二本松といえば、幕末の少年隊に菊人形

 

 福島県には数多くの名城がある。連載2回目の「城あるきの壺」は、歴史の古さでは東北地方随一の山城といわれる、二本松城を訪ねることにしよう。
 ここは、霞ヶ城公園と呼ばれる県立自然公園だ。
 前回、弘前城の堀端を訪ね歩いてみたところ、「アードベック」さんをはじめ多くの方々から共感をいただいた。城の歴史についてあれこれ解説するよりも、遺構を見て、そこから城のどんな価値が分かるか、画像をご覧いただきながら説明していくことにしよう。この記事を読んで、お好みの季節に城址を訪ねていただければ、これほど嬉しいことはない。

 二本松城といえば、幕末・明治維新のときの悲しい歴史を忘れることはできない。幕末という、複雑怪奇な社会情勢もよく分からないまま、年少ながら御家のために戦うことを余儀なくされた、二本松少年隊の健気な戦いぶりに心が痛む。会津白虎隊の陰に隠れがちだが、そのときから150年の時が過ぎ去ろうとしている。

ここが二本松城址の入り口。「霞ヶ城址」の碑が迎えてくれる
箕輪門の前にある、二本松少年隊の戦いを再現したブロンズ像

 

 そしてもうひとつ、二本松といえば有名な「にほんまつの菊人形」を忘れてはならない。昭和30年(1955)に始まった祭りは、東北の菊花展では最大の規模と人気を誇る。その会場は二本松城址三ノ丸跡だ。

 

必見! 大手門跡の石垣

 

 二本松城址を訪ねるには、JR東北線二本松駅から歩いて約20分が必要だ。
 現在の駅舎は二代目だが、私が初めて二本松市を訪れた昭和48年(1973)当時の駅舎は、なんと城郭風の駅舎で、威風堂々としていたことを思い出す。
 駅前の通りを北に向かって少し歩けば旧国道4号に直交するT字路交差に出る。その向こうには二本松領内の総鎮守・二本松神社(熊野社・八幡社)の森が見える。

 この道は、かつての奥州街道で、この通りに沿うように城下町が整えられていた。城下の東から西に向かい根崎・竹田・亀谷・本町・松岡・若宮の六町があった。町の東西の入り口には「木戸」があり、城下と城地=郭内を隔てていた。
 駅前からの道を右折後、間もなく見えてくる久保丁口交差点を左折すると、やがて大手門跡の石垣が見えてくる。
 大きな切石の平面をノミで丁寧に、平滑に仕上げた、亀甲崩し積みと呼ばれる技法で築かれている。江戸時代後半の積み方で、それもそのはず、天保3年(1832)に完成した。石垣の上には白壁に瓦を葺いた大きな二階門が建てられ、大手門と呼ばれるようになった。

近くには市立図書館・歴史資料館があるので、まずはそこで二本松城の予備知識を仕入れておくのがよいだろう。

二本松城大手門跡。かつては前面に水堀があり、城門を二重に構える桝形虎口だった

 

山また山の城と城下町

 

 二本松城を目指して久保丁坂を上る。見た目以上にけっこうきつい坂道だ。この山の向こう側に二本松城がある。坂道の両側には武家屋敷が建ち並んでいたが、このような切通状の道は3ケ所にあった。東から亀谷町坂・久保丁坂・新丁坂と呼ばれ、一番堅固な道筋がこの久保丁坂だった。
 この山は観音丘陵と呼ばれている。谷間に寺社(法輪寺・松岡寺・八幡社・熊野社・称念寺・蓮華寺など)を置き、山腹の切通、新丁坂・久保丁坂に沿って諸士屋敷を配する構成だ。
 戦いのときには、二本松城の前衛基地、防壁となるところだ。
 前に述べた城下町もそうだが、この観音丘陵の寺社は、今も昔のように残っていて、江戸時代後期の城下図コピーを手に、散策することも可能だという。

 観音丘陵の頂部に立つと、眼前には二本松城がある城山「霧山」が聳えている。
 その山麓が郭内とよばれる武家地で、東西約1.5キロメートル、南北約700メートルもの広さがある。ここに整然とした武家屋敷が立ち並んでいたのだ。今は二本松市街地だが、その家並みは、往時の武家地の姿をほうふつさせる。

観音丘陵から二本松城址を望む。山麓の三ノ丸には箕輪門と白い土塀が再現された

 

築城600年の歴史を誇る

 

 見学する城が二本松城であり、今日の「壺」なところが野面積みの「大石垣」となると、やはり戦国時代以前からの歴史解説が必要になってくる。

 現在、福島県中央部のことを「中通り」と呼ぶ。
 阿武隈川流域に開けているこの地方には、古代には官道「東山道」が、中世には「奥大道」が通っていた。
 白河・岩瀬・安積・安達・信夫・伊達の6郡が置かれ、当時は「仙道六郡」と呼ばれていた。歴史的に有名な地帯である。

 南北朝時代(1331~1391)になると、室町幕府の命により、後に二本松城を築く畠山氏の祖・畠山国氏が奥州探題としてこの地に下向、その嫡子・畠山国詮が二本松市の近郊塩沢の地に田地ヶ岡館を築き居館とした。
 その後を継いだのが畠山満泰で、約2キロ東の「霧山」に築城の工を起こした。阿武隈山系の裾野にある標高345メートル、比高110メートルの山頂は、白旗が峯と呼ばれ、この城が二本松城と呼ばれるようになる。

満泰が居館を移した時期については昔から諸説ある。
 応永21年(1414)とする説、嘉吉年間(1441~1443)とする説があるが、『二本松城沿革誌補遺』はさらに古く、応永11年(1404)のこととしている。

 いずれにせよ、600年を超える歴史をもつ、東北地方随一の歴史的名城であることは、疑う余地がないだろう。
 平成26年には、二本松城築城600年に関する行事があり、11月には全国各地から歴史愛好家・研究者が駆け付け、記念講演会「今、二本松城を考える」が開かれたことが記憶に新しい。

平成26年11月30日(日)、築城600年記念講演会が開かれた。(主催 二本松市教育委員会/会場 福島県男女共生センター研修ホール)

 

睨み合う、南奥の戦国大名たち

 

 戦国時代には仙道制覇を狙う伊達輝宗・政宗父子と、これを阻もうとする南奥州の戦国大名・国衆が激しい戦いを繰り広げた。

 国衆とは、一郡程度を領地とする中小領主のことで、戦国大名ほどの軍事力・組織性・自立性はない。領主権力も確立しておらず、もめ事の解決や重要な決定は一族の合議で決まることが多いといわれる。戦国大名の領国支配にみられる分国法のような掟、決まりもない。だから、複数の国衆が連携しあい、共通の敵・戦国大名の攻略に立ち向かうのだ。

 伊達氏に対抗する勢力は会津の戦国大名、蘆名義廣を筆頭に、畠山氏(二本松氏)・岩城氏・白河結城氏・二階堂氏、そして相馬氏で、彼らは常陸国の戦国大名、佐竹義重と連携を保っていた。

 一方、伊達氏は小田原の後北条氏と誼を通じ、敵勢力の背後にいる佐竹氏への牽制を忘れなかった。

 このような勢力図をみると、陸上交通はもちろん、阿武隈川という河川交通の要衝を抑え、交易の場を擁する二本松の城と城下集落には拠点性があり、畠山氏が満泰以降7代にわたり居城とし、仙道6郡に威を振るった歴史を理解できよう。

二本松城址二ノ丸跡から望む仙道地方

 

奥羽戦国史の名場面、あのシーン

 

 天正13年(1585)10月8日、畠山義継は自ら城を出て、伊達氏に服属すると見せかけ、一瞬の隙をついて伊達輝宗を拉致した。
 救援に駆け付けた伊達政宗と粟ノ須で激しい合戦となり、乱戦のなかで、輝宗と義継が相討ちになったのだ。
 脚色されたものではあるが、この事件は、戦国史の一場面としても有名である。

 父親が危険にさらされているとの急報に接し、戦闘現場に駆け付けた政宗に向かい、父・輝宗は、「わしにかまうな、政宗、撃て!」と命じる。政宗は涙をのんで、父もろとも、鉄砲で畠山勢を撃ち果たすのであった。
 事実、この戦いを境に政宗の二本松城攻めは熾烈になった。

 しかし攻防戦は一進一退、南奥の諸将の多くを敵に回すなかで、政宗は翌年7月、城の明け渡しと停戦を実現する。義継の遺児・義綱は居館を自焼し会津に去り、二本松城は伊達氏の持城の一つとなる。城代には伊達成実が派遣された。

 

豊臣秀吉、全国統一への布石

 

 政宗はその後、会津の蘆名氏を滅ぼし、南奥羽のほとんどをその支配下に収めるが、この戦いは豊臣秀吉の怒りを買うことになった。
 秀吉はこの頃、戦国大名同士の私戦を禁止する触れを、関東・奥羽の諸大名にも出していて、その総監督を託されたのが徳川家康だった。
 秀吉に近い佐竹氏と蘆名氏、政宗との連携を探る北条氏。この戦いは、秀吉の全国統一構想のゆくえにもかかわるものだった。

 天正18年(1590)に小田原城の北条氏が秀吉に降ると、今度は有名な「奥羽仕置」が始まる。それは太閤検地、諸城破却、大名妻子の上洛(人質政策)、農民から武器を取り上げる刀狩りの強制で、豊臣秀吉による支配の始まりだった。
 そして、東北地方の戦国大名の本領を、どのように再編成するか、それも大きな目的だった。評価に当たっては、秀吉の敵か味方かが最重要視され、次いで忠誠度、貢献度という視点で決められていったようだ。

 政宗は、秀吉の私戦禁止命令に背いたため、せっかく手に入れた会津・仙道地方を召し上げられ、居城がある置賜郡米沢に引き上げることになった。
 その「奥羽仕置」の責任者である浅野長吉(後の長政)や石田三成、徳川家康が拠点としたのが二本松城だったのである。

 かつて奥州探題が居城とした、奥羽支配のうえで由緒ある城だという認識が、豊臣政権の代表者たちにあったか、どうか、それは分からない。
 多分、それはないだろう。そういう古いしがらみを破ることこそ、秀吉が目指した天下統一への道なのだから。
 それ以上に、伊達氏と反伊達氏勢力が常に対峙し続けた、仙道六郡における二本松城の拠点城郭としての位置、重みが評価されたのである。
 浅野勢が奥羽仕置の進展を監督した後、会津・仙道地方は蒲生氏郷の分国となり、二本松城を取り上げられた伊達政宗は、その動きを牽制する蒲生氏により、ふたたび監視されることになった。

二本松城址から名峰 安達太良山を望む。美しいこの光景を、多くの戦国武将が眺望したことだろう。

 

観音丘陵から本丸の石垣を望む

 

 歴史の話が長くなってしまった。
 再び、話を観音丘陵からの眺望に戻そう。

 切通の道を跨ぐ陸橋を渡り、今は住宅地となっている高台の道を西へ向かって歩くと、ほどなく、林の中から二本松城本丸を真正面に臨む場所に出る。
 城山の頂上本丸に、天守台と称される花崗岩の石垣が聳えているが、その直下に、擁壁のような石垣が見えることに気が付くだろう。
 夏の季節では草木が繁茂し、眺望は妨げられるが、桜が咲く前や晩秋にこの場所を訪れると、誰もが雄大な光景を目にすることができる。

二本松城本丸跡の石垣を、城の東南側にある高台、「観音丘陵」から望む

 

 上掲の写真を見ると、白く朝陽に映える、本丸天守台の石垣が目につくが、その真下、緑色の二ノ丸の切岸と共に、古びた石垣が見えるだろう。この擁壁のような石垣こそ、今日の城歩きの「壺」、その主役「大石垣」である。

 石垣が完成した時代は、豊臣秀吉の天下統一が完結目前にせまり、戦国時代が間もなく終わりを告げようとする、天正年間末頃から慶長年間初め頃(1590?~1597?)と考えられる。
 この石垣こそ、南奥州の支配者が畠山氏から豊臣政権の意を受けた大名へと変わったことを、この地方に暮らす全ての人々に認識させる、象徴的存在だったのである。
 「土造りの山城」から「石垣造りの山城」へ。石という、霊力が宿ると信じられた物体を高々と積み上げることで、新しい時代の、権力の強さを見せつけたのだ。

 

本丸跡へ上る「城内道」を探る

 

 その場所を訪れるべく、観音丘陵を下り、郭内の街並みを通り抜けて霞ヶ城公園の入り口に立つ。

 三ノ丸に上がるためには、昭和57年に復元された箕輪門をくぐる。江戸時代の城絵図と見比べると、復元された箕輪門や脇櫓は、必ずしも往時の姿を再現したものではないことが分かる。
 三ノ丸の石垣は江戸時代の寛永年間初期、会津若松城主となった加藤嘉明によって築かれたもので、すっきりと横目地が通った、布積みという技法が中心となる。

 そうした石垣を気にかけながらも、今日は、観音丘陵から見えた、あの「大石垣」を目標に、本丸を目指し、自然公園内の山道をひたすら歩く。

復元された箕輪門。櫓門は往時の様式を模したものだが、左右の櫓は模擬建築だ

 

 三ノ丸から本丸に登るルートは複数ある。公園整備のおかげで、木屑を敷き詰めたエコな道が作られるなど、トレッキング気分で城歩きを楽しむことができる。
 城の歴史に裏付けられた、城としての登城道は、現在二本松市教育委員会によって調査が行われている。
 平成26年には、全国から気鋭の城郭研究者6名が集まり、2日間、実際に城址を歩き、古絵図を検討しながら、「大手道」の推定作業が行われた。

この道は、果たして「大手道」か、「城内道」か、調査と整備が待たれる

 

 その結果、「大手道」に相当する登城ルートはほぼ定まったが、二本松城が機能していた約450年間の間、城主は畠山家から伊達家へ、さらに蒲生家・上杉家・蒲生家・加藤家(城主は松下氏)、そして幕府領を経て丹羽家へと変遷した。当然、時代が変われば城の機能も変わり、登城道、城内道も変わり続けたことだろう。

 推定された「大手道」には、通行上、難所のような所もあるというし、何よりも遺構を保護するうえで、むやみに人を上らせるには、慎重であるべき所も多いようだ。整備されるのは、まだ先のことだろう。

 

野面積みの大石垣を仰ぎ見る

 

 そんなことを考えながら、歩きやすく整備された園路を上っていくと、やがて眼前に、あの「大石垣」が見えてきた。まさに、野面積みの傑作である。

「大石垣」側面、隅角部を見る。法面を保護する石垣で、曲輪を囲むものではない
「大石垣」を仰ぎ見る。高々と積まれた野面積みに圧倒される
説明板には「大石垣」の実測図も備わり分かり易い
数年前の秋に訪れたときの写真。真正面から「大石垣」を仰ぎみる

 

 早速、お目当ての「大石垣」にカメラを向けることになったことは言うまでもない。同時に遺構説明板を写しておくことを忘れてはならない。
 二本松城址を訪ねると、発掘調査の成果を丁寧に分かりやすく、このような説明板にまとめている。見学者にはこのうえなく、ありがたいものだ。
 それによると、この石垣の来歴はこうだ。

本丸下南面大石垣

 二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつです。築石(つきいし)は野面(のづら)石(自然石)と荒割(あらわり)石が用いられ、その積み方は古式の『穴太積(あのうつ)み』と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニックです。

 大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、数石しか〝横目地(よこめじ)〟の通らない、いわゆる「布積(ぬのづ)み崩(くず)し」の積み方です。

 勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法(のり))」を主体に構築されています。天端(てんば)付近は積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられます。

 二本松城が会津(あいづ)領の支城(しじょう)となった慶長(けいちょう)初期頃、蒲生氏郷(がもううじさと)に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって築かれた石垣です。

 石垣規模 [幅]現天端部:約15m

         基 底 部:約21m

      [高さ]約13.5m [ノリ長]約17m

      [勾配]約8分4厘(約50度)

 

 解説板の説明では、慶長年間初期の石垣構築(石垣普請)ということだ。
 私自身の見解としては、もう少し早い時期、天正年間末期まで遡ってもよいのではないかと思っている。
 それは、浅野長吉の命による石垣普請を想定しているからだ。

 当初は、蒲生氏郷配下の穴太衆による石垣普請を有力と考えていたが、先年、浅野長吉配下の穴太衆が積んだと思われる、甲府城の野面積み石垣を見学したとき、その可能性を感じたのである。
 今後、識者にご教示いただきながら、石垣基底部の状況などを見比べるなど、慎重に検討しようと思う。

 

これだけではない、二本松城の凄さ

 

 二本松城址を訪ねると、加藤家・丹羽家によって築かれ、維持された近世城郭二本松城の石垣がよく残る。
 しかしそれ以上に、城址には戦国時代の遺構がよく残り、伊達氏との抗争のなかで城郭が強化されていった様子がうかがえる。

 山頂の本丸から北・東・南へ尾根がのび、北側に3筋、東側と南側に1筋の堀切を入れて尾根を切断していることが特に目を引く。
 東の堀切の上には松森館(東城)があり、南の堀切の端には新城館(西城)が造り出されている。注目すべきは、この二つの館を結ぶように、城山の北側を巡る空堀が掘られていることだ。この遺構は失われ、自動車が行きかう登山道になったが、一部に往時の土塁が残されている。

 次回、二本松城歩きのときには、この「大石垣」をはじめ、城内に残る石垣遺構を訪ね歩きながら、「壺」になる遺構を探そうと思う。

二本松城址の案内図

 

 さて、今日のお話は、みなさんの「壺」にはまっただろうか。

 ご意見をお待ちしています。

また、「城あるき」のリクエストもお待ちしています。(*「城あるき」のリクエストは「まいにち・みちこ」編集室までどうぞ(お問い合わせのリンクが開きます