初に築かれたものと判明

 

 

さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

 

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国立公文書館デジタルアーカイブ(https://www.digital.archives.go.jp/)では、盛岡城を描いた「奥州之内南部領盛岡平城絵図」(諸国城郭絵図/正保城絵図)を高精細画像で閲覧することができます。

ぜひアクセスして、江戸時代初期の石垣や土塁、堀の様子を見てください。
URL: https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000000286