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2018年、若き日の宮沢賢治をモデルとした全く新しい小説が世に送り出された。
20代の血気盛んな「賢治さん」が大冒険を繰り広げる『謎ニモマケズ』シリーズ。

冒頭から飛行船が登場し、外国の武装集団の影がちらつき、美しい外国人ヒロインと、遠野物語の緑濃き静謐な世界が国際的陰謀に巻き込まれていく。
知識と行動力でヒロインを救い、謎を解くべく疾走する賢治。

一見荒唐無稽に思える設定と展開に目を見張る冒険小説を生み出したのは、現代犯罪小説から絢爛たる時代小説まで幅広く手掛ける鳴神響一先生。
『脳科学捜査官 真田夏希』シリーズや『多田文治郎推理帖』シリーズなど、多くの人気作を手がける作家が満を持して挑むシリーズだ。
東北の歴史にも造詣が深く『天の女王』では伊達家家臣・支倉常長が率いた慶長遣欧使節団中、スペインに残留した侍たちが大活躍を見せる。

心から宮沢賢治とその世界を愛する鳴神先生への『東北』と創作の秘密についてのインタビュー後編。

 

一口に季節の変化と言っても

──新作『謎ニモマケズ』でも、緑の色とか濃さや明るさの描写が印象的でした。陽ざしがちらちらと揺れ緑に映える様子等、光の描写が強く印象に残ります。関東の日差しと東北の日差しは違うと思うのですが、ご自身が関東の山の中に入られる時と、東北の山に行かれる時では緑の感じ方が違いますか?

鳴神氏「違いますね。中でも北東北は夏の日差しが弱いと感じます。同程度に暑くても会津ではそうした弱さはさほど感じませんね。でもそれ以上に違うのは木々の植生です。僕が住んでいる南関東は元々照葉樹(常盤木)エリアです落葉樹を中心とした北の緑とは明らかに違うので、その違いを表現できるように努めました」

──自分事で恐縮ですが、木の葉は光反射の違いは上京して初めて感じました。東北は光を吸収するような感じがしましたし、木々もサイクルが違う気がします。

鳴神氏「それは感じますね。会津出身の父が南関東に転居し、一番求めたのは照葉樹なんです。冬場の緑というのは会津人にとって憧れでもあるようです。学生時代に秋田の友人と山梨にドライブに行った時に、彼が驚いていました。冬の陽が緑の山に当たっているのを始めて見たと」

──ああそれは分かります。

鳴神氏「秋田の冬は雪が積もり緑の山はないですから、冬の斜めの陽が緑の山に注いでいるのに新鮮さを感じたと言われて、ああそういうものかと感じ入りました。彼をはじめとした東北の友人と色々話す機会を得たのは大学に入ってからです。それまで狭い東京・神奈川エリアで育ってきた人とばかり接してきたのです大学という全国から色んな人が来るところの意義は、僕にとってとても大きかったです。

また別の話ですが、東北の女性に『雪は辛いが雪のない冬をずっと過ごしていると気がおかしくなりそう』という言葉を聞き、ちょっと驚きました。大学以降違う地域で育ってきた人たちに話を聞くようになり、地域による季節の感じ方の差というものを痛感するようになったんです。そんな感覚は、柳田國男の『雪国の春』というエッセイに分かりやすく書かれています「春」と言っても地域によって季節感が違うのだという話を、後年旅行をたくさんするようになって肌で感じるようになりました。例えばゴールデンウイークを例にとると、東北地方ではゴールデンウイークといっても雪が一杯残ってますでしょう。でも神奈川ではもうTシャツを着始める季節です」

撮影・鳴神響一氏

─東北では山に雪が残っていても里では桜がバーッと咲いて、土手ではタンポポと菫が一緒に咲いているという状況ですね。

鳴神氏「ゴールデンウィークに会津田島を旅した時にそんな光景に出逢いました。山にまだ雪が残っていて土手にいっぱいの桜とタンポポが咲いていてという景色です」

──二カ月分くらいの季節が一緒に来ますよ。

鳴神氏「そうそう。その話も柳田は書いていますがいっぺんに来るんですよね。彼の感覚は非常に優れていると思います。僕自身がそうだったように、多くの人たちが自分が住むエリアでしか考えられないし、また、大都市文化の感覚で全国の季節が語られることが多いのですが、日本は土地によって季節感が大いに違うという事を念頭に置かなくてはなりません。だから同じゴールデンウイークを迎えても、東京と東北では当然違うはずなんですね。

東北の話ではなく恐縮ですが、北海道は美瑛の方とお話した時『美瑛はゴールデンウイークが一番つまんないんだよ』と仰っていました。雪が溶けて足元はぬかるんでいるし、木々もまだあまり芽生えていないし綺麗じゃないんだよと」

──わかります。東北でも雪融けのぬかるみはけっこう長く続きますが、その雪自体も内地とは質感が異なりますから、積もり方も溶け方も全く違うのではないでしょうか。

鳴神氏「そうなんです。美瑛は多雪地帯ですから、そういう意味では恐らく美瑛と網走では違うだろうし、美瑛と本土の秋田や青森、ましてや東京は全然違うと思います。そういう地域ごとの季節感というのは、物語を書く上でも大事にしたいと思いますが、その目を開いてくれたのは柳田國男の『雪国の春』です」

 

情景描写について

撮影・鳴神響一氏

鳴神氏「僕は作家になろうと思い立ったのが40過ぎで、それまでは旅行ばかりしていましたが、旅先で何度も経験した気候や地域差が今の仕事にとても役立っています。冬の寒さや植生の違い、山道を歩くとはどういう事かなど、肌で実感し素晴らしい財産になっています。『謎ニモマケズ』は間違いなくそうした体験に基いた山のシーンが書ける仕事でした」

──私もこれは実際に歩いた方による描写だと思いつつ読みました。

鳴神氏「ありがとうございます。でもあまりに山奥の箇所は無理なので記憶に基いたうえで想像を膨らませて書きました。遠野には行きましたが、作中に書いた山奥の場所までは行けませんでした」

──相当厳しい場所ですよね。

鳴神氏「地図上から大分想像がつきますが、そこは他の土地での経験で得た『ここに沢があるからここの道に進むと沢を高巻きするな』という感覚に基づいています。また遠野に行ったときの植生などの色んな記憶を組み合わせて構成しています」

──海の色とかも場所によって違いますし。

鳴神氏「全然違いますね。先ほども言いましたが、僕は高校二年の旅で初めて能代の海辺で日本海を見たのですが、信じられないほど素晴らしく透き通っているのです。それまで相模湾と東京湾しか見たことがなかったので、何て透明なのだろうと衝撃を受けました。

大学生の時、海沿いを下北半島から津軽半島にかけてクルマで走った時も、海の透明さに驚きました。能代は夏の朝ですが、ああいう透明度というのは太平洋側ではあまり見られないものです。夏の日本海の透明感は素晴らしいですよ。あの海を思い出すと日本海に行きたくなりますからね」

 

原風景としての姿と冬支度 

 

──東北の自然に対して都会の人、南の人は『母なる大地』的なものを感じるのかなという時があります。  

鳴神氏「東京に古くから働きに来ているのは東北と関東甲信、新潟の人が圧倒的に多いです。明治維新以降は西日本からの人もたくさん来るようになりましたけど。文化という意味合いから言うと、そういう名残りのようなものがあるのかもしれませんね」

──そういう普遍的な変わらなさ、母性の象徴のような見方で東北の自然や山々を『原風景』としてとらえる人が多いという気がします。

鳴神氏「間接的な答えになるかわかりませんが、印象的な出来事を思い出しました。山形は飯豊山脈の麓、小国のあたりを旅した時に、不思議なほどに懐かしさを感じたんです。

というのは、今仰った日本の原風景というのは、おそらく水田をメインにした農村風景だと思います。僕がその時に飯豊で懐かしさを感じたのは、太古の昔、東北はこうだったんだろうなという感慨からです。例えば江戸初期、津軽地方に水田はありませんでした。稲作というのは元々南の文化です。例えば秀吉の時代は熊本県が日本で一番美田が多かった。だから肥の国、肥えてる国なわけです。肥後、肥前。あのあたりが日本で一番米のよく捕れる地域でした。それを農民の方々が品種改良と大変な努力を重ねられた末にどんどん北上し、やがて東北が米どころになっていくわけです。が、それ以前の東北地方は延々と林が広がっていたのです。

関東平野という湿地帯に対して、東北地方というのは、現在水田が広がっている土地に原生林が続いていたんですね。縄文時代はもちろんですが、室町以前の日本はこういう景色が続いていたんだろうなというのを、僕は飯豊の山麓で思い巡らせました。山では木の実や動物、川では魚が豊富に捕れた、という景色を感じたんです。

また違う話をしてごめんなさい。でもそれが僕的には『日本の原風景』だったんです。日本の原風景を東北の農村に見出すという感覚は、僕の場合はあまり無いですね」

──都会の方々は、私たち東北人が感じるよりもずっとセンシティブなものを、東北という地に対して抱いているんだな、としばしば思います。

鳴神氏「なぜでしょうね。僕は東北を遠いと思わずしょっちゅう行っていたので、そうした感覚が乏しいのかもしれません。北の農村風景は大好きですが、僕にとっての原風景は飯豊の深い山麓でした。あそこはいいところですね」

──熊さえ出なければいいところですが、山で人と熊が遭遇する機会も増えていますから。

鳴神氏「でもそれは反面、自然の恵みが豊かだということなんですよ。いま人と熊のバランスが崩れているかもしれないけれど、元々は豊かな土地でないと熊も生きられないわけです。あれだけの大型獣を養うだけの自然があるわけですからすごい事ですよ。

今の話で思い出しました。昔秋田の友人の感覚に驚かされたのですが、秋の雪が降る前にたくさんのきのこを収穫し、それを工場に持ち込んで缶詰にしてもらうんですよ。同時に家の中いっぱいに白菜や大根を買ってきて、どんどん漬物にしちゃう」

──山形でもそうします。縁側や廊下の端から端まで青菜や白菜で埋まりますね。

鳴神氏「昔は冬場に野菜が流通しなかったから、冬への備えのために漬物にしておくわけです。南関東ではお新香は箸休め的なものですが、秋田の友人の感覚ではそれは漬物、ガッコじゃない。漬物というのは丼に山盛りに出されるサラダ、いや、むしろ主役級のおかずになる野菜料理なんですね。名物料理で紹介した「かやき」も、冬になれば漬けてあったはたはた…しょっつると、漬けた野菜を煮るわけですから」

──生ものは塩漬けにしたり瓶詰にしたり干したり様々な方法で保存しますね。

鳴神氏「だから、そういう物を秋までに整えておかないと冬の間お米以外食べるものが無くなるから、ちゃんと備えなければ、という危機感に、僕はすごく新鮮な衝撃を受けましたね」

──衝撃ですか?

鳴神氏「それはそうです。だってこちらは冬でも野菜がとれますから」

──逆に自分の上京当初は、それがとても不思議でした。なぜ小松菜が冬にとれるんだろうと。

鳴神氏「僕の住んでいる神奈川県の茅ヶ崎は、市街地を少し外れると畑があり、冬も青々と野菜作っています。関東では小松菜は冬の物ですし、そうした『備える』という感覚が全くなかったんです。でもその秋田の友人の話と野菜の収穫期の話を繋ぎ合わせて納得しました」

──関東はぬか漬けとか、ちまっと出されるでしょう。あれは嗜好品だなと思うのですが、東北の漬物は嗜好品どころではなく大きな樽に大量に仕込んでいました。

鳴神氏「秋田の友人のおばさんも、ぬか漬けの事を『あれは都会の人の漬物だ』と言っていたそうです」

──こちらは仕込む量が多いからそんなに手間をかけていられないのですよね。塩を丼に入れて樽に入れた白菜の上にバーッと撒きます。外に置いておくと野菜は凍りますから、冷蔵庫か雪の下に埋めなくてはならない。食べる時は庭の木を目安に見当をつけて掘りだすんです。

鳴神氏「その話も聞いた事があります。僕の住む海沿いの南関東地方にはない感覚なんで、すごく面白いと興味を持ちましたね。冬支度というのはこの辺ではあまり見られないですよ」

──そうなんですか。うちの近所ではお店に物が入荷してもお年寄りなんかは車が運転できず、かといって雪道を歩いて行けないという事もありました。今のように配達が一般的になる前はご近所や町内の人が買い物を代行してくれたりとか。

鳴神氏「ああ、いい話ですねえ」

──今は厳しくなったので無いでしょうが、昔は郵便局の局員がお年寄りに頼まれて、代わりにお金を下ろして持ってきてくれたりという事もありました。ともかく雪で行けませんし、皆顔見知りですから」

鳴神氏「いい話というか、大変な話ですよね。雪国のそうした文化というのは最初父から、次に大学の友人からたくさん聞いて、旅行する度に実感していました」

──魚の保存食も干物でしたね。特に父が好きでしたので、乾燥にしんを何日もかけて戻して、手間暇かけて煮つけてもらっていましたね。京都のにしんそばに似たものです。

鳴神氏「会津地方もやはりにしん料理が盛んですね。会津人の父は、塩引きの鮭の色んな料理法を知ってますね。例えば味噌、醤油、味醂に漬ける料理などもあります」

──びりびりと塩辛い鮭ですね。今は減塩対策でなかなか無いですよ。

鳴神氏「でも昔は腐敗を防ぐため塩引きしかないから、色々創意工夫して料理を生み出すわけですよね」

 

『謎ニモマケズ』について

 

──満を持して書かれた『謎ニモマケズ』では、若い賢治さんの視点から見たきらきらと眩しい自然がたくさん登場します。一方自然と人工物、当時の科学工学の成果の最たるものだった飛行船や、水上偵察機も。

鳴神氏「ああ、あれはね。無理に連れて来た感がありましたね(笑)」

──偵察艇登場シーンは映画を彷彿とさせましたが、読み進めるうちに人工物と自然との対比が斬新だと感じました。

鳴神氏「対比は徐々に出しているんですよ。僕の想像ですが、賢治は当時の文化の最先端の匂いが好きだったんです。だから遠野の発電所に何度も行っています」

──新しい物や機械を見るのが好きだったのでしょうか。

鳴神氏「当時まさに日本で産業革命が行われ始め、新しい動力等が盛んに入って来た、明治以来の変革期の最盛期なんです」

──明治から大正と時代が進むと加速度もつきますね。

鳴神氏「そうです。しかし科学の恩恵は、東北の遠野や花巻にはまだまだ届いていなかった。だからその頃は、江戸時代以来のライフスタイルがまだ存在したわけです。昔ながらの生活の中にあってたまに見る鉄道、発電所、そういったものはものすごく近代的に映ります。だからこそ賢治は何度も遠野の発電所に行ったり鉱山を見に行ったりしてるわけですね。賢治にとっても、近代を強く感じさせるものだったんでしょうね。だから僕も作品中で発電所を出しました。もっとも最後の舞台は、賢治のエリアからはみ出すところまで行ってしまっているわけですが」

──あそこ(クライマックス)はこう来たか ! と思いました。

鳴神氏「もう、ぶっとんだ話ですけどね(笑)」

──いえいえ面白いです

鳴神氏「あそこまで持って行かないと面白くないだろうと思いました。でも充分にあり得る話なんですよ」

──柳田先生再登場の場面は思わず笑ってしまいました。あそこで『待たせたな諸君』と言わんばかりに登場するとは思わなかったので、柳田先生すごいと。

鳴神氏「あはは。柳田先生はとんでもない国際人でエリートですし、外国にも何度も行っていますから、クライマックスで登場させてみました」

──柳田先生は今でいう社会的成功者とみていいでしょうか。

鳴神氏「ところが必ずしもそうではないのです。確かに途中までは官僚として成功しました。実は彼は若い頃文学を志していたのですが、それでは食べていけないと官僚になったのです。優秀なので農林省内で出世しましたが徳川侯爵、宗家の徳川侯爵(徳川宗家16代当主・家達。当時貴族院議長)とそりが合わなくて衝突しました。彼が貴族院書記官長、今でいう参議院事務総長だった当時です」

──完全にエリートなのに……

鳴神氏「そう。超エリートです。でも徳川侯爵貴族院議長と合わずあっさり辞めてしまいます。朝日新聞嘱託という身分になった直後の姿を、物語に登場させました。柳田先生は実際に大正九年の夏に佐々木喜善の家に行き、物語では省略しましたが松本信廣さんという、後に慶應義塾大学の教授になった方と三陸に旅をしています。喜善が一歩遅れて行ったというのも本当なんですね。で、喜善と松本氏との三人で気仙沼の方から上った旅の記録を、柳田は『豆手帳から』というエッセイとして残しています。さらに、喜善が三陸へ出かけてしまったところへ、入れ違いにネフスキーが来たという実話があるのです。僕は喜び勇んで、そのエピソードをストーリーに組み入れました」

──最初の飛行船の墜落もショッキングでしたね。

鳴神氏「遠野物語的な世界の中で、飛行船と分かるように書いてみました」

──分かるように書いてあっても時世が時世なので、飛行船なのかもっと軍事的な、きな臭い物なのかを探りながら読んでいました。

鳴神氏「なるほど。ちなみに硬式飛行船としては昭和四年にツェッペリン号が来日しましたが、それまで日本人は大型飛行船など見ていないので、何だかわからないのですね。史実として日本の人たちが見たと言っても、東京周辺の人だけですし。その時は霞ケ浦飛行場に降りたわけですけど、東京で私の祖母が見ているんですよ。祖母は当時中野に居て空になんか大きなものが浮かんでいると目撃し、すごくびっくりしたのですが、聞くのも恥ずかしくて人に言えなかったそうです。まったく何だかわからない奇妙なもの。それが当時の人の飛行船に対する感想なんですよ」

──そうですね。飛行船の巨大な形が空に浮いているというのは信じられませんよね。

鳴神氏「空に大きなものが浮かんでいるけど何だかわからない。僕はそういった話を祖母から聞いていましたから、普通の人が飛行船を見ても絶対何だかわからないだろうなと思って書きました」

──なんで巨大なナマコが浮いているんだくらいな。

鳴神氏「空になんであんなものがあるんだろうと、そういう感覚だったはずなんです」

──作品中では『わからない人』の目線になっていますね。

鳴神氏「そう。その目線で書いてるわけです」

──で、対比するように明晰な賢治さんが登場するわけですね。そしてさらに知識人の柳田先生も登場し、だんだん世界が開けて行く感じですね。

鳴神氏「そういう風に書き進めています」

──冒頭から話が進むにつれ近代化に関する視線が深くなっていくような気がします。

鳴神氏「結果的にそうなっていますね。鉄道の敷設など色々な地域の近代化が進む中で、昨日までは思いもよらなかったことがいきなり目の前に現れて来る時代です。例えば飛行機を見た人は飛行機にショック受けるだろうし、自動車だってそうかもしれません。今までは想像も考えもしなかったものが何もかもどんどん現れたのが大正という時代です。それをある意味象徴している部分かもしれませんね」

──まだ幕末の、江戸の方がご存命の時代ですしね。

鳴神氏「もちろん沢山ご存命です。僕の曽祖父は戊辰戦争で朱雀一番隊に属して戦っていますが、大正まで生きていました」

──江戸の幕末に生まれた方が壮年期というか中年期にかかったころに、ものすごい勢いで時代が。

鳴神氏「そう。変っちゃった」

──これから都会ではものすごいスピードで発展していくのでしょうけど、登場する遠野の幼女、琴畑マユちゃんの周囲の世界ではあまり進まないように想像できます。

鳴神氏「そう。そういう意味では、あの子はまだ『過去』にある遠野の象徴という形で出ているのです」

──いわゆる遠野物語的な童女としてですか?

鳴神氏「そう。僕は彼女に遠野物語の世界から登場してほしくて、そういう感じで出したつもりです。『遠野物語』に収められているのはほとんど明治期のエピソードですが、産業革命とは無縁な静かな山奥の村から出てきたのがマユちゃんですその平和な世界に、近代化した世界の方から大挙して押し寄せてきたという、実はそういうところをストーリーの根っことして象徴的に組み入れています」

──革命とか権力交代とは全く無縁の人たちの所に、海外からも押しかけて来たわけですね。ご一新というか『明治』という新しい世の中になった事もわかっていないところに。

鳴神氏「もちろん何もわかっていないと思いますよ」

──何が起こったかわからないけれど、いつの間にか将軍様ではなくなって。

鳴神氏「そう。今までと変わった所と言えば、役人が着物じゃなく洋服で現れるようになって」

──お米ではなく税金、お金で納めるようになったとか。

鳴神氏「その程度だと思います。だから全然わかってないんですよ」

──分かってない人たちのところに、いきなりヨーロッパとかロシアの革命とか皇族とか登場します。そこからは『押しかけた人達のお話』がものすごい勢いで進んでいくんですが、マユちゃんは賢治兄ちゃんと、遊んでくれた金髪のお姉ちゃんが困ってるみたいだから、出来るだけの事はしてあげたいという心持ちでいるんですね

鳴神氏「そういう事です。で、賢治はその二つの世界の中間に居て、どんどん新しい知識やものを吸収したいと思っているけれど、まだ柳田やネフスキーのような真の国際人ではありません。国際的な視野を持っている可能性はあるし、そうした知識に貪欲な青年ですから、その中間にいるわけですね」

──だから自覚はしていないかもしれませんが、身体的なことや自身の境遇の事もあり、二つの世界の間で非常にアンビバレンツ(分裂的)な状態なのだと思って読みました。このまま(近代派、国際派に)飛び込んでみたい。でも地元岩手に根を下ろし皆の為に働くのも意義ある事だというように、色んな可能性を模索していた時期だと思うのです。

 

宮沢賢治という若者の可能性

鳴神氏「賢治はよく聖人君子的に農民に寄り添った人、農業指導者として描かれます。それはその通りなのですが、他にも色んな可能性を秘めていたはずなんですよ。東京への憧れの余り、無理やり上京して体を壊してしまうまでの情熱を持った人ですし、本当は違う生き方も色々考えていたはずです。でも病を得たという事が彼を消極的な行動にした。僕が思うに、もし賢治が結核を患っていなかったら、また全然違う人生を辿ったのではないでしょうか」

──それは思います。それこそバリバリ旺盛に。でも元々の体は頑健だったようですね。

鳴神氏「そのようです。賢治と妹のトシ以外、つまり結核にならなかったご家族は皆さんご長命ですから、多分賢治も病さえなかったら長生きしたんではないかと思います」

──文壇に進むかどうかはわからないですけれど。

鳴神氏「わからないですね。科学者になった可能性もありますし、また違う事をしたかもしれないし。僕の書いた賢治はよく『私の考える賢治と違う』と言われますある意味仕方のない事で、実に多面的な人だと思うんですよ。本当に色んなとらえ方が出来るし、正体がよく分からないところが面白いです」

──自分の世界が定まる前に亡くなってしまったというか。

鳴神氏「そういうことが間違いなく言えますね」

──色んな道の分かれ目の所に差し掛かったところで亡くなってしまったような。彼が選ぶことが出来たのはたまたま歩んだ農業指導の道だけではない気がします。

鳴神氏「その通りです。ただ文芸において言うと賢治は言葉の天才であるうえに、他の人が持っていない凄い発想力を持っている。例えば「銀河鉄道の夜」も、当時誰も考えなかった一つの幻想小説であると同時にSF的な要素も強いわけです。誰もが考えつかない時代に小説として書いた。まさに天才ですよね」

──登場人物の名前のカンパネルラとかザネリとか、絶対に考え付きません。

鳴神氏「そう。彼はそういう洋物が大好きなのです。カンパネルラという名前の由来はリストの「ラ・カンパネラ」というピアノ曲を聴いたことにあるそうです。それをジョバンニの親友の名前にした。そもそも星祭りとかケンタウルス露を降らせとかにしてからが、日本どころかどこの国でもない、賢治の考えた国ですよね。あのヨーロッパっぽさ……ジョバンニ、カンパネルラですからイタリアぽくはあってもイタリアでもないし。

はっきりしているのは、賢治はプロテスタントとカトリックとは繋がりがあったという事です。本作で東方正教会と繋がってたというのは、私の創作ですが(笑)」

──でもたぶん観に行っているでしょうし、興味関心はあったと思います。

鳴神氏「大いにあったはずですね。あの当時正教会の聖堂が盛岡にありましたから。小説では関心があるように書かせてもらいました。しかも花巻には正教会ないので盛岡の教会を花巻に移しちゃいましたけど」

 

若者を描くという事

 

 

──『謎ニモマケズ』を読ませて頂いて若者像について考えました。大人の振り返る、若い頃の自分を投影した若者像ではなく、本当にその若さの真っただ中にいる等身大、アンビバレンツな感情の中で自分を御しきれず、考えも整理しきれていないし考えて行動しているのではない、一見考えているようでも気が付いたら行動してしまっている賢治の姿というのが、とても好ましく素敵だなあと思いました。

鳴神氏「ありがとうございます。そういう風に描きたかったので、お言葉のように受け取っていただけると最高です。自分が頑張らなくてはならないと思っているのはまさにそこです。つまり僕は24歳くらいの息子がいても不思議ではない年令ですし、下手すると31歳の真田夏希(『脳科学調査官 真田夏希』のヒロイン)だって娘でおかしくないくらいなんですよ。

とはいえ、息子や娘くらいの青年や女性を、彼らと同じ心になって書けないと駄目だと思っています。とても難しい事ですが、55歳のおじさんから見た24の男、31歳の女はこうだろうと書いたら絶対に駄目だと思っています。どうしたら作中でその年齢を生きられるかというのは試行錯誤してるし、悩んでもいます。今仰ったような形で受け取っていただけたら大変にありがたいです。僕が目指していることのひとつです」

──ただし本作『謎ニモマケズ』的な書かれ方をされると「違う」という反応は来るかもしれないなとも思いました。先生が描かれているのは生の賢治さんなので。

鳴神氏「そうそう。まだ若いですし、決して聖人君子ではありません」

──額縁の中の聖人ではない分、読む人のとらえ方によっては強い反応が出るだろうなと思いました。

鳴神氏「そういったご意見は若干いただいていますが、ある意味仕方がない事だと思っています。誰にでも受け入れられるという賢治像はあり得ないですからね。賢治を描くにあたって危惧していたところです盛岡・花巻周辺の人にしてみれば偉大なる郷土の偉人ですから、僕の考える生の人間として描いたのですから反発もあって当然です。さらには賢治に本当に逢ったこともないのにというご意見ももちろんあると思います。

でもそれを言っていたら小説は書けないのです。ただ古い時代の人物、例えば織田信長だとそこまで強烈に感情移入している人は多くないかもしれないけれど、賢治さんはそうではない。そういう意味では彼は厳しいキャラクターですよね」

──そうですね、大正から昭和の人ですからね。

鳴神氏「時代的に近いという事もありますし、賢治自体がものすごく人気のある人ですから。それでもなぜあえて僕が賢治を主人公にしたかというと、それは単純に大好きだからです」

──わかります。作品中には更に深いところで自然と関わっていく人、国の農業政策に関わっていく人、故郷から拒否された人と、色んな境遇の人たちが出てきますよね。だからあの時代の先、日本が歩んでいく道というのを思うと、自然と感慨深くなります。日露戦争の勝利や隣国の革命に翻弄される異国の人たち、アンビバレンツな若い賢治、そしてある意味達観している柳田先生と、色んな人物がそれぞれ違う時代のスピードの中で生きているなあと、その多層的な世界観と時間の流れを思いながら読みました。

鳴神氏「そう。キャラはいつもそんな感じに作れればなと思っています。登場人物の今までの生き方によって、組織に対するコミットのあり方は違ってきます。時代性の中でも当然違ってくる。そのあたりをきちんと描ければと心を砕いてはいますけど、出来ているかどうかは難しいです。まだまだ修行中の身なので」

──組織に属したいのに属しきれない人物も登場しますね……心のガードが固いんですね。

鳴神氏「僕は生身の人間とはそういうものではないかと思っています。だから、僕の描く人物はどれもすっきりとしないと思うんですよ。理想のために全てを捨てて迷いなく邁進する人物はあまり好きではないので描かない方です人間は迷いとか、ブレとか揺れの中で生きているはずです。思ってる通りにいかないなかで悩むし、初めは固かった意思だって苦難に遭えば揺らいでゆく。例えば仮にスーパーマンを書くことになっても、全ての面で万能というのはあんまり好きではないのです。揺らぐ人物は揺らぐままに描きたいんですよ」

──スーパーマンじゃない部分をどう書くか、そういう部分であ、こういう人だったのかと意表を突くか、それともえっと拍子抜けされるかですかね。

鳴神氏「そういうところが難しいです」

──はじめどう思われても、引っかかってもらえればこちらの勝ちかなと思うのですが。

鳴神氏「それにはまず買って読んでもらわないといけないのですが(笑)」

──賢治さんは作中では20代の青春真っただ中、この後は心のエネルギーは上がっていっても、体力的にはある意味緩やかに減衰していく状態になりますね。だから彼自身が一番もどかしいと思うんです。その葛藤の端緒はもう既に作中に出ているので、そこら辺が読んでいて非常に愛しいなあと思いました。『謎ニモマケズ 宮澤賢治の冒険』というタイトルに惹かれて買った方は、大抵彼のその後の運命を知っているわけですね。

鳴神氏「ええ、当然ご存知ですね」

──知っていてもなお応援したくなる賢治さんでした。

鳴神「ありがとうございます。嬉しいです」

 

多面的な青年・賢治

──本作品は自然と人との共存や営みや、色んなものが描かれていて、でもベースは冒険ものですね。

鳴神氏「僕が冒険ものを好きなので(笑)」

──賢治さんもとても冒険好きだったのではないかと思います。

鳴神氏「そうなんです。精神的にも身体的にも。だから最初に肋膜炎と診断され山歩きを禁じられたことが彼にとってショックだったようですね。で、そのことが高等農林の助教授の口を断った理由の一つとして繋がって来るのです。彼自身は、ごく日常的な身近なところでも冒険好きだった人だと思います」

──すごく悪戯心があった人なんじゃないかなと思います。

鳴神氏「そうです。ユーモアたっぷりですよ。これは意外と知られていないですが、帽子被って下を向いて歩いている有名な写真がありますね。あれは何をしてるのかご存知ですか? 日照りの畑を心配する賢治とか思われていますが、実は違うんです。ベートーベンの真似してるんですよ。ベートーベンがハイリゲンシュタットの散歩道を歩く話をどこかで聞いて、散歩する様子を真似しただけなんです。お茶目でしょう。だから意外に賢治って誤解されてるんです」

──誤解というか、聖人化されていますね。

鳴神氏「その通りです。あれは本人が楽しんでいる一発芸なんですね」

──撮ってもらって『どう? 似てた? そっくりでしょ』みたいな。

鳴神氏「そうそう、そういうノリなんです」

──写真館から引き取った写真を見て、皆で『おお似てる』と盛り上がっている様子が想像できます。

鳴神氏「賢治って多分にそういうところがあるんですよね。意外に生真面目なところばかりではないんです。もちろん真面目な人ですが、そういうところばかりにスポットが当たっているのが、僕としては若干残念であるわけです。生真面目なところはもちろん賢治の大事な側面ですけど、そこだけではない。とにかく人間的な幅の広いユーモラスな人。だからもっともっと色んな側面から見てほしいというのが願いではあります。

ただ同時にそれが作品として現れた場合、彼の旧来のイメージを壊すことにもなっている事は否めません。色んなご意見を頂きますが、作者としてそれを受け止めたうえで、新たに創作に生かしていきたいと思っています」

 

過去の人物であれ現在であれ、人とその周りの世界を作って動かすという事の難しさ。

現代は歴史の真実のみを追い求め、歴史のフィクション、「もしも」が示す可能性を膨らませた小説というものに厳しい時代なのかもしれないが、地域を取材し季節や風土の違いに着目しながら生きた「人を描く」ことに真摯に取り組み次々と新作を世に送り出す鳴神響一氏の示す東北、東北人、新時代の文化の伝播の様子は私たちに色んなものを語り掛ける。

長らくお付き合いいただきありがとうございました。

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鳴神響一

神奈川県生まれ。2014年「私が愛したサムライの娘」でデビュー。同作で第6回角川春樹小説賞、第3回野村胡堂文学賞をダブル受賞。
17世紀のスペインと日本を舞台とした歴史活劇「天の女王」やコミカライズもされている「鬼船の城塞」、他「影の火盗犯科帳」「多田文治郎推理帖」、 横浜を舞台にした神奈川県警の若き女性捜査官の活躍するミステリー「脳科学捜査官 真田夏希」
青年期の宮沢賢治が大活躍を見せるサスペンス活劇「謎ニモマケズ」等シリーズもの多数。
熱烈なフラメンコファンでもあり、スペイン文化やクラシック音楽などにも造詣が深い。

オフィシャルサイト『銀河鉄道ネット』

http://www.gingatetsudo.net/