山形城の宝 その1は「堀」

 

 初めて山形城を訪れたのは昭和55年夏のことだった。仙台駅から仙山線の電車に揺られ、途中、山寺「立石寺」に参詣したことを覚えている。

 電車が山形駅に近づいたころ、車窓から山形城二ノ丸の石垣が見えてきた。思わず身を乗り出したことは言うまでもない。前日見学した仙台城の石垣とは違う趣がある。電車が通る軌道は二ノ丸の堀底そのものだった。

お堀をはさんで城と鉄道が隣り合う

 そのときから数えて、もう何回この城を訪れたことだろう。そのたびに自分なりの新しい発見がある、楽しい城址であることは間違いない。そのときの気分は、まさに「宝さがし」だ。きっと、城址の地中には、とんでもない宝物(遺構・遺物)が眠っていることだろうが、その「宝さがし」のほうは山形市教育委員会の方々にお願いするとして、今日は、地上で目に見える「宝」をさがして歩こうと思う。

 JR山形駅西口から城址まではおよそ10分、少しだけ市街地歩くことになる。実は、この市街地ですら山形城の三ノ丸跡なのだ。

山形城を訪ねると、時間が許すかぎり二ノ丸跡の堀を一周することにしているが、1時間ではとても足りない。山形城址は現在「霞城公園」となっていて、その広さは約35.9ヘクタール、堀回りは約2.6キロ、その土手回りは約2.2キロもあるというから、それもそのはずだ。

紅葉が美しい山形城二ノ丸南側の水堀

 山形市の資料によると、本丸・二ノ丸・三ノ丸から成る山形城の規模は南北約1.5キロ、東西約1.6キロ、その平面規模の大きさは全国第5位だという。これは同時代の近世城郭との比較だろうが、相撲番付風に言えば「東関脇」だ。

 この城の異名を霞ケ城という。平城なのに「霞城」とはなにごとかと不審に思い、城址を案内してくださる方にその名の由来を尋ねてみた。

 関ケ原合戦のとき、徳川家康に味方する最上義光と、石田三成と結んだ上杉景勝が合戦となり、上杉勢が山形近郊の長谷堂城まで押し寄せ、ここで激戦になった。このとき、山城の長谷堂城から山形城の方を望むと「霞」に隠れて城が見えず、そこで「霞ケ城」と呼ばれるようになったそうだ。

 秋深い長谷堂合戦の季節、この地方には濃霧が発生するのだろうか。霞の発生源はその水堀だったのだろうか。

二ノ丸西不明門跡の石垣と堀

 山形城の水源は、堀の水を満たしてなお豊富だったのだろう。城地は奥羽山脈から流れ出る馬見ヶ崎川の流域にあり、広い扇状地が形成されている。

 地下水が豊かなわけだ。堀を掘った残土で土塁を築く「かき上げの城」を築くには好適地だ。

 では堀の広さを「正保城絵図」から数値データを拾ってみよう。

二ノ丸東大手門側
石垣高六間半 堀口十五間 深サ六間半 内二間半水アリ

二ノ丸南大手門側
石垣高四間半 堀口十五間 深サ四間 内二間二尺水アリ

二ノ丸西不明門側
石垣高三間~二間半 堀口十五間 深サ四間 内二間二尺水アリ

二ノ丸北不明門側
石垣高四間~二間 堀口十五間 深サ四間 内二間水アリ

 

 当時の1間は6尺(約1.81m)だが、地方や時代により6尺3寸(約1.90m)・6尺5寸(約1.95m)をもって1間とすることがある。標準的な6尺1間をもって山形城の堀を計ると、次のようになる。

二ノ丸東大手門側
石垣高約11.8m 堀口約27m 深サ約11.8m 内約4.5m水アリ

二ノ丸南大手門側
石垣高約8.1m 堀口約27m 深サ約7.2m 内約4.2m水アリ

二ノ丸西不明門側
石垣高約5.4m~4.5m 堀口約27m 深サ約7.2m 内約4.2m水アリ

二ノ丸北不明門側
石垣高約7.2m~3.6m 堀口約27m 深サ約7.2m 内約3.6m水アリ

 

 東北地方の近世城郭をみわたして、現存最大級の堀は久保田城址(秋田市)に残る三ノ丸南側の堀で広さ29間・深さ2間を計る。山形城二ノ丸の堀の場合は、堀回り約2.6キロという規模と、堀幅にばらつきが少ない規則性の良さは、東北地方の近世城郭において随一といってよい。

二ノ丸北不明門の堀と石垣

 上杉家の居城・米沢城もこれに負けない大きな堀を持つので、比べてみよう。

 山形城米沢城
二ノ丸東側の堀深さ6間半 広さ15間深さ2~3間 広さ12~15間
   南側の堀深さ4間  広さ15間深さ2間 広さ15間
   西側の堀深さ4間  広さ15間深さ2間3尺 広さ15間
   北側の堀深さ4間  広さ15間深さ2~3間 広さ13間

 どちらの城も平城で、縄張形式も輪郭式縄張り、築城時期(山形城は修築)もそれほど違わない。米沢城は石垣を持たない「土造り」の城だが、山形城は虎口(こぐち)という、城門が建つ場所だけは石垣造りになっている違いがある。

 今回は山形城を訪ねる旅だが、これからも山形県内の城を見て歩く。そのときは、堀にこだわって見ることにしよう。

 

山形城の宝 その2は「土塁」

 

 山形城の構造は平城ならではの造りになっている。典型的な輪郭式縄張りで、本丸を中心に据え、同心円状に二ノ丸・三ノ丸を巡らすというものだ。山形県内には同様の城郭が多く、地域的な特色といえよう。

二ノ丸の土塁には射撃を有効にする「横矢掛」が多い

 現在、本丸は霞城公園となっていて、内堀は埋め戻されて見ることができない。測量調査の結果、その規模は南北190メートル、東西170メートルと計測された。

 現在も堀と土塁に囲まれる二ノ丸の規模は、南北590メートル、東西530メートル(最大値)に及ぶ。国の史跡に指定されている所だ。

 三ノ丸は市街地に姿を変えてしまったが、南北約2,090メートル、東西約1,580メートルもあり、南北方向に広いつくりになっていた。ここには山形城主に仕えるサムライたちの邸宅、武家屋敷が置かれていた。

 JR山形駅の近くに土塁と空堀が残っている場所があると聞き、訪ねてみた。駅前大通を東に向かって歩くと、案外近い。見学用広場と大きなケヤキ林が目印になる。

市内十日町に残る三ノ丸の土塁遺構(見学用広場 城内側)

 土塁遺構の規模は南北約60メートル、東西約30メートル、高さは最高約8メートル、頂部の通路(馬踏)幅は約2.5メートル、底面の幅は約20メートルを測る(山形市の公式ホームページによる)。

歌懸稲荷神社の社殿。後ろに見えるのが土塁上のケヤキ林

 見学用広場に面する土塁は城内側で、反対の城外側に空堀が残る。幅約10メートルだが、往時は「堀口七間、深さ三間四尺」と正保城絵図に記される。幅約12.7メートル、深さ約7メートルという規模だ。現在は歌懸稲荷神社の境内になっている。私有地なので見学にはマナーと配慮が必要。土塁に登ることは禁止されている。

三ノ丸土塁(城外側)といまなお深い空堀の遺構
土塁跡の史跡解説板には城と城下町の地図が併載される

 

山形城の宝 その3は「石垣」

 

 東北地方の近世城郭で「石垣造りの城」といえば、会津若松城・白河小峰城・盛岡城ということになる。前に訪ねた二本松城の石垣もそん色ないし、仙台城石垣は大大名・伊達家の居城にふさわしい風格がある。

 そうしたなかで、異色の存在は山形城の石垣だ。盛岡城や仙台城・二本松城の石垣は堀を伴わず、地表面を掘り込んで根石を据え石垣を築くのに対し、山形城では堀の底から高い石垣が積み上げられている。これと同じものは弘前城でも見られる。

東大手門跡の高石垣は約12メートルもある

 今日見ることができる山形城の石垣は最上氏の手によるものではない。お家騒動のために最上氏が改易されたあと、山形城主となった鳥居忠政が元和8年(1622)に築き始めたもので、江戸幕府が修築を支援したことが知られている。壮大な土塁、広々とした堀、堅固な石垣が見られる理由が分かる。財政支援に加え、石垣築立の専門職人、幕府お抱えの「穴太(あのう)衆」が派遣されたのではないだろうか。

二ノ丸南大手門跡の石垣

 鳥居家は譜代大名、徳川将軍家の信任がとても厚かった。それゆえ、「最上百万石」とうたわれた、広い出羽国最上地方・庄内地方を治めるために、鳥居家の系譜に連なる大名たちが山形県域の各地に移封を命じられた。

 山形城の石垣は堀底から積み上げられるところに見応えがある。東大手門の石垣は高さ約12メートル。水中に隠れている根石まで含めれば14メートル近くになるだろう。石質は安山岩、いわゆる「打込みはぎ」の石垣で、割石の角を加工して石と石の接点を保つように工夫している。自然石主体の「野面積み」石垣では、石の形状に合わせ、相性の良い石同士を積み上げる。そこから「石の行きたいところに行かせてやる」「石の声を聞く」という名言が生まれた。「打込みはぎ」の石垣は、積み石本位の野面積みとは違い、石垣師の考え方ひとつで、石を積みやすいように加工するものだ。そのため、石垣工事が効率的になったことは言うまでもない。

二ノ丸広場に展示される「石を曳くための道具 修羅(しゅら)」
二ノ丸広場に展示される「石を曳きの図」
二ノ丸広場に展示される「石を割るための矢穴のあけ方」

 現在、山形城二ノ丸には東大手門・南大手門・西不明門・北不明門に石垣が残る。石垣はいずれも「打ち込みはぎ」だが、積み方はそれぞれ違い、同じではない。分担工事を行った結果で、これを「割普請(わりぶしん)」という。

 本丸でも城門の周囲に石垣が積まれていたが、明治29年に日本陸軍第8師団第32連隊が置かれることになり、そのため堀が埋め立てられた。

 現在、その堀跡の復元整備事業が進められていて、一文字門(本丸大手門)付近の石垣が再現されている。ここも見応え十分だ。

復元された本丸大手口の堀と石垣、一文字門桝形の高麗門
復元された本丸一文字門桝形の石垣

 ここでひとつ、「宝探し」をしてみよう。今日の「壺」になる話題だ。

 二ノ丸の堀端にめぐらされた土塁の上を歩いていると、その道幅がけっこう広いことに気がつく。このような通路を「馬踏(まふみ)」というが、この広さも山形城の特色のひとつだ。

 その道端に目をやると、土塀を据えた敷石「塀礎石」が残っているのが分かる。こうした遺構はとても珍しい。大切なものだが、意外に大事にされず、ほとんどの城址では失われてしまっている。

柵の外側に見える石列が「塀礎石」
「塀礎石」の説明板(上掲写真の場所とは違うところの説明です)
二ノ丸東大手門に続く土塀。塀の下に礎石がある。右は控え塀

 山形城では平成3年に二ノ丸東大手門が木造復元され、城門に付属する多門櫓や土塀も同時に復元された。そのため土塀と塀礎石の関係を実際に目で見ることが可能になった。土塁の上に登る雁木(がんぎ)という石段も整備され、安全に見学できるので、ぜひ見ておいてほしい。

復元された二ノ丸東大手門の渡櫓(二の門)と門台石垣
右側の門(高麗門)が一ノ門。左のスペースが桝形(ますがた)という空間になる

 塀礎石は見落としがちな小さな遺構だけれども、良く残されている。まちがいなく、山形城の「宝」と言ってよい。

 山形城では国史跡の指定を受けて、城址の遺構復元と整備が進められている。どうしてもハード面の整備にばかり目が奪われがちだが、城址には工夫を凝らした解説板や、石垣用石材の割り方、石の運び方などが図解と実物で分かり易く展示されている。このような見学者のための工夫にもぜひ注目願いたい。

国立公文書館デジタルアーカイブでは、山形城を描いた「出羽国最上山形城絵図」(諸国城郭絵図/正保城絵図)を高精細画像で閲覧することができます。ぜひアクセスして、堀や土塁、石垣の様子を見てください。
■国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000000277

山形市公式ホームページで山形城跡の歴史・発掘調査・復元事業の詳細が分かります。
■山形市公式ホームページ「国指定史跡山形城跡「霞城公園」」
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shisetsu/sub2/shisetsu_kankobunka/ecb45kajou.html

「デジタル毎日」2017年9月9日のニュースでは「塀礎石」のすごいニュースが見られます。
■毎日新聞「山形城 攻防一体の「屏風折れ」土塀 全国で初の遺構発見」
https://mainichi.jp/articles/20170909/k00/00m/040/200000c

 

 さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

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