2011年早春、東北を中心とした太平洋側の各地を未曾有の大地震と津波が襲った。世に言う『東日本大震災』である。仙台市出身の作家・穂高明氏による『青と白と』は、作者と同じ宮城県仙台市出身の駆け出しの作家・戸田悠とその周辺の人々の葛藤と再生を、緊張感と優しさを持って描いた小説である。2016年2月、震災から約5年後に中央公論新社より刊行され、2019年2月に同社より文庫が発売された。作者の穂高明氏は2007年、第二回ポプラ社小説大賞において、新しい家族の形を問うた『月のうた』で優秀作を受賞しデビュー。以来『かなりや』(ポプラ社)、『夜明けのカノープス』(実業之日本社)などを発表。傷つきやすい心優しい人々を滋味深い筆致で描いた小説を次々と発表し、着実にファンを増やしている。

 

待ちあわせの喫茶店に現れた穂高明さんは、さらりと長い真っ直ぐな髪の美しい女性。ヤフー知恵袋で男性と紹介されていると知ると、明るい笑顔を浮かべた。

穂高氏「性別不詳のペンネームだからでしょうか。東北のラジオに出演したり、写真入りのインタビュー記事もあったりするんですけどね」

インタビューの場に、2011年冬にご自身で撮影された写真をご持参いただいた。

穂高氏「本作に出てくる海岸の写真です。2011年12月31日に撮った仙台市若林区の深沼海水浴場の防砂林の松林や、近くの田んぼ、そして閖上の海です。全てこの小説に出てくる場所です。こちらは大沼という白鳥が飛来する農業用の人工沼です。ちょうど白鳥が飛び立つところですね」

ガラケーで撮ったものなので画像が粗いですが、とテーブルに置かれた写真はどれも生々しい。そこには冬の青い海と幾重にも重なる白い波頭、そして軽やかに飛び立つ白鳥の姿が写っていた。冬の海と、津波で「そこにあるべきもの」が消えてしまった赤茶色の光景は厳かだ。それら震災とそれに続く日々を描いた小説『青と白と』の誕生、またその後も厳しいものだった。

穂高氏「単行本刊行時には厳しいご意見もたくさんあったと思います。『直接津波を体験していないのに震災について書くの?』『東京にいるくせに』など、耳に入ったもの、入らなかったもの、入らないように担当の編集者が配慮してくれたであろうもの、いろいろありました。書店まわりをした時も、あまり好意的ではなかったように感じたこともありました。刊行時で震災から5年経っていたのですが、やはり受け止め方、感じ方、時間の流れ方は人それぞれ違うのだという事を痛感しました」

──自分は山形県で育ちましたが、首都圏との交流、物流は太平洋側が圧倒的に優れ、経済力の差を感じていました。その太平洋側が被災をした時、山形県が一番最寄りの空港保有県になりましたが、県外に通じる他の交通網の限界で、役立ちたいけど充分にお役に立てないというもどかしさがありました。また気候も違いますし、穏やかな太平洋側や福島の方々が避難して来られた時、寒さも厳しく一層お気の毒だなと感じました。県の予算も人員も、インフラも受け入れ先も限りがあるし、けして充分ではなく、本作の主人公と同様私達に何が出来るんだろうと考えてしまいました。

本小説『青と白と』が文庫化されるにあたり、インターネットでの宣伝や、店舗への作者の手書き色紙送付以外、目立つプロモーションはされなかったが、作者の穂高氏は積極的にツイッターでの呟きを活用した。ファンの呟きを読み、返事をし拡散した。出版元もまたツイッターでの宣伝に励んだ。現在ではプロモーションの一環として一般的な手法で、読者の感想や様々な意見が直接伝わりやすい。

──読みたい、読まなければとずっと思っているのに読めないでいる、というお声もありましたね。

穂高氏「いろんな方がいらっしゃいます。震災後すぐに帰れず、ご家族からの『たいしたことないから』との言葉に何カ月か経って帰ったら、実はかなりの被害が出ていたという方も。そのことを思い出すと自分を責めて辛い。どうしても手に取れないという声もありました」

──まず手に取ってもらうのが大事ですから、そういった感情を美しいカバーイラストが和らげているのかなと思いました。

穂高氏「今回はイラストレーターさんにお任せしました。結果、上がって来たラフ画の時点で、もうOKで満足しました」

──言い方が適当か分かりませんが、大きな出来事を素材にした肌身に刺さるような小説ですから、手に取る前に送り手の強い思いが伝わってきます。なので読む側にとっても覚悟というか、作品に相対できるだけの力が必用なのかなと思います。だからこそ読み通した方は、強い思いを持ってくださったのではないかと思います。

 

何をどう書くか

──主人公の作家・戸田悠こと宮川悠子は東京で暮らしていて地震にあいます。その彼女の変化と震災そのもの、状況の変化も臨場感を持って書かれています。私は文庫本のカバーや帯を見て、震災という『起こった事』を受け止めざるを得なかった、世代や立場の違う、離れた家族の女性三人がどう変わっていったのかが、真っ先に思い浮かびました。

穂高氏「悠は私自身をかなり投影しています。東京にいる時に地震を体験し、震度5の『東京の揺れ』は感じましたが、実際の津波は直接見ていませんし、亡くなった親戚や友人はいましたが、家族は無事でした。そんな状況下で、どういう立場で私自身が震災について向き合えばいいのか、わからなかったんです。

仙台市若林区出身で、進学で上京して以来ずっと東京で暮らしていますが、東京の人かというとけしてそうではない。『では仙台の人ですか?』と問われると、今はもう住んでいない。自分の立ち位置をどこに置いたらいいのか定まらず、揺れていました。『当事者ですか?』というと当事者でもないけれど、家族は被災して親戚や友達も亡くなり、完全な非当事者ともいえない。なので震災の事を書きましょうと企画が出た時も、自分がどこに立っているのかわからなかったんです。

色々な意味で立ち位置がわからず、故郷では甚大な被害が出ているのに、なぜ自分は東京で普通に暮らしているんだろうという無力感に苛まれました。

それを正直に編集者に打ち明けたら、その気持ちを全部書けばいいんじゃないかと言われてハッとしました。抱いているもやもやした気持ちや無力感、やるせなさや自分を許せない気持ちなど、そのまま書いてしまおうと決心したんです。

普段作品を書く時には、書き手としての自分の感情を生でお見せすることはありません。例えれば、畑に育ったゴボウを引っこ抜いてそのままお客様にお出しすることはなく、ちゃんと調理して、きんぴらごぼうという料理にしてからお出ししますよね。ゴボウのままでは小説になりませんが、きんぴらごぼうという料理、それこそ皮についた泥を洗ったり、あく抜きをしたりなど、それらの過程を経て、書き手が見聞きしたことや体験した事、感じたものなどをフィクションとして落とし込むことで、初めて読者の方へ提供できる小説という形になります。今回はそこまで作り込まず、せいぜいゴボウを洗ってパックに詰めたくらいでお出ししたという感覚でした。もちろんフィクションではあるんですが。それが今までの作品とはまったく違う点です。

自分のもやもやしたものをさらけ出せるまでに時間がかかりましたし、内面をそのまま、自分を知らない人にさらけ出していいのか、それは一種の暴力ではないのかとも考えてしまいました。えーと、自分の揺れている内面をきんぴらごぼうに仕立て上げることで、精神を保っていたというのもあるんですが、ゴボウときんぴらごぼう、わかりにくい例え話ですよね?(笑)」

──そんなことはありません。『客観視して作り込むこと』で自分を整理するという心理は、とてもよく分かります。

穂高氏「そんな風に『書きます』とお返事したものの、葛藤しながらの執筆でした。自分の揺れているむき出しの感情は、人に隠しておきたいじゃないですか。でもそれを小説にしていいのか、本にしていいのかと。第一章はそんな風に悩みながらも、思っていたより早く書き上がりました。

ただ第一章を提出した後に、自分でも小説になっているか確信がなく、手記や体験記になっていないか不安になったので、『小説になっていなかったら言ってください。書き直します』と編集者に言いました。幸い『ちゃんと小説になっていますよ』と言われたので、第一章を書いた後、東京の自分はこうだけれど仙台にいる人の立場も書かないと、と続きを書き進めました。それが悠の母と妹の話です」

──精神的にも色々な物を抱えながら執筆されたのですね。一方では震災が起こった後に、たくさんのルポルタージュものが出ました。中には非常に付け焼刃的なものもありましたが。

穂高氏「ありましたね。読んでいると、申し訳ないですが書いた方の立ち位置が分かってしまうようなものも見受けられました」

──当時思ったのは『なぜ自ら発信する方の中には、こんなにも非科学的な論説を流布する方がいるのか』ということでした。作品中に、人を人たらしめるのもの、様々なケースで正しい判断が出来るようにするのは教養である、と言う文章が出てきますね。震災後に飛び交う様々な言葉を見聞きしながら、常識だと思っていたものが崩壊していくというのは、思ったよりも早いのだと感じました。しかも自分たちが思っているより大層もろい。そのもろくなっている時に『こうじゃないの?』という憶測から簡単に疑問形が抜け、『こうだ』と断定に転じてしまう。それが押し寄せる怪情報の怖さだと感じました。先生は当時ツイッターなどのSNSをやっていらっしゃいましたか?

穂高氏「ツイッターは、これを最後まで書き終えた後、単行本刊行時に始めました。普段も最低限しか見ないのですが、やはりおかしな主張とか、明らかに非科学的なこととか、目や耳に入ってくるじゃないですか。作品を書きながら『この人たち何をわかって主張しているんだろう』と疑問に思っていました。でも自分も外から見れば『この人何をわかって書いているんだろう』と思われるかもしれないという恐怖はありました。自分もそういう人たちと同じ流れとしてとらえられてしまうのではないか、という不安です」

──発売当初にいただいたという厳しいご意見が、ある意味現実になってしまうわけですが、その厳しい事を言う方々からみたら、自分達と思いがずれている外の人間が来ていると思われているかもしれない。そのこと自体ものすごく恐ろしいですね。

穂高氏「そうですよ。でも仙台を出て以来、もう東京で暮らしているというのは事実ですから仕方がありません。そう生きていくと決めたのも自分ですから。『でもあなたは外の人でしょう、あなたもそうやって震災をネタにして小説を書いているんでしょう』と思われるのでは、と不安になりましたが、何を書いても何をやっても批判する方はいらっしゃいます。なかなか原稿が書けず、心配して度々電話をくれた編集者に、そういう怖さがあると言ったら『自分が思ったように書くことが一番です』と何度も言われました」

 

母、娘、妹、・それぞれの立ち位置

──一読して、主人公の悠はとても自罰的という印象を抱きました。全てを自分のこととして正面から受け止めてしまい、流せないというか。

穂高氏「私自身も周りからそう指摘されるのですが、どうしても聞き流せないんですよ。人から言われたことの意味を考えてしまうんです。言っている意味の裏の裏まで。裏の裏は表だと思うんですが(笑)。相手はそこまで考えていないとわかっていても、そういう性分なんですよね」

──何も考えないで出てきた言葉が一番残酷、ということもありますし。

穂高氏「そう。何も考えず正直に出てきた言葉は時に残酷です。それは本作でも、主人公に浴びせられる、共感性のない人の言葉として出てきます。

東北にゆかりがない人、例えば東京生まれ東京在住の人や、東北以外の出身で一人暮らしをしている学生さんやОLさんであっても、震災当時のそんな言葉の暴力性や、日々の不安感は共有できると思うのです。東京も計画停電が実施されたり、街灯が消えたり、不穏な空気が流れていましたが、そういう時に不安だった人は、これを読んだ時に自分もそうだったとか、ちょっとそういうふうに思ってくれるかな、と思います。

批判もされるかもしれないけれど共感してくれる人もいるだろう。何よりも私は書くと決めたのだから、人からどう思われるか気にするべきではないのだと、書きながら途中で思い直し、そこからはバーッと進みました。そのきっかけは思い出せないのですが、主人公が立ち位置やら色々と揺れている話だから、書き手が絶対ぶれてはいけないと何かの拍子に気付いたんですね。気付くまでが長かったですのですが、そこからは迷いなく一気に書き進められました」

小説『青と白と』では家族の記憶を繋ぐ重要な人物として、主人公の悠と母の都にそれぞれ深い思いをもって追想される、津波の犠牲になった『由美子おばちゃん』が登場する。実際は母と年の離れた又従妹、3歳で養女になった由美子おばは快活で優しい性格で、衝突しがちな悠と母の心を照らすが、津波で命を落としてしまう。

──由美子おばさんが登場した辺りからすごく筆が滑らかになられた気がしました。彼女は主人公の悠が幼い時から、そのままでいいんだよと受け入れてくれ、言葉をかけてくれます。夢中になると他のことが目に入らないなど、他の子と違う点が母親との葛藤の種になりがちな主人公を言葉に出して認めてくれた思い出は、この先も作家・戸田悠が東京で暮らしていくのに、とても大きな支えになるのだろうと思いました。同時に主人公の母親にとっても、明るく無条件に慕ってくれる妹分の由美子さんの存在は大きかったのだなと感じました。

穂高氏「由美子おばさんが出てくるところは、こんな言い方は適当ではないかもしれませんが、特に小説らしいと思います。幼少時代、桃を勝手に食べて叱られるエピソードが福島産の桃の話に繋がる辺りも『ああ私、こういうことを書きたかったんだ』と思いました。

震災を書くと言っても、震災そのものや震災の辛さ云々以上に、こういう市井の人たちの話、家族の話を書きたかったのだと、自分でも頷きながら書いていました。ですから震災を扱っている小説ではあるものの、そういう事態に遭遇した時のある東北の家族、特に女性に焦点を当てた、過去と現在、そして未来を考える『家族小説』のつもりで書きました。震災の話だからと敬遠されてしまう方にこそ、むしろ読んでいただきたい、これは家族の物語なんです」

 

人間を書くこと

作者の穂高明さんは、仙台の高校からお茶の水女子大学理学部、早稲田大学大学院修士課程を修了した生粋の理系、今でいう『リケジョ』である。そうした穂高さんならではの、ユニークな人間のとらえ方があるようだ。

穂高氏「私は学生時代、生物学を専攻していて、研究者になるつもりで進路を選んできました。何かを考える際の手法というか、自分のコア・核のようなものは、やはり自然科学なんですね。大学や研究機関に身を置いていた時期は、特にそれが顕著でした。『青と白と』の主人公には、ほぼ自分を投影させています。実際『かなりや』という作品を書いていた時は、まだ医学部の研究室に在籍していました。

生き方や考え方の核として生物学は、もちろん自分の中にあります。でもそこに立脚してものごとを考える時、手の指の間からポロポロとすり抜けていくものがたくさんあるんですよ。劇作家の平田オリザさんが、ご著書やご講演で、井上ひさし先生が宮沢賢治について、『宗教だけでは熱すぎる。化学だけでは冷たすぎる。その中間に賢治は文化・芸術を置いたのではないか』と語っていることを指摘されています。すり抜けてこぼれ落ちたものを、どうやってすくい上げてどんな形にするかを考えた時、私の場合は芸術の中でも小説だったのです。

そして小説という形式で人間を書こうとすると、自分の中にある自然科学の考え方だけでは書けない事に打ちのめされました。科学だけでは到底無理だから、宗教が、美術や音楽、文学などの芸術がこの世に存在するんだなって。生物学的なヒトと広い意味の人間では、『生と死』の観点がどう変わるかというのは私の中で永遠のテーマです。人間を描くとは、どういう事なのかという答えが、自分の中で未だに全く出ない。それが書く原動力になっているんだと思います」

──例えば病院や施設などでは、生と死は非常にはっきりとした、目に見える形で日々繰り返されていますね。

穂高氏「私は循環器内科の研究室に所属していました。職場の上司は当然ほぼ全員医師ですが、大学病院の医師は診察よりも研究がメインなので、一般の人が思うイメージの医師とはかなり違うと思います。そこでの『生きる』ということは細胞単位なんです。生きるイコール細胞が活動していること。もう少しだけ具体的に言うと、一定の数の細胞が一定の時間でちゃんと死んで、ちゃんと新しくできる事なんです」

──細胞単位で生きているという考え方は、とてもユニークですが真理でもありますね。

穂高氏「でも一方で、それだけではいけないな、危険だなと自分でも思っていました。中にはちょっと人間臭い医師の先生もいて、実験の合間に病棟の患者さんの話をちらっとしたりするわけです。『昨日の夜は当直で、搬送されてきた患者さんが亡くなったんだけど、自分と同い年だったからちょっと、考えちゃったなあ』とか。そんな様子を見ると、『ああ大丈夫だ、この先生は人間なんだ、ここにはちゃんと人間がいる』と安心しました」

──本作の中でも主人公の悠が震災の様々な情報の混乱・錯綜に動揺し、自分自身を見失いそうになると、自然科学や宇宙のいろんな法則を頭の中で唱えて落ち着くという描写がありました。

穂高氏「私が実際そうしてきましたから」

──日常生活を失うとは、今まで生きてきた世界から続く安心感から、強制的に切り離されてしまうことなのかなと思いました。だから人は不安に苛まれ続けます。例えば街並みが無くなるにしても、再開発等でしたら、久々に帰った人にとってはショックでしょうけど、その地にずっといる人たちには一連の流れを経てのことです。説明会を受け、納得する時間を重ねてゆけるのですが、災害はそういうことはありません。人々の記憶や時間の流れと一切関係なく、大きな力で無くなってしまい、その後同じ場所が回復するための手段も与えられるとは限らない。強い余震も頻繁にあり戻れない。片付けや捜索も危険だからままならない。その不安というのは想像を絶します。

それまで連綿と続いてきたものが唐突に断たれてしまう、強制的にシャットダウンされてしまうという恐怖の中で過ごさなければならない。主人公・悠のお母さんの時間はそこで立ち止まってしまい『あっぺとっぺ』されているんですね。お母さんみたいな方が大半だと思います。

穂高氏「そうだと思います。実際家族やお知り合いを亡くされたところは、悠の母親のような感じでしょう。そのまま何もできず、過去に思いを巡らしても、過去に繋がるものも途中で断ち切られてしまっています。どうすればいいんだろう、どうにかしなければとは思っても、すでにご近所との繋がりすらなくなってしまっている方も多いですし。

この間八年……震災から八年経ち、何か変わったのかとちょっと尋ねてみたのですが、うちの母は何にも全然変わってないよって言うんですね。他の人も、変われないっていうのとも違うけれど自分としては変わっていない。変われないというのではないし、変わりたくないとも思っていないのだけど、事実として変っていない、という事を聞いて、なるほどなあと思いました」

──生活を建て直す手段や手続きというのも非常に煩雑で難しいそうですし、職員の方々ご自身も被災したり大勢犠牲になっています。様々なやり方にしても、自治体によって全然違うと本作にも書いてありました。主人公の妹・なっちゃんの仕事でもある不動産・住宅問題も、ものすごく大変なんですよね。

穂高氏「非常に大変だったそうで『本当に大変だったんだから、そんなにさらっと書かないでよ』と言われました。既存の報告書や業務マニュアルが全く通用しなかったそうです。小説の中でも主人公の妹・夏子は、定職に就かず作家を続ける姉・悠子だけではなく、立ち止まってしまっている母親や周囲に苛立っていますが、ある意味象徴的な人物になっているのかもしれません」

──妹のなっちゃんの視線を通して、もどかしさというか、現地で頑張り抜く人のイライラがよく分かります。最初から最後まで、東京と実家を往復しながら煩悶している悠さんの視点で書かれているとしたら、読み手にとってはつらいかもしれませんね。

穂高氏「それはもう手記というか私小説になってしまいそうでした。もし純文学でしたら、たぶんその手法で書くと思いますが、エンタメなので『私のことを見てください! 聞いてください!』ではなく、『こんなことがありました』という姿勢に徹することが重要だと思うんです。主人公・悠子だけの一人称で書いていたら、ちょっと手に取っていただきにくくなってしまうでしょうね」

──他の登場人物に目を向けてみると、事あるごとに悠子を励ます編集のYさんは好人物として描かれています。

穂高氏「実在の編集さんをモデルにさせていただいてもいますし、実は何人かを融合させて造形しています」

──混乱を抱えたまま東京に戻った悠子に電話で寄付を募る、正義感が暴走している若者も登場します。実にリアルだと思いました。

穂高氏「ご自分の一方的な正義をむき出しにすることを、暴力だと思っていないんだなあと思いました」

──自分達は良い事をしているのに、わからないのはお前が悪いという言い方ですね。

穂高氏「そうそう。『え、わかんないの?』という感じでこられると、こちらに非があるように思ってしまうんですよね。でも当時そういう人が多かった気がします。その時、ああこの人はこういう人だったのかと露呈したというか。自分も多分誰かにそう思われていると思いますが、非常時には人間性とか、そういうものはわかってしまうんだなと」

 

誰が、どこの、誰に向けて書くのか

震災や原発事故の直後、幾多の『識者』が極端な発言を展開し繰り返した。それらは未だに実質言いっぱなしのままだ。言った方はうまくフェイドアウトしたつもりかもしれないが、言われた側には深い傷が残る。

穂高氏「作品中には充分に書き切れなかったのが、情報の送り手の問題です。自分も言うなれば送る側の一部なのですが、報道に関しては疑問を抱くことがたくさんありました。でも本当に少ししか書けませんでした」

──マスメディアは影響が大きいですし、皆まずそれで情報を得ようとしていましたね。8年前はインターネットも今ほど荒れていませんでしたし。

穂高氏「よく調べないで発信してしまう人が多いんですよね。目に入ってきたもの、耳に入ってきたものは、一次情報としてそのまま受け取る人が多いので、非常に責任があるのに、なぜそんなことを発信するのか、って」

──情報を伝える媒体としての責任が、全般に軽くなっているのではないかと思います。

穂高氏「本当にそうですね。元々テレビはあまり観ない方なのですが、時たま観る限りでもクイズ番組や情報番組で、『これを食べると健康になります』など、非常に単純化されていますよね。その時ガーッと盛り上げて、あとはポイみたいな。でも現実として、そういう社会で本を売ってかなければならないのだとは常日頃から考えています。

以前、どこの誰に向けて書いているのかということを、とある方から言われたことがありました。文章のハードルを下げろと言われたこともあります。その方はエンタメ作品として一般大衆向けに書く必要性を言いたかったんだと理解しましたが、『そんなに読者を信じなくていいのか?もっと読者を信頼したいけどな』という気持ちが存在します。もちろんわかりやすく書くというのは重要ですけどね」

──若い人向けというのであれば、曖昧な情報が伝達してゆく世の中のまま、事実を伝えていこうとする方が難しいと感じます。頭の柔らかい子供たちならなおさら。中には社会的なネームバリューのある大人がおかしい事を言っているのを、むしろ子供の方がわかって醒めているというケースもあります。まことしやかに流されたことが既成事実化していくところを、子供たちは見ているわけです。大人としてそれは良くないと感じます。だからこそ、この作品が文庫になったのはとても意味のある事だと思います。

穂高氏「正直文庫にはならないかもしれないと思っていたのですが、無事に出て良かったです」

──本当に良かったと思います。ただ、かなり論議を重ねたのではないかと推察します。

穂高氏「実際単行本を出す時も、いろんな意見が出たそうです。ただ万民に、世の中の全員に受け入れられるものを作る、というのはもちろん無理で、様々な意見があってこそ小説だと思うんですね。なので『共感しました』と言ってくださるのももちろん嬉しいですが、『私はここはこう思わない』とか、『こう感じました』とか、いろんな事を思うきっかけに、この本がなればいいなと思っています。実際この震災もそんなに影響しなかったという人にこそ、たまたま綺麗な表紙のイラストに惹かれたり、買いやすい文庫だというきっかけだったり、そんな感じで手に取っていただきたいです。そして最後までお読みいただき、いろいろなことを思ってくだされば嬉しいです」

──自分に縁がないと思っていたのに存外身近だということは、本作にも書いてありますが、死というものが、概念とか数、象徴的なものとしてとらえられていくのではなく、身近なあなた、隣の人、今まで一緒に会話していた方の、急で一方的な喪失だと考える契機になればいいなと、一読者として思いました。

穂高氏「日常的なごくありふれたこと、いつでもどこでも在り得ることでも、小説として書くことによって、色々な世界の切り取り方を提示することができます。そうした様々な切り取り方を示すのも、小説家の仕事かなと思っています。本作は見る角度や位置が違うと、こんなふうにも見えますよと、それぞれの人物の視線で書いて連作形式にしました。そのいろんな角度から提示されたものを見て、ご自由に考えを巡らせていただきたいです」

大きな災禍に見舞われた人々を様々な角度から描く穂高明先生は、科学に裏打ちされた死生観と、溢れる感情で、読者に温かな明かりを灯してくれる作家である。後編では苦労しながら作品を書き続けた修業時代、離れても「東北人」であること、また震災後の『表現者』について語っていただいた。お楽しみに。

 

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穂高明

1975年宮城県仙台市生まれ。2007年「月のうた」で第二回ポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。同作でデビュー。「かなりや」(ポプラ社)、「これからの誕生日」「むすびや」(双葉社)、「夜明けのカノープス」(実業之日本社)など。自然科学、生命倫理の知識を生かした作品作りに定評がある。天文学の造詣も深く『星空案内人®』の資格も持つ。