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2011年早春、東北を中心とした太平洋側の各地を未曾有の大地震と津波が襲った。世に言う『東日本大震災』である。仙台市出身の作家・穂高明氏による『青と白と』は、作者と同じ宮城県仙台市出身の駆け出しの作家・戸田悠とその周辺の人々の葛藤と再生を、緊張感と優しさを持って描いた小説である。2016年2月、震災から約5年後に中央公論新社より刊行され、2019年2月に同社より文庫が発売された。作者の穂高明氏は2007年、第二回ポプラ社小説大賞において、新しい家族の形を問うた『月のうた』で優秀作を受賞しデビュー。以来『かなりや』(ポプラ社)、『夜明けのカノープス』(実業之日本社)などを発表。傷つきやすい心優しい人々を滋味深い筆致で描いた小説を次々と発表し、着実にファンを増やしている。

 

「頑張る貧困女子」という現実

今回中央公論新社から文庫として発売された、東日本大震災に見舞われた家族を描く『青と白と』。作者の穂高明氏へのインタビューに際し、実は幾つもの質問をあらかじめ考えてきた。だがその質問や組み立ては、ことごとく役に立たなかった。『青と白と』という本に書かれた深い思いと世界を前に、あらかじめ組み立ててきた質問や進め方が無力に思えた。描かれた作品世界と現実が、こちらの思惑を完全に凌駕しているのだ。

──インタビュー前編でもお聞かせいただきましたが、主人公の駆け出しの作家・戸田悠は『安心する』ことがない人物に見えます。仙台から上京し仕事を辞め、一人バイト暮らしをしながら小説を書いています。自分に関しても外側からの目線に対しても、絶えずこれでいいんだろうかと敏感過ぎるほどです。

穂高氏「それはやはり彼女が非正規の職に就いていることが大きく影響しているのだと思います。文庫の帯に『将来の不安』とありますが、その要因は貧困。実は、帯コピーとして『貧困』も提案したのですが、心優しい編集者が『将来の不安』とソフトな感じに変更してくれました(笑)。主人公の戸田悠は、今でいう貧困女子なんですね。生活に余裕がなくて、精神的にも常にギリギリ。この作品を書いていた時もそうですが、小説家としてデビューしてからの私が、そんな状況でした。今は結婚したので楽な暮らしではないものの、とりあえず雨風をしのぐ『住』と最低限の『食』はありますが、当時は本当にその日暮らしというか、もう人生のどん底でした」

──作中に地震があった日も、公共施設の受付バイトに行かないと家賃が払えない、という描写がありますが。

穂高氏「本当に、そんな感じです。3作目の『これからの誕生日』を書いている時に大学の研究室を辞めて、少し後悔しつつも、どうやって暮らしていこうかという状態でした。多分この震災時が苦しさのピーク。貯金を切り崩しながらアルバイト代で何とか暮らしていたのですが、『あと半年くらいは何とかなるけど、今倒れたら確実に破綻するな』と思いながら暮らしていました。

『衣食足りて礼節を知る』という言葉がありますが、非常に的確だと思います。そういう生活をしていると、人に対して優しくなれないんですよ。人からは厳しくあたられて、余裕がないから人に対して自分もそうしてしまう。アルバイト先では学生アルバイトよりも下の扱いでしたし、理不尽な事もたくさんありました。でも毎月の家賃を払うために我慢しなければならない。

こういう声に出せない、ギリギリの生活をしている人は、ものすごく多いと思います。ただ恥ずかしくて言えないんです。貧乏自慢のテレビ番組などに出演する人もいますが、本当に日々の生活に困っていたら出られないですよ。そんなの恥ずかしくて無理です。

病気になっても医療費は高いから、なかなか病院にも行けない。自分は体調の悪さを我慢したあげく、結局救急車で搬送されたこともありました」

──回復されて本当に良かったです。困った人が公共機関に助けを求めようにも、そのハードルが高いという問題があります。非正規とは言え仕事をしていると窓口が開いている時間に行けなかったり、全くの無職でもないので相談しにくかったり。

穂高氏「自治体によって違うのでしょうが、なかなか窓口に行けないというか、恥ずかしいし稼げない自分が悪いし、そもそも助けを求めるという発想がありませんでした。なので原稿を書きながら、日雇いのアルバイトもたくさんやりました。化粧品のシール貼りや、車のカレンダーを筒状に丸めてビニールに入れる作業で、手が紙で切れて傷だらけになりました。パン工場や、FAX機器の半田付けも。半田付けは部品組立の最後の工程で、何時間も立ちっぱなしで辛かったのですが、現場責任者の方に『あんた作業早いし上手だね』って褒められました(笑) 。

『私はなぜこんな状況にいるんだろう。でも、この経験を決して無駄にしないで、いつか書いてやる』と思いながら、辛くて惨めな気持ちをごまかしていました。苦しい生活であっても小説は書きたいし、自分の本が書店に並んでいるのは、何事にも代えられない喜びでしたから。働いて小説を書く。苦しいけれど、そんな一人暮らしが続くのだと思っていた矢先、あの震災が起こりました」

 

郡山市・田中様お写真提供

姉妹、母、祖母、受け継がれるもの

──印象的なシーンの一つに、5人の犠牲者を出した悠の一族の、親戚中が集まった新盆の集いの場面があります。東京でアルバイト暮らしの悠は休みが取れず帰省できません。地元で働く妹の夏子が気丈に振る舞いますが、長女の不在を親戚の女性に毒づかれてしまいます。その際最年長のお婆ちゃんが『仕方ねえべよ』と一言、助け舟を出してくれます。ともかくそれで収まってしまうのが、昔ながらの年長者の仕切りなのだなと感じました。

穂高氏「本当にお年寄りの一言ってすごいなって思いました。作中にも書きましたが『仕方ねえべよ』と言いながら、そうやって色々ままならないことを飲みこんで生きてきたんでしょうね。だからまた、その『仕方ない』は色んなことを全部含めてのものなので、幅がものすごく広いんですよね。

『お年寄りは敬わなくてはならない』というのは本当だと実感しながら、果たして自分が年を取った時に、そういう何かを下の世代に受け継いで渡すことが出来るだろうかと考えてしまいました」

──全ての年代の方が甚大な被害を受けた震災ですが、特に大きな精神的被害を受けたのは、そうしたお年寄り世代ではないかと感じました。幼馴染や茶飲み友達、親類縁者や子供たち夫婦に囲まれたご本人の生活拠点としての、昔ながらのコミュニティーが失われてしまったのに、そこから生活を建て直さなくてはならなくなってしまった。でも生活と共に心も建て直してゆけるかというと、お年寄りにとっては難しいものがあると思います。悠の母親はまだ若い方ですが、それでも立ち止まり、ついつい過去の記憶の中にさまよってしまいます。ましてさらにお年を召した、そうしたいわけではないのに立ち止まらざるを得ない方だったとしたら……

穂高氏「本当に難しいですよね。色んな段階・状況の方がいらっしゃいますし、そういう方はなかなか声を出されないですし。決してひとくくりにはできないということを念頭に置かないと、心ならずも一方的に傷つけてしまったりしかねません。当事者以外であっても、多くの方面でそういう考えが必要なのだと思います」

郡山市・田中様お写真提供『小名浜のショッピングモール』

東北人であるということ

穂高氏「大学は東京の学校へ行くと決めて、十代の終わりに上京しました。若い頃は、仙台にとどまるより東京へ行ったほうが楽しい事もあるだろうという考えも、もちろんありましたし。でも震災がきっかけというのではありませんが、だんだん年を重ねるごとに、自分はやはり仙台人、東北人なのだという思いが強くなっています。小説家としてデビューして本を出して、編集者と都心のお店で食事をしたり、たまに取材を受けたりもしますが、いくら東京人のふりをしても、所詮根っこは東北人なんですよ。若い頃は『せっかく仙台から東京に来たのだから、一旗挙げなければ』というギラギラした気持ちがありましたが、だんだん若さが失われて人間も丸くなってくると、認めてくるんですよ。『ああ、私は仙台人だから、しょうがないじゃないの』みたいな感じに」

──日常生活やふとした拍子に、もう認めざるを得なくなってくるんですよね。

穂高氏「別に生まれや出身が全て云々という話ではなくて、そこで生まれて育ったのだから結局はどうしようもないんですよね(笑)。『ああ何だ、やっぱり私は仙台人じゃないか』と気付いたことが多々あって、それを書いていきたいなという気持ちはすごくあります」

──東北新幹線に乗って東京駅を出ると、周りの人たちがみんな途端に方言で話し始めるのに安心するような感じですね。

穂高氏「そうです。隠してもしょうがないですし、声高にアピールすることでもないのですが、小説を書いていて、指の間からこぼれ落ちるものを必死になってすくい上げている最中に、『自分は東北で生まれ育った東北人だ』という根っこを感じることがあります。そして、その根っこに助けられていることを年々自覚するようになりました。

私は仙台市の中心部で生まれました。仙台駅のすぐ近くで、向こうでいえば都会のど真ん中なんですよ。その後、幼稚園に上がる少し前に海に近い郊外の街へ引っ越したんですけど、そこのお手洗いが汲み取り式で、子供ながらとてもびっくりしたんです。その時『えっ! お水が流れないトイレなの!? 』って思ったことを今でもはっきり覚えているんですね。いくら東京で小説家として格好つけて、背伸びしながら暮らしていようとも、『所詮お前は田舎者なんだ、汲み取り式のトイレで生活していた人間なんだ』とネガティブではない自戒がだんだんできるようになったんです。そうした原体験を認めていくというのが、年齢を重ねていくということなのかなと最近思うようになりました」

──時と共にそれを認めるだけの余裕が出てきたということでしょうか。

穂高氏「そうですね。俯瞰できるようになったというか。東北の仙台で生まれた東北人で、東京で暮らしていて、よりどころとなる仙台という故郷があるというのは幸せなことです。

でも以前は全然そんなふうに思えず、コンプレックスだらけでしたよ。学生の頃は周りが東京や神奈川など首都圏の人ばかりでしたし、どこへ行っても『あなたは東北出身だから』と言われてしまい、それがすごくコンプレックスだったんですよね」

石巻市・横山智章様お写真提供『石巻川開き祭り』

──年を経て余裕というか、切り替えられる視点を得られてきたのは大きいですよね。

穂高氏「大きいです。今回、故郷を離れて暮らす人物を書きましたが、改めて『故郷がある』というのは大きいと感じました。東京だけでなく、日本全国いろんなところで暮らしている東北出身者で、震災の時に、居てもたっても居られなかった人、津波の映像など見るとどうしようもなく心の中で叫んでいた人は、すごくたくさんいたと思うんですよ。でも自分が直接被害に遭ったわけではないと思うと、声は上げられないんですよね。どうしようもなさだけは重く残ったままなのに」

──それはありますね。色々考えると声を上げられなくなってしまう。さっきのお婆ちゃんの『仕方ねえべよ』ではないですが、そういう気質が東日本の人たちは特に強かったのかなと思います。思いを巡らせすぎて、今この中で自分が声を上げるのは良くないと結論を出してしまう。

穂高氏「東北人は遠慮し過ぎと言うか、変に考え過ぎ、我慢し過ぎだと言われることはありますね。『自分よりもっと苦労している人はたくさんいるから、自分の苦労は大したことない』など、一歩前に出られないというところはあるように感じます」

──一歩出る前にまわりを見過ぎてしまうんですよね。

穂高氏「東北人が『もうそろそろ私も前に出て意見を言っていいよね』と踏み出した時には、もう物事が終わっているなど、よくあるパターンではないでしょうか(笑)。もちろん東北人だから、関西人だから、と簡単にひとくくりにするべきではありませんが、そういう傾向は多少あるのかなと思います」

──今年は震災から8年目。10年目はオリンピックの次の年です。現地の復興もまだまだなのに、首都圏の大規模な工事で、必要な人も資材も足りない状況だとうかがっています。

穂高氏「まだ壊れたままの家にそのまま住んでいる方もいらっしゃるし、全然それどころじゃないのでは、というのが個人的な本音ですけどね。でもそれを言うと、また『あんたは東北人だから』と言われてしまいますし。ああ、ここにも深い溝があるなと思ってしまいます」

──これで消費が活性化され、観光事業が潤って税金がたくさん入ってくるといいですね、と言いたいところですが。

穂高氏「もう決まってしまったことですから。でももちろん一方では、素直にオリンピックを楽しみにしていらっしゃる人が多いというのも理解できます。まあ、いろんな人がいるから、小説もいろんな風に読まれるのだと自分の中で結論付けているんですけどね」

『震災後』の表現者

震災の後、多くの作家、音楽家、俳優などの表現者が、本作の主人公のように『自分に何が出来るか』を模索し続けた。穂高明氏も、直接の震災当事者でも非当事者でもない表現者として、どうすべきか悩んできた。

 

穂高氏「自分は物書きですから『書きたい』という気持ちはもちろんありますが、『直接津波も見ず家も流されず、東京で揺られていただけの自分なんかが書いていいのか ? 』 という気持ちをずっと抱きつつ、迷いながら書いていたわけです。その『迷っている』という事を書いたんですね。

書いてよかったのか、書くべきでなかったのではないか、という迷いは正直全然変わらず今もあります。

でもこれを書かないと、次が書けなくなりそうでした。書かないで済ませられればそれでもよかったのかもしれませんが、どうにか自分の中で納得させようとしても無理なような気がして」

──そこに引っかかったままになっていたかもしれないですね。

穂高氏「そうですね。でもいざ書くと決めた時に、今までのような小説の書き方が出来ませんでした。普段は小説を書く時にエクセルを最大限活用します。プロットをエクセルで作り、人物の相関図やら登場するアイテムやらを無駄な表やグラフにして(笑)、全部作りこんでから原稿を書くのですが、今回はそれが出来なかったんです。自分でも愕然とするほど、いつもの手法が通じませんでした」

 

『青と白と』というタイトル

──タイトルは早い段階で決まったのですか?

穂高氏「『青』と『白』を入れるというのは、自分の中で最初から決まっていました。なぜかというと、震災の一か月後に仙台に帰ったのですが、その時に見た若林区の光景に絶句したからです。

四月の田植え直前、本来ならば代掻きの前で、水を張る前の田んぼには何もないはずなのに、流されてきた建材や車、農機具、生活用品など色んなものがありました。あちこち道路はひび割れて電柱が倒れており、視界の全てが、ありえない泥の世界でした。本当に色のない世界で……。

でも深沼の浜まで行くと、ふと目に入ったその先の海が、本当に鮮烈な青い水と白い波頭の色なのです。その光景に胸がいっぱいになってしまい、自分が今目にしているこの青と白を絶対に書かなければいけない、タイトルにも入れなければ、と。

でもそこからいろんな案を出しても全部却下されて、それでも青と白以外はないと思い続けていました。ではそのままシンプルに『青と白』でいきましょうか、と言われたのですが、『いやそれも違うんだけどな』と悩み続けました。

『青と白と』の『と』が頭に浮かんだ時は、自分でも『これだ!』 と思い、すぐ編集者に連絡しました。この小説は『青と白』じゃなく『青と白と』なんです」

──『青と白』で止めてはいけないんですね。

穂高氏「そうなんです。止めてはいけない。『青と白』の事を書きたいのではなく、『青と白と、色んなもの』を書いたので『と』は重要でした。

その『と』を思いついた時は、飛び上がったというか立ち上がって、『わあ、よかった! ようやく着地した ! 』と興奮してしまいました。

普段は先にタイトルありきなので、こんなにタイトルで悩んだのは初めてですね。根気よくダメ出しをしてくれた編集者には感謝しています。編集者はそれこそ最初の読者ですから、作者の独りよがりになってしまうところを冷静に判断してくれる人がいないと、作品は世に出せないんです」

──世に出れば全く未知の方が読むわけですから。そこで最初の方に仰っていた、作品は大衆に向けて書くものだということにも繋がっていくのですね。

穂高氏「そうなんです。議論の最中は『え? どうして ? 』と思うこともあるのですが、やはり編集者の意見は素直に聞いた方が後々よかったなと思う事が多いです。どんな仕事でもそうだと思いますが、やはり人の意見を聞くことは大切ですね」

 

読者と共有したいもの

──穂高先生が、これは読者と共有したいというものはなんですか?

穂高氏「先程もお話したように、非正規の仕事で生活が苦しくて、本当は困っているのに『貧困女子』と四文字熟語まで作られてすごく恥ずかしい、声を上げたいけど上げられないというような人はたくさんいると思うんですよ。

貧困でなくても、仕事や人間関係など、いろんなことがあまりうまくいってないとか、『どうしよう、この先どうやって生きていくのかな』というような不安とか。

そういうものを抱えている方が自分の小説を読んで、『ああ、私と同じような人がいる』と思ってくだされば嬉しいです。震災も貧困も孤独も、実は誰にでも起こりうることですから。

書き手と読者で何かを共有したいというより、何かひとつでも取っかかりや引っかかりを持っていただきたいんですね。

作品を気に入ってくださったり、共感してくださったりするのはもちろん嬉しいですが、『あれ?これ違うんじゃない?』とか『私の考えは違うな』とか、『この作者はこう書いているけど、それとは違うこんな立場もあるよ』とか、何かを考えるきっかけにして欲しい。

共感、反感、疑問、何でもいいのですが、単に『ああ面白かった』だけじゃなくて、何かを胸に感じて考えるきっかけにしていただければ、書いた意味があるのではないかと思います」

──この『青と白と』という作品を書こうと決心し、実際に書かれた勇気がすばらしいと思います。また世に出された出版社も『ここから何かを』という気概が溢れていますよね。

穂高氏「今の自分だったら書けないと思います。当時は全く余裕がなく無我夢中で、本当に何もできずどうしようもなかったんですね。アルバイトをしながら小説を書いている貧乏な暮らしだから、ただでさえ少ない印税を義捐金として寄付するということも出来ないし。本当に何をすればいいんだろうと思っていました。書くしかないのですが、『書いたところで何になる ? 』とすら思っていました。今『書いて』と言われても多分書けないかもしれません」

──今だったらまた違う形になるかもしれませんね。

穂高氏「違ってきますね。やはり時間の経過は大きいと思うんですよ」

──単行本刊行時でも5年経過しており『直後』というわけではないのですが、やはりそうですか。

穂高氏「『直後』は無理でしたね。というか思いは変わらず、ずっと書きたい、書かなきゃいけないと考えていたのですが、小説として三人の登場人物を設定して、一歩引いたところから見つめて形を整えるまで、自分の中では時間がかかりました」

──その時に急いで書かれたとしても、納得のいくものになるとは限りませんし、表現やその他いろいろ後悔なさったかもしれませんね。

穂高氏「本当にこの震災を小説にしていいのか、どうしたらいいのかと書きながら迷ったし、正直書き終えた後でも未だに迷っている部分があります。でも出身地の若林区は区全体の6割の地域が津波の浸水被害に遭っていて、『それでもお前は何も書かないのか、物書きのくせに』という思いはずっとありました。

それを小説というフィクションの形にするために、時間が必要でした。『この揺れる感情を、どうしよう』と思っている時間がすごく長かったんですよね」

 

言葉の力、匿名の力、ネットの力

震災の起こった3月11日はちょうど卒業式シーズン。式の練習中、学校で揺れを感じたという生徒や先生も多かったという。春先の穏やかな午後のひと時を破壊した震災は、大人や子供、生徒や教師、あらゆる人々の上に襲いかかった。またそれは、言葉の持つ『負の力』も同様に示されることとなった。

──小説の中で、我が子を亡くした友人が心凍るような言葉を投げかけられ、悲しみを誰にも言えず、東京から来た悠に吐露するシーンがありましたね。

穂高氏「言葉の仕事をしている身ですから、やはり言葉で慰めたい気持ちはあったのですが、本当に何にも言えないんですよ。『なんでそんな風に残酷なことを言えるんだろう』っていう疑問しか起こらなくて。

言葉のプロ中のプロ、それこそラジオのアナウンサーやパーソナリティーの方々とも話をしたんですけれど、本当に言葉って怖いなって。暴力的な面もあるし、一方で励まされるような面もあるし。諸刃の剣だということを再確認しました」

──今は発した言葉が残る時代です。インターネットに書き込んだりしたら、削除しても画像として保存され、拡散されて取り返しがつかなくなることもあります。また匿名制を利用して『なりすまし』で発信することも容易です。不用意に言葉を発することの悪い点が、震災から8年間の間に増している気がします。自分流の正義のため、皆のために言うのだからいいでしょう、皆もそう思うでしょう、というような考え方です。悪意を持って文章の一部分だけを切り取ったり、わざと誤読して拡散したりというのが可能になって、むしろその方がものすごい勢いで広まるケースも多いですよね。本当に言葉を発することの怖さは大きくなるばかりです。

穂高氏「拡散のされ方、スピード、その範囲も今までとは全く違います。想像がつかないし、言葉の仕事をしていて怖いという思いは、いつも心の中にあります。やはり一つ一つ責任というか、自覚を持ってやっていくしかないのかなと感じています。常に『恐ろしいものだ』という思い、『注意すべきものを扱っているのだ』という意識を持ってやらないと駄目だというのは、本当に強く感じます」

──『そんなつもりじゃなかった』というのは通用しませんからね。

穂高氏「後から出た言い訳は元の発言ほど拡散されないですから。でも自分達はそういう世界で、ものを書き続ける、というのが現状ですよね。誠意を持って取り組んでいくしかないです』

昨年から体調を崩しがちだったという穂高明先生。徐々に回復され、今は次回作を執筆中とのこと。取材や打ち合わせに忙しい日々を過ごされているようだ。今まで発表された作品数は多くはないが、新作を待ち望むファンは多い。そのことを告げると「ありがたいことです」と嬉しそうに微笑んだ。

最後に『青と白と』と共に写真を撮った際に、ターコイスブルーの美しいマニキュアの左手薬指に、マリッジリングが光っていた。

未曾有の震災、激しく揺れ動く自分自身、人々の心無い言葉や行動、立場も年齢も違う幾人もの『震災被害者』や奔走する人々。影響は大きく根は深い。根気よく時間をかけて解決していかなければならない問題が山積しているが、同時に『時間がない』事柄も多いのが現状だ。災禍はいつでも、どこでも起こりうる。その過程にあって作家は、表現者は何が出来るのか、何をすべきなのか。それはこの地に暮らす人々共通の課題でもある。

心優しい作家・穂高明氏はこれからも悩み心を絞りつつ、人々に寄り添う物語を紡いでいく事だろう。

お忙しいところおつきあいありがとうございました。

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石巻市・横山智章様お写真提供『初日の出』

 

穂高明

1975年宮城県仙台市生まれ。2007年「月のうた」で第二回ポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。同作でデビュー。「かなりや」(ポプラ社)、「これからの誕生日」「むすびや」(双葉社)、「夜明けのカノープス」(実業之日本社)など。自然科学、生命倫理の知識を生かした作品作りに定評がある。天文学の造詣も深く『星空案内人®』の資格も持つ。